ザ・コミュニスト

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英国労働党史(連載最終回)

2014-10-15 | 〆英国労働党史

結語

 ブレア政権を継いだブラウン政権は、ちょうどかつてサッチャー政権を継いだメイジャー政権のようなものであった。熱気の中で始まった先行長期政権との比較から、必要以上に過小評価され、首相の指導力不足が指摘された。
 ブラウン政権に代わって初の総選挙となった2010年総選挙では、ブレアを立てた13年前の労働党と同様、若く新鮮イメージのデーヴィッド・キャメロンを党首に立てた保守党が勝利し、政権を奪還した。
 こうして「第三の道」は正式に終幕した。同時に、それは労働党史上最長の二代13年に及んだ与党生活の終わりであった。この「第三の道」時代は好況続きであったことも、歴史的な長期政権を可能とした追い風であったが、そうした風も2008年の世界大不況でやんでいた。
 ここでもう一度振り返ると、英国労働党はマルクス主義諸政党や共産党とは一線を画した英国独自の社会主義的な労働者階級政党として結党されるも、柔軟な党運営により、旧来の自由党に取って代わり、保守党に対抗する議会政党として議会政治に深く根を張った。その間、党は浮沈を繰り返しながらも資本主義の修正を試み、最終的には資本主義と完全に共存する第二の自由党として再生された。
 結果的に、第三極として現在は保守党と連立を組む自由民主党との差も相対化している。米国ほどではないが、「第三の道」以降、労働党が中道に寄ることで、英国政治のスペクトラムも狭まり、共産党を押しのけて労働党が埋めてきた左派の領域が空白になっている。10年総選挙で、小選挙区制の難関を突破して環境政党・緑の党が初めて1議席を獲得したのも、そうした左派の空白を埋めようとする小さな動きとも取れる。
 かつて労働党が自由党に取って代わったように、緑の党が労働党に取って代わるのか、それとも「英国の謎」を解き放って遅ればせながら英国でも共産党が台頭してくるのか、まだはっきりと見通せない。
 それは「第三の道」を終えた労働党が今後どこへ行くのかにもよるが、これもまだ未知数である。さしあたり、ブラウン党首を継いだのは1969年生まれという若手のエド・ミリバンドである。彼はやはり労働党の若手有力議員であった兄のデーヴィッドとともに著名なマルクス主義政治学者ラルフ・ミリバンドを父に持つが、マルクス主義者ではない。
 ブラウン内閣で外務大臣を歴任したブレア派の兄と党首選で争ったミリバンドは、「第三の道」からは距離を置こうとしているように見える。彼は「前分配政策」という理念の支持者を公言する。それは税や社会給付による公正な分配以前の段階で、政府が平等性を確保しなければならないという理念であり、伝統的な党内左派の福祉国家理念からも離脱しようとしているとも言えるが、その内容は曖昧で実質に欠けるところがある。
 スコットランド独立問題の背後に潜む地域間格差や、宗教テロの温床となる移民社会との格差などの問題が表面化する中、労働党は「第三の道」の復刻か、左派への原点回帰かの岐路に立っている。(了)

[追記]
2015年総選挙の結果、労働党は20以上議席を減らし、ミリバンド党首は辞任した。敗因は、労働党の伝統的地盤であるスコットランドで台頭してきたスコットランド民族党(スコット党)に議席の大半を奪われたことにあった。代わってスコット党は議席を大きく伸ばし、保守・労働に次ぐ第三党に躍進した。スコットランド地盤を半永久的に失った労働党にとっては万年野党か、イデオロギー的には近いスコット党との共闘かの選択を迫られることになろう(詳しくは拙稿参照)。その場合、「第三の道」復刻か、原点回帰かという点に関して言えば、伝統的左派路線に近いスコット党はブレア主義には否定的と見られ、「第三の道」復刻路線は非共闘・万年野党化―あるいは保守党との大連立―の道となるのではないだろうか。

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英国労働党史(連載第11回)

