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近代革命の社会力学(連載第265回)

2021-07-20 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(2)チュニジア革命

〈2‐2〉社会主義への転化と撤回
 1957年の共和革命から1960年代の社会主義化へ向かうまでの間、最初期ブルギバ政権は主として教育や医療、男女平等といった社会分野での近代化に注力する一方で、独立後もフランス海軍が駐留していたビゼルテ基地からのフランス軍の撤退を求めてフランスと短期交戦したビゼルテ危機の処理などに忙殺された。
 そうした最初期の国造りが一段落したのが1961年であるが、この年は同時に、社会主義化の起点でもあった。その際、ブルギバが政策の司令塔役として起用したのが、1903年生まれのブルギバよりも20歳以上若い労働運動出身のアーメド・ベン・サラーであった。彼は1957年という早い段階で公衆衛生相に抜擢されたが、61年には計画相兼財務相に起用された。
 こうして国家計画と国家財政の両輪を掌握したベン・サラーは、62年から71年までの野心的な10か年計画を策定し、チュニジア経済の自立的発展を目指した。その眼目は、外国投資の50パーセント以下への制限と生産協同組合の創設、土地の国有化であった。
 1964年には、政権党である新立憲自由党は立憲社会党(SDP)に党名を変更し、政治的にも社会主義を綱領とするとともに、ソ連共産党をモデルとした一党支配体制を確立したのである。ただし、SDPはマルクス‐レーニン主義を綱領としておらず、基調は旧党名時代と大差なかった。
 むしろ、この新規体制はSPDが形式的な選挙を通じて全議席を確保する一党独裁の上に、ブルギバも形式的な大統領選挙で100パーセントの得票率をもって多選を重ねる独裁体制の糊塗に利用されただけであった。
 ベン・サラー主導の社会主義政策も中途半端で、完全なソ連モデルのシステムが確立されたわけでもなく、公企業と私企業、協同組合が並立する混合経済の域を出ないもので、60年代末までに経済は行き詰まり、給与の遅配など暮らしを脅かす兆候が表面化した。
 1969年1月に不満を募らせた市民による抗議デモが多発、治安部隊との流血衝突が発生し、政策の失敗が明瞭になると、ブルギバは行動に出てベン・サラーを解任したうえ、同年9月には「社会主義の実験の終焉」を宣言した。
 それだけでは済まず、ブルギバはベン・サラーを党からも追放し、70年には反逆のかどで裁判にかけ、10年の重労働刑に処すという過酷な制裁を科したのである。彼は後に脱獄してアルジェリアに亡命、新党を結成して反体制運動を続け、遠く2010年代の民主化革命で復権を図るが、これは成功しなかった。
 ともあれ、政策責任者への厳罰という象徴的な幕引きをもって「社会主義の実験」が終焉し、70年代以降は経済自由化の方向へ舵が切られるのである。このような自在な政策変更は、老齢に達したブルギバを1987年のクーデターによる失権まで延命させた秘訣でもあっただろう。
 しばしばブルギバ個人の名を冠してブルギビスムとも呼ばれる主義は、アラブ連続社会主義革命のエートスであったナーセルの汎アラブ民族主義の潮流とも異質であり、外交面でも、ブルギバは早くからイスラエルとの関係正常化を模索していた。
 そうした意味においても、1957年を起点に取ればアラブ連続社会主義革命の先鋒であったチュニジア革命は、同時期の諸革命から外れた独自の位置を持つと言える。その成果面は、チュニジアをアラブ世界でも有数の男女平等性の高さに象徴される近代化を前進させた点にあると言えるかもしれない。


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