ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第64回)

2020-01-22 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(3)倒幕運動の始動と担い手
 江戸幕府による「開国」以来、それに対する反作用に由来する尊王攘夷運動は、西日本の外様諸藩と将軍を輩出しない親藩水戸藩から生じた。中でも西端の辺境領主である薩摩藩主島津氏は、江戸開府前の内戦・関ケ原の戦いでは反徳川方にありながら特赦された経緯にふさわしく、長く幕府に面従した末、最終的には最有力の倒幕主体となった。
  薩摩藩と手を組んだ長州藩主毛利氏も、本州最西端のある種辺境領主であったが、やはり関ケ原ではいったん反徳川方西軍総大将となりながら赦免されるも、減封を伴う領地替えを受けた経緯があり、長く面従した後、倒幕に転じても不思議はなかった。
 水戸藩は歴代藩主が俗に「副将軍」となる有力な親藩でありながら、幕末になって反幕府に傾斜していくのは一見不可解であるが、同藩は2代藩主徳川光圀以来、水戸学と総称される学術・イデオロギーを担う藩でもあったことが、幕末に倒幕イデオロギーの拠点を提供することになったと考えられる。
 これに加えて、京都の朝廷に孝明天皇という積極的な参政意志を持つ天皇が久方ぶりに出現したことも、倒幕運動に活力を与えた。そもそも、攘夷運動は、自身思想的な排外的国粋主義者であった孝明天皇が勅許なしの「開国」に激怒したことに発しており、米欧列強も彼こそが攘夷の最大の黒幕と認識するようになった。
 攘夷運動が単なる攘夷でなく、尊王と組み合わさったことも、孝明天皇の一貫した攘夷姿勢のなせるわざであり、仮にも彼が幕府の開国方針をあっさり承認し、幕府と歩調を合わせていたら、攘夷運動は尊王ではなく、反王運動となり、幕藩体制のみならず天皇制をも廃する「反王攘夷運動」、ひいては共和革命に発展していた可能性すらあったかもしれない。
 こうして、尊王攘夷運動ひいては倒幕運動につながる朝廷‐水戸藩‐西日本外様諸藩という連合勢力が形成されるわけであるが、より仔細に担い手を見ると、尊王攘夷運動が倒幕運動へと転化するにつれ、徳川家臣下という身分から動きの取りにくい藩主層に代わり、青年下級藩士層の主導性が高まっていく。
 中でも、外様諸藩で倒幕主体となった薩摩・長州・土佐の三藩からは、平時ならば藩内役職にも就けないような下級藩士が台頭し、維新後には明治政府や軍部の高官を多数輩出することになる。かれらの存在なくしては、明治維新もその後の明治政府の展開もなかったと言って過言でないだろう。
 かれらに加え、岩倉具視に代表されるような本来なら朝廷の高い役職に就けない低位の公家を含め、幕末倒幕運動では幕府の権威が急速に衰微していく中、ある種の下克上的な階級変動が起きていたと言えるだろう。
 他方において、幕末倒幕運動では民衆の不在性も際立っている。この時代の民衆の圧倒的多数はいまだ農民であった。かれらは幕末の経済的混乱の中で困窮し、再び一揆で抗議していたが、これは近世伝統の農民的抗議活動の域を出ず、倒幕運動に直接発展する性質のものではなかった
 もっとも、後に初代内閣総理大臣に就任し、最も著名な明治元勲となる伊藤博文は、長州農民の生まれであったが、少年期に足軽の養子となったことで、最下級ながら武士身分を獲得しており、農民身分のまま倒幕運動に参加したわけではなかった。
 一方、都市では商業で成功した富裕な町人が富を蓄積し、諸藩に対する債権者としても経済的には優位に立っていたものの、封建的商人階級の域をいまだ出ず、近代的ブルジョワ階級としては未分化であった。かれらもまた封建的な身分制のもと、参政意志は乏しく、倒幕運動の主体とはならなかった。
 こうして、幕末倒幕運動は、西欧的な立憲革命でも、ブルジョワ革命でもなく、緩やかに結合した外様諸藩の青年武士を中心的な主体とする、ある種の青年将校グループによる下剋上革命の性格を強く帯びていくことになる。かれらは下級といえども武士であり、武器の使用法を知る者たちであったから、この先、武力革命への展開が予想された。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 共産法の体系(連載第6回) »