2014-10-14 | 〆英国労働党史

第5章 「第三の道」と復活

3:ブレア時代(1)
 1994年に労働党党首に就任し、結党理念から大改造したブレアの下で最初の選挙となった1997年総選挙は、こうした「再生労働党」を有権者の審判に委ねる選挙となった。対戦相手は前回選挙と同じ、メイジャー保守党であった。
 前回選挙でも保守党は議席を減らしていたが、冴えない印象のメイジャー首相は不人気であり、対照的に弁舌鋭く、さわやかイメージの若いブレア人気もあり、保守党敗北が予測された。結果は、想定を超える労働党の圧勝であった。労働党は空前の418議席を獲得したのに対し、保守党はわずか165議席の惨敗で、スコットランドとウェールズでは全議席を喪失するありさまであった。
 こうした圧勝の熱気の中でスタートしたブレア政権は、これまた労働党史上最長の10年に及ぶことになるが、それは大きく前半期と後半期とに分けることができる。
 ブレア政権は党内左派の視点では右派的と一元的に断じられることが多いが、仔細に見れば前半期のブレア政権の施策は保革二面性を備えていた。保守的側面は、労組抑圧や民営化といったサッチャー「革命」の枠組みを全否定せず、継承した点である。特に教育や医療の分野では市場・競争原理をサッチャー‐メイジャー時代より拡大した面もあり、左派の批判にさらされた。
 一方、革新的な側面としては、大陸的な最低賃金制度の導入や、労働者の権利強化などの左派路線にも沿う一連の社会経済改革がある。また名誉職化していた上院(貴族院)議員の世襲貴族議席を削減し、一代貴族中心に再編した上院改革や、連合王国を構成するスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの自治権を強化するなどの民主的な改革も革新的な面である。
 こうした保革二面性は労働党の伝統的支持基盤である労働者階級やスコットランドなど周縁地の地盤をつなぎとめながらも、かねて「サッチャリズム」の支持者であった中産階級にも食い込むというブレアの党再生戦略とも符合するものであった。
 21世紀最初の英国総選挙となった2001年の選挙は、こうしたブレア政権一期目の成果を問う審判となったが、結果は5議席減らしたものの、ほぼ現状維持での勝利であった。この選挙では投票率が初の普通選挙年とされる1918年以来最低を記録したが、それも「第三の道」に対する有権者の暗黙の支持と言えた。

4:ブレア時代(2)
 ブレア政権の右派的な性格が増すのは、イラク戦争をはさんだ後半期である。ブレア政権の軍事政策は、労働党伝統の平和主義ではなく、好戦的だったサッチャー政権と似ており、01年の9・11事件に基因する「テロとの戦い」でも、当時のブッシュ米政権と歩調を合わせ、参戦している。
 最も論議を招き、党内左派からも非難を浴びたのが、03年のイラク戦争への参加であった。米国への無条件的な支持に突き進むブレア首相に反発する閣僚や準閣僚らが相次いで辞任し、政権の分裂が表面化する中、ブレアは批判を顧みずイラク参戦に突き進んだ。
 周知のように、イラク戦争では開戦の大義名分とされたイラクによる大量破壊兵器保持の事実がなかったことが事後に判明したことから、ブレア首相に対する左派や戦没兵士遺族らからの批判は強まり、退任後に参戦過程での情報操作疑惑を独立調査委員会からも問われることになった。
 イラク戦争参戦批判は05年総選挙結果にも影を落としている。ブレア政権下で二度目となるこの選挙で、労働党は依然300議席の大台を維持して勝利したものの、50議席近く減らしている。
 治安政策でも後半期のブレア政権では保守政権並みの右派色が強まった。元来、ブレア政権の治安政策は保守的な「法と秩序」政策に近いもので、警察権限の強化やテロ犯罪に対する取締りを強化する反テロリズム法制定などが一期目から進められていたが、総選挙直後の05年7月に起きたロンドン同時爆破事件は、こうした傾向をいっそう強めた。
 テロ事件を受けて議会に提出された新たな反テロリズム法をめぐっては、テロリズムを讃美することを可罰的とし、テロ容疑者を最大で90日間勾留できるとする独裁国家さながらの当初法案が人権上の観点から党内外で厳しい批判を浴びたため、下院でも否決され、大幅に修正のうえ成立した。
 ブレア政権にとって下院での法案否決は、97年の政権発足以来、初めてのことであり、イラク戦争以後のブレア政権が身内の与党内でも支持基盤を弱めた証拠とみなされた。
 実際、ブレア首相は06年には早期退陣の意向を表明し、三度目の選挙を待たず、政権発足10年の節目となる07年に退任した。後任にはブレア内閣で一貫して財務大臣を務めてきたゴードン・ブラウンが就き、ブレア政権は終幕した。

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英国労働党史(連載第10回)

2014-10-13 | 〆英国労働党史

第5章 「第三の道」と復活

1:苦節18年
 1979年総選挙でサッチャー保守党に敗れた労働党は、その後、総選挙では三連敗と野党生活が続くが、97年総選挙でようやく政権を奪還するまでの苦節18年は、党史上「荒野の時代」と呼ばれている。
 この間、またもや左右両派の党内抗争が勃発した。しかし党内では依然左派が優勢であり、一部右派は81年に離党して新党・社会民主党を結成した。これは労働党史上初の明確な分裂であった。
 この新党は名称こそ社会民主党を名乗るが、マルクス主義政党に沿革を持つドイツや北欧諸国の同名左派政党とは異なり、リベラル保守の自由党とも相当程度重なる中道政党であった。事実、両党は83年総選挙では共同マニフェストの下に選挙戦を展開し、88年に至り合併した(89年以降、自由民主党として現在に至る)。
 一方、労働党では80年に党首に就任した左派マイケル・フットの下、83年総選挙では銀行国有化や福祉増税、一方的核廃絶など左派色の濃厚なマニフェストを提示して原点回帰戦略を取ったが、結果は世論調査などで予見されていたとおりの惨敗であり、サッチャー保守(反)革命を持続させただけであった。
 この敗北を受けて辞任したフットの後任には、ニール・キノックが就いた。キノックも左派の出身であったが、より現実主義的であった彼は左派色を薄める方向に出た。しかしキノック指導下でも党勢回復は進まず、87年、92年と総選挙では連敗し、結果的に9年間に及んだキノックの野党党首在任は英国史上最長記録となった。
 このようにキノック時代は冴えない印象であるが、キノック時代に労働党の左派色が漸次薄められていったという点では、彼こそ90年代末以降の「第三の道」を準備したとも言える。

2:ブレアの登場
 キノック党首の下では最後の総選挙となった92年総選挙は、保守党側も11年にわたって首相を務めたサッチャーが90年に退任し、ジョン・メイジャー首相に交代して初めての選挙であった。メイジャーは「鉄の女」サッチャーとは異なり、いささか陰の薄い首相であり、労働党にとっては巻き返しのチャンスであったが、この時も労働党は議席をある程度取り戻したものの、政権奪回には届かなかった。
 より大胆な党再生戦略が必要とされていた時に現れたのが、トニー・ブレアであった。ブレアは保守党員で弁護士の父を持ち、自身も弁護士であった。彼はフット党首の時代に労働党国会議員となり、早くから将来のリーダー候補として注目されていたところ、キノックの後継になったジョン・スミス党首急死を受けた94年の党首選で当選し、初の戦後生まれの労働党リーダーとなった。
 ブレアの党再生戦略は、それまでの労働党主流とは一線を画し、党の支持基盤を保守党支持の中産階級にも食い込ませるというものであった。そのために、彼は1918年以来の歴史を持つ党規約第4条の削除を主導した。同条は生産・分配・交換手段の共有化をテーゼとする社会主義的な条項であり、従来の労働党の半社会主義政策の根拠ともなる党のバックボーンであった。党内右派はこの条項の削除を悲願としていたが、左派が優勢な時代には実現できなかった。
 しかし、野党暮らしの長期化という党の危機に直面して、もはや第4条削除に強硬に反対する勢力はなかった。ブレアはこの条項を「社会民主主義」に置き換えた。これによって、英国労働党は独自の社会主義政党から大陸型の社民主義政党に転換したとも言える。またブレア指導部は党の伝統的な最大支持基盤である労組の党大会における投票権を制約し、個人の一般党員の投票権を拡大することで、党の労組依存構造の転換も図った。
 こうした労働党の中道政党化を目指すブレアの党改革は―言わば労働党の旧自由党化―「第三の道」と称されるようになるが、伝統的な図式で言えば、明らかに右派的な傾向を持つ反動化路線でもあった。
 ブレアは従来であれば党内左派の妨害によって実現不能であった党是に触れる「改革」を大きな抵抗にも直面せず3年ほどでやってのけたが、このことは当時の労働党がそれほどに危機的状態にあったことの証しでもある。

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英国労働党史(連載第9回)

2014-09-30 | 〆英国労働党史

第4章 斜陽の時代

3:「英国病」の正体
 ウィルソン首相の突然の辞任を受けて、後任首相に就いたのは、ウィルソン内閣で財務、内務、外務の要職をすべて経験したベテランのジェームズ・キャラハンであった。
 キャラハンが就任した76年は、戦後英国にとって最も苦境の年となった。半社会主義政策の柱である産業国有化は戦後直後の経済復興には効果を持ったが、次第に国際競争力の低下や資本の海外流出、技術革新の遅れなど負の側面を露呈するようになり、輸入超過の貿易赤字の要因となった。
 そうした構造的な問題が生じていたところへ、70年代のオイルショックが重なり、不況プラス物価上昇という典型的なスタグフレーションの症状も出始めた。税収減による財政赤字が頂点に達し、76年には財政破綻を来たした。
 他方、労働党が二大政党の一つとして確立される中で、最大支持基盤の労組の対抗力は増していた。特に経済不振の70年代はストライキが頻発した時期で、中でもキャラハン政権末期の78年から79年に起きた医療職を含む公共部門労組による大規模スト―通称「不満の冬」―は革命とまではいかなかったが、社会を麻痺状態に陥れる重大な効果を持った。
 こうしたことの結果、英国経済は戦後最大の危機を迎えることになったのであるが、この時期、米国や高度経済成長を経た日本などでも程度の差はあれ、同様の現象は起きていたにもかかわらず、とりわけ英国が注目されて「英国病」とまで名指されたのは、資本主義体制を維持しながら、基幹産業部門を国有化し、政府の広範な経済介入を認める半社会主義体制のゆえであった。
 こうした英国モデルは、主として戦後のアトリー、ウィルソンの両労働党政権の時代に整備されたものではあったが、二大政党の一方として対抗する保守党も、選挙対策上こうした英国モデルの骨格はおおむね維持する穏健な政策を採る傾向にあった。
 結局のところ、「英国病」の正体は、こうした労働党・保守党間の接近(コンヴァージェンス)の結果生じた中途半端な混合経済体制の症候と言える。

4:新保守主義「革命」
 「不満の冬」の79年に行なわれた総選挙では、こうした「英国病」の克服が大きな争点となった。野党保守党は史上初めての女性党首マーガレット・サッチャーを擁して対抗した。この時のサッチャー保守党は従来の穏健路線を改め、本来の保守主義に原点回帰するような公約を引っさげていた。
 結果は、保守党の政権奪回であった。勝因として広告会社をも動員した技術的な選挙戦もあったが、社会的な影響の大きかった「不満の冬」に対する労働者層をも含む大衆の不満も後押ししたことは間違いない。英国史上初の女性首相が女性参政権の確立に貢献した労働党ではなく、保守党から誕生したのも皮肉なことであった。
 こうして成立したサッチャー保守党政権は結果的に10年以上に及ぶことになる長期政権の中で、「サッチャリズム」の名で知られる一連の保守回帰政策を断行していくが、その最終目標は半社会主義英国モデルの解体にあった。
 それは労働法改正を通じた労組の封じ込めに始まり、国有企業の民営化、規制緩和、財政均衡、金融引き締め、法と秩序など、サッチャー政権退陣後の90年代以降に改めて「新自由主義」として世界に拡散した政策パッケージの先駆けであった。
 このような全否定政策は、英国経済を再び資本主義的に再構築し、経済成長を取り戻すことに成功したが、失業者はかえって増加し、財政再建も進まないなど、その政策効果は限定的であり、格差拡大、社会の荒廃などのマイナス効果も生じさせていたにもかかわらず、80年代の労働党は有権者を引きつける有効な対抗戦略を打ち出せないまま党勢は衰退し、92年総選挙まで連敗を重ねた。
 結局、労働党は97年総選挙で圧勝して政権を奪還するまで、戦後最長となる18年間にわたり野党暮らしを余儀なくされることになる。英国病の「主犯」とされた戦後労働党にとっては、長い斜陽の時代であった。

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英国労働党史(連載第8回)

2014-09-29 | 〆英国労働党史

第4章 斜陽の時代

1:アトリーからウィルソンへ
 前回見たとおり、戦後最初の総選挙で圧勝したアトリー労働党は英国式半社会主義とも評すべき数々の新施策を打ち出し、51年の総選挙で再選を狙うが、意外にも保守党に惜敗した。この敗北の主要因は、得票数で上回っていた労働党が獲得議席数では僅差で保守党に逆転されるという技術的な理由によるものであった。
 ただ、この時の保守党が採った労働党政権による「革命」の基本的成果を全否定せず受容するというソフトランディング戦術も成功要因であった。おそらく、前回総選挙で労働党を圧勝させた有権者としても、このまま労働党が長期政権となった場合に生じるかもしれないさらなる「革命」の進展にいささか不安を抱いたのかもしれない。
 いずれにせよ、この選挙の結果、チャーチルが再び首相に返り咲き、55年の引退まで在任した。労働党は55年、59年の総選挙でも連敗し、13年にわたって野党暮らしとなる。
 この間、党勢が衰えた時の政党の常として、労働党内では左右両派の対立が激化していた。55年には戦中から戦後にかけて党の顔であったアトリーが退任し、指導部の空白も生じていたが、アトリーの後任の座を制したのは、経済官僚出身の右派ヒュー・ゲイツケルであった。
 ゲイツケルは現実主義的な右派で、失敗に終わったものの、30年後にトニー・ブレア党首の時代に実現する党の社会主義的綱領の改訂まで検討したが、この時代の労働党の右傾化は時期尚早で、保守党との差を縮小させ、選挙では不利な戦術であった。結局、ゲイツケル時代の労働党は政権に返り咲くことはなかった。63年、ゲイツケル急死を受けて後任に就いたのが、アトリー内閣で商業担当大臣などを歴任し、後に二度にわたり首相となるハロルド・ウィルソンであった。

2:ウィルソン時代
 ウィルソンが党首に就任した翌年の64年総選挙で、労働党は僅差ながら勝利し、13年ぶりに政権を奪回した。しかし与野党伯仲状態であったため、66年に解散総選挙に打って出て、今度は議席を積み増して安定多数を得るなど、ウィルソンは選挙戦術に長けていた。
 この時期、労働党が政権に返り咲いたのは、保守党の長期政権下で貿易赤字の拡大や通貨危機などの経済不振に加え、政治的スキャンダルも続き、有権者の保守党離れが起きたことにあろう。
 難しい時期に政権に就いたウィルソンであったが、彼のスタンスはリベラルな穏健左派であり、ウィルソン政権下では、死刑廃止や中絶解禁、同性愛行為の合法化などリベラルな社会改革が進められたほか、教育面では選別主義的でない普通教育制度や市民に開かれたオープン・ユニバーシティ制度の導入などが第一次ウィルソン政権の主要な成果である。
 ウィルソンは本来は穏健派で、社会主義政策の急進化には関心がなかったが、当面する経済不振に対処すべく、ウィルソン政権はインフレ抑制のための所得政策に加え、長期的な投資と経済成長の司令塔となる経済企画官庁として経済問題省を創設したほか、産業界への政府介入を強めるなど、介入主義的な経済政策に傾斜していった。また選択的雇用税やキャピタルゲイン税などの企業・富裕層をターゲットとした新税導入にも手を着けた。
 第一次ウィルソン政権はかつてのアトリー政権ほどではないものの、同じ6年間で多岐にわたる改革を実施し、それなりの成果も上げたが、70年総選挙では意外にも保守党に敗北、下野することとなった。
 この時の敗因は必ずしも定かでないが、新税導入や政府の経済介入強化が産業界から嫌忌された可能性や、財政難から緊縮財政政策を採らざるを得なくなり、64年の選挙公約の達成率が今一つであったことなどが考えられる。
 しかしウィルソンは下野後も引き続き党首の座にとどまり、74年総選挙で労働党が僅差で勝利すると、保守党の自由党との連立工作失敗を受けて、再び首相に返り咲いた。
 第二次ウィルソン政権では、英国型福祉国家の強化を課題とし、かねてより重視していた教育や医療、住宅への政府支出が増加され、最高所得税率の引き上げなど財源強化が図られた。しかし第二次政権では北アイルランド問題が先鋭化する中、76年、ウィルソンは突如辞任した。その理由については明確でないが、ガンや初期アルツハイマー病などの健康上の問題によると見られている。
 こうして、つごう8年にわたり首相を務め、アトリーに続いて戦後労働党の一時代を築いたウィルソンの時代は道半ばで終わった。この時期すでに、労働党は長い低迷期の始まりにさしかかっていたのだった。

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英国労働党史(連載第7回)

2014-09-17 | 〆英国労働党史

第3章 英国式半社会主義

3:半社会主義革命(1)
 第二次大戦でナチスドイツが降伏し、英国を含む連合国の勝利が見え始めた1944年になると、労働党は戦争終結後を見据え、35年以来開催されていなかった総選挙の早期実施を求め、保守党との連立を解消することを決めた。来たる総選挙は単独での政権獲得を目指し、保守党と正面対決するという方針である。
 チャーチル首相は日本の降伏まで連立を維持すべきとの意見であったが、労働党の拒否姿勢や保守党内からの異論があり、チャーチルは日本降伏前の45年6月に解散総選挙に踏み切った。10年ぶりとなる総選挙で、アトリー労働党は「未来に向き合おう」をキャッチフレーズに、マルクスではなく、ケインズの理論に立脚した完全雇用や政府が資金拠出する国民医療制度の創設などを訴えた。
 対するチャーチル保守党は、こうした労働党の公約を社会主義的であるとして非難し、ナチスになぞらえるなどのネガティブキャンペーンすら展開したが、これは完全な裏目であった。総選挙の結果は保守党の惨敗、空前の393議席を獲得した労働党が史上初めて単独で衆議院の過半数を制する圧勝となった。これにより、アトリーを首班とする労働党の完全な単独政権が発足する。
 この選挙結果は多くの選挙ウォッチャーの予想を超えるものであったが、労働党の勝因は大戦で戦勝国となったとはいえ、海外投資の激減に戦争負債と英国自体は疲弊し、実質上は敗戦に等しい国力衰退が明瞭となっていた中、戦勝の功績ばかりを強調するチャーチル保守党よりも控えめなアトリー率いる労働党の革新的な公約に大衆がひきつけられたということが考えられる。
 そうした意味では、この労働党の大勝利とそれに続く大規模な社会改革をもたらした1945年総選挙は、「投票箱を通じた革命」と言うべき出来事に数えることができると言えよう。

4:半社会主義革命(2)
 かつて「揺りかごから墓場まで」という標語で評された英国型福祉国家の基礎は、45年から51年まで続いた比較的短いアトリー労働党政権の時代にほぼすべてが出揃っていたと言ってよい。
 ただ、アトリー政権の政策は単なる福祉国家政策にとどまらず、より踏み込んだ社会主義的施策を含んでいた。すなわち、銀行、石炭、鉄鋼、電気、ガス、運輸に至る基幹産業の国有化である。その結果、アトリー政権が終わった51年までに英国経済の20パーセントが国有化された。
 ソ連のような中央計画経済こそ導入されなかったが、政府は戦時統制経済のほとんどを維持することで物財と労働力の配置をコントロールできたため、アトリー労働党が重要な公約に掲げた完全雇用はほぼ達成された。むしろ労働力は不足気味で、アトリー政権期に失業率が3パーセントを越えることはほとんどなかった。この間、インフレも抑制され、生活水準も向上するなど、経済は好転していったのである。
 アトリー政権期に導入された政策の多くは、政権退陣後徐々に覆され、最終的には1980年代のサッチャー保守党政権期の「保守革命」で解体されるが、今日でも残されているものとして国民医療制度(National Health Service)がある。これは、財源の大半を健康保険ではなく、税収による一般財源でまかなう公費負担医療制度の一つで、実質的な国営医療制度である。まさに「揺りかごから墓場まで」ほぼ無料で医療が受けられる制度として、これだけは保守革命でも廃止できなかった英国のシンボルである。
 こうしたアトリー政権の施策は、アトリー自身も青年期に影響を受けたフェビアン協会の社会改良主義に基づくものであり、下野したチャーチルがますます声高に非難したほど社会主義的でもなく、まして共産主義的ではなかったけれども、生産手段の公有化を進め、経済の相当部分を国有化した限りでは、単なる福祉国家を超えた「半社会主義」と呼ぶべき独特の体制に仕上がっていった。
 奇跡的だったのは、多岐にわたった大胆な改革を51年総選挙で再び労働党が下野するまでの6年ほどでやり遂げたことであった。それを可能にしたのは、カリスマ性には欠けるが知的で、実務能力に長けたアトリー首相の手腕だけでなく、大戦直後の復興期という状況と先の見えない大衆の不安、そして社会主義がまだ魅力的な未来の選択肢とみなされていた思想状況であっただろう。

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英国労働党史(連載第6回)

2014-09-16 | 〆英国労働党史

第3章 英国式半社会主義

1:第二次大戦と労働党
 1931年総選挙では労働党のマクドナルド首相率いる挙国一致内閣が支持されたものの、労働党は結党以来の惨敗に終わった。閣僚経験者の多くも落選の憂き目を見て、この後35年まで続くマクドナルド内閣は、第一党保守党が主導するものとなる。
 翌年32年には党内会派的な形で残存していた労働党源流政党である独立労働党と労働党執行部の確執が極まり、同党が離脱してまさに「独立」していくなど、党にとっては分裂の危機が訪れたが、35年総選挙が危機を救った。折から増大する失業対策が経済面での重要争点となったことで、労働党への支持が戻ったためと見られる。
 時の党首は後に首相となり、英国で半社会主義の実験を展開するクレメント・アトリーであったが、彼はこの時点では暫定的な党首にすぎないと見られていた。ともあれ、35年総選挙で労働党は154議席を回復し、V字回復したのである。
 この後、第二次大戦中は総選挙が行なわれず、45年まで10年間にわたり、保守党主導の挙国一致戦時内閣が継続される。この間、労働党は連立与党の一角を占め続け、42年にはアトリーが時のチャーチル内閣に新設された副首相として入閣している。これは、戦争が深まる中、チャーチル首相が戦争指導に専念できるよう、アトリー副首相が内政面を統括する狙いによるものであった。
 かくして、第二次大戦中の労働党は、形の上では「野党」でありながら、保守党との連立政権を通じて、国政運営の要諦を学んでいったのである。その反面、労働党は保守化を免れず、特に戦争政策では従来の平和志向的な姿勢を転換し、保守党のチェンバレン首相の宥和政策を批判し、積極的な戦争支持に回るなど、時に保守党よりも保守的な姿勢をも示すのだった。
 1930年に離党して、英国ファシスト同盟を結成するに至った准男爵オズワルド・モーズレー卿は、こうした保守化した時期の労働党の逸脱的な副産物であった。

2:アトリー時代の始まり
 上述のとおり、第二次大戦期の労働党を率いたのはアトリーであったが、彼は当初暫定的と見られた予想を超え、35年の就任から大戦をはさんで20年にわたって党首を務め、初期労働党を率いたマクドナルドに続く戦時・戦後の労働党の指導者として、大きな足跡を残した。
 アトリーは中流の事務弁護士の家庭に生まれ、自らもオックスフォード大学出身の法廷弁護士であった。ただ、彼はブルジョワや企業の弁護士とはならず、最初の仕事はロンドンでも貧しいイーストエンド地区の労働者階級の子どもを支援する団体の職員であった。この経験が元来は保守的だったアトリーの価値観を変え、社会主義への関心を深めたとされる。アトリーは08年、労働党に入党し、地方活動家となる。
 その後は研究者や行政官などを歴任し、第一次大戦への従軍後、ロンドンでも最貧困地区の区長を経て、22年総選挙で下院議員に当選、以後国政で活躍する。国政では初期労働党のリーダーだったマクドナルドの支持者として、マクドナルド政権でも有力なポストに就いた。
 しかし、彼が党指導部の前面に出てくるのは、35年に時のランズベリー党首が辞任した時であった。ランズベリーは31年総選挙で党が大敗した後、党再建に取り組んでいたが、確信的な平和主義者であり、ファシストイタリアやナチスドイツ、軍国日本の侵略行動が進み、戦争の足音が高まる中、党内からも異論に直面し、辞任を決意したのだった。
 後任には労組系有力者が選出されるものとの予想に反し、非労組系で弁護士という労働党では異色の経歴を持つアトリーが選出されたのであった。実際のところ、アトリーもかつては平和主義者であったが、この頃には立場を主戦論に変えていた。
 こうして、党内傍流から党首に就いたアトリーは、チャーチル戦時内閣をナンバー2として支え、特に内政面で手堅い行政手腕を見せたことで、戦後首相へ昇る足場を得たのであった。

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英国労働党史(連載第5回)

2014-09-03 | 〆英国労働党史

第2章 初期労働党の成功

3:マクドナルド政権
 1922年総選挙で初めて100議席を突破した労働党は、続く23年総選挙では191議席に伸ばした。保護貿易か自由貿易かが主要争点となった23年総選挙では保護貿易を主張した保守党に対し、労働党は自由貿易を主張した。結果、保守党は議会多数党の地位を失ったことで、翌年、ついに労働党に組閣の大命が下った。
 こうして党首に復帰していたマクドナルドを首班とする史上初の労働党内閣が発足した。しかし、議席数では衆議院の三分の一にも届かない超少数内閣であったため、自由党の閣外協力を得ながらも法案成立には苦慮し、本来の社会主義的施策の実現は望めず、唯一の成果は自治体に低所得者向け賃貸住宅建設の補助金を出す住宅法くらいのものであった。ただ、外交面では第一次大戦の敗戦国ドイツの賠償責任を軽減するドーズプランの受け入れをフランス政府に飲ませるという重要な成果も上げている。
 超少数内閣では長期政権は望めなかったとはいえ、マクドナルド内閣は左翼雑誌上で内乱を扇動した疑いを持たれた共産主義者キャンベルの起訴取り下げを決定したことで、議会の信任を失い、わずか9か月で総辞職に追い込まれた。続く総選挙では保守党が地滑り的勝利を収めて政権に復帰した。労働党は得票率では前回選挙を上回ったものの、40議席減らす後退となった。
 しかし次の29年総選挙で労働党は287議席を獲得し、初めて議会第一党に躍進する大勝利となった。この選挙は女性も含めた普通選挙制の下で行なわれた史上初の選挙でもあった。そのため、再び政権に復帰したマクドナルド首相は英国史上初めての女性大臣を任命するなど、1929年は英国女性にとって記念すべき年となった。
 議会第一党とはいえ、自由党がいくらか盛り返したことで、今度もまた議会多数派を握ることのできなかった第二次マクドナルド内閣は、不運なことに政権発足早々アメリカ初の世界大恐慌にも見舞われることになった。与党内は財政削減をめぐって紛糾し、急速に悪化する雇用情勢に有効な対策を示せなかった。
 そうした中、マクドナルド首相は31年、保守党・自由党も含めた挙国一致内閣の樹立に踏み切るが、これをめぐり労働党内は分裂、マクドナルド首相らが除名されるという異常事態となる中、首相は分派を形成して総選挙に臨み、労働党にとって初の分裂選挙となった。
 結果、挙国一致内閣は総体として勝利したものの、労働党は200議席以上も減らし、わずか46議席にとどまる壊滅的惨敗となった。それでも政権としては「勝利」したマクドナルドは、引き続き35年まで挙国一致内閣の首相を務めるが、主導権は多数党の保守党に握られた。

4:周辺左派政党との関係
 初期労働党はこうして二度にわたる政権を経験しながらも、31年総選挙で壊滅的な敗北を経験するが、総合的に評価すれば正式の結党から25年ほどの新興政党としては十分に成功したと言えるだろう。
 成功の積極的な要因として、非教条主義的で、自由貿易のような非左派的な主張も辞さず、危機に際しては反対党の保守党とも組む柔軟性があった。こうした柔軟路線を実務面で指導したのが二度にわたり首相を務めたマクドナルドであったが、その柔軟すぎる政治姿勢は党内からもしばしば裏切り者呼ばわりされるほどであった。
 しかし、そればかりでなく、労働党は他国の類似政党のように共産党と母体を共有せず、共産党とは初めから別個政党として先行的に設立・発展したことから、英国では共産党が伸びず、左派票を共産党と奪い合うことがなかったという消極的要因も大きい。
 英国共産党は労働党より遅れて1920年にコミンテルンの影響下に結成され、22年総選挙では1議席を獲得したが、同党はコミンテルン方針に従い労働党との連携を拒否していたため、両党間で選挙協力が行なわれることはなかった。ただ、第一次マクドナルド内閣の命取りとなったキャンベル事件が露呈したように、党内には共産党シンパも伏在していたと見られ、キャンベル起訴の取り下げもそうした党内からの圧力を受けてのことであった。
 しかし、マクドナルド首相ら党指導部はモスクワの影響力が浸透することを恐れ、共産主義とは明確な一線を画し、キャンベル事件後は意識的に党の穏健化を進めた。そのため、下野中の26年に起きたゼネスト―多くの共産党員が支持した―にも反対した。
 一方で、労働党は1927年以来、協同組合党と選挙協力関係を結んでいる。協同組合党は英国独自の政党で、共産党とは全く異なり、様々な協同組合組織が結集して1917年に結党された中道左派政党であり、元来労働党とも近い位置にあった。
 同党は当初、独自に候補者を立てたが、18年総選挙で初めて当選者を出して以来、労働党の支援を受ける左派系小政党として伸び、27年の正式の選挙協力協定以来、実質上労働党の傘下政党に近い立場で確立されていく。

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英国労働党史(連載第4回)

2014-09-02 | 〆英国労働党史

第2章 初期労働党の成功

1:労働党誕生まで
 労組合法化以降の労働組合は、議会政治への関与を希求するようになる。しかし選挙制度改革で選挙権の範囲は徐々に拡大されていたとはいえ、まだ完全な普通選挙制は導入されておらず、当初は既成二大政党のうちリベラルな自由党の地盤を借り受けるしかなかった。
 そうした自由党に支援された労働系候補が初めて当選者を出したのは1874年総選挙であり、共に炭鉱労働者出身の2人の衆議院議員が誕生した。これに対し、自由党相乗り選挙に飽き足らないグループは独立労働党を立ち上げ、1895年総選挙で独自候補を立てるも、結果は惨敗であった。普通選挙制が未実現の状況では、自由党の枠を超えた労働党の議会進出には大きな壁があった。
 独立労働党の党首はスコットランド生まれで炭鉱労働者出身のケア・ハーディであったが、彼は総選挙惨敗の結果を受け、より広範な左派勢力の結集を構想した。そうした中、1899年、労働組合会議(TUC)は独自の労働系候補者を支援する統一選挙組織結成を図り、翌年に労働代表委員会を立ち上げた。
 この組織はまだ政党ではなく、先のフェビアン協会などの非労働系左派も参画した寄り合い所帯のグループであったため、単一の指導者はいなかったが、後に史上初の労働党政権を首相として率いることになるスコットランド人のラムゼイ・マクドナルドが書記に選出された。この体制で最初の選挙戦となった1900年総選挙では資金不足から15人の公認候補しか立てられなかったが、ケア・ハーディを含め2人が当選した。
 転機となるのは、29人の当選者を出した1906年総選挙であった。躍進の要因は、その三年前、労働代表委員会と自由党との間で結んだ密約にあった。密約は30の選挙区で競合候補者を互いに出さないという内容で、これによって共倒れを防いだのだった。
 この躍進を受け、労働代表委員会は正式の政党化を決定、ここに労働党が誕生する。初代党首にはハーディが就き、マクドナルドが党議員団長に就任した。
 このように、草創期から現代に至っても労働党指導者にスコットランド出身者が少なくないのは、往年の独立国からイングランドの周縁地として従属的地位に置かれていたスコットランドでは労働者階級が早くから凝集していたことで、労働党の有力地盤を形成してきた事情による。

2:政権獲得への道
 新生労働党にとって最初の選挙戦となった1910年1月の総選挙では議席を40に増やし、同年12月の総選挙でさらに2議席積み増した。こうして保守‐自由二大政党政に食い込む第三極として順調に成長していった労働党にとって最初の試練は、内部から発生した。それは折からの第一次世界大戦への参戦方針を巡る内紛であった。
 マクドナルドやハーディらは反戦派であり、マクドナルドは14年に英国が参戦し、党主流派が参戦支持に回ると、党議員団長を辞任した。戦時中の労働党は08年にハーディの後任として党首に就任していたアーサー・ヘンダーソンが指導することとなり、彼は時のアスキス自由党内閣に入閣を果たした。史上初の労働党系大臣であった。この自由‐労働連立政権の経験は、党分裂の危機を招きながらも、後の労働党政権の予行演習となった。
 労働党の強みの一つは、教条主義を排した初代党首ハーディの性格を反映し、大陸諸国の類似政党や共産党のように党内のイデオロギー対立に基因する分派抗争が少なく、柔軟性に富んでいることにあった。そのため大戦中の党内対立も、戦後すみやかに修復された。
 党にとって政権獲得への地ならしとなったのは、18年の選挙法大改正であった。かつてのチャーティスト運動の主要な要求事項を実現したこの改正により、男子普通選挙制とともに一定条件を満たす30歳以上の女子にも選挙権が与えられたことで、有権者数は労働者階級にも飛躍的に拡大されたのである。
 他方、戦時対応をめぐる対立から大戦後ロイド‐ジョージ派とアスキス派とに分裂していた自由党は22年総選挙で惨敗し、結果として労働党がついに142議席を獲得して保守党に次ぐ議会第二党かつ野党第一党に躍進したのである。これは英国史上の大転換点であり、以後、英国議会政治は200年続いた保守‐自由二大政党政から保守‐労働二大政党政へと変遷していくことになる。

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英国労働党史(連載第3回)

2014-09-01 | 〆英国労働党史

第1章 労働運動の発達

3:持続的労働組合の結成
 チャーティスト運動は英国労働者階級を政治的に覚醒させる大きな契機となった反面、この時代の労働組合の活動は低調であり、労働者は専ら政治的な活動に没頭していた。
 後の英国労働党の基盤となる持続的な労働組合の結成は、チャーティスト運動の収束後、1860年代のことであった。今日でもスコットランドと北アイルランドを除く英国最大の労組ナショナルセンターである労働組合会議(TUC)が1868年に結成される。その直接的な前身は66年にイングランド中部シェフィールドで印刷工ウィリアム・ドロンフィールドを中心に結成された英国組織労働連盟であった。
 鉄鋼業の都市シェフィールドが発祥地となったのは、この地の鉄鋼労働者の労働条件の悪さが60年代に一部の過激な労組活動家による連続爆弾事件を引き起こしたことが契機となった。こうした過激主義には否定的であったドロンフィールドは理論的な面でも、労組合法化と労組の全国組織化の主唱者として活動した。
 この頃になると、労働運動の過激化を恐れるリベラルなブルジョワ階級の間でも労組合法化への理解が広がり、そのことが67年の労働組合に関する王立委員会の設置と、その答申に基づく71年の労組合法化へとつながる。
 こうして法的な根拠も得て、英国の労働組合の活動は活発化するが、合法化以後の労組は未熟練労働者を含めた広範な労働者を結集し、理念的にも社会主義的な方向性を強めていく。一方で戦闘性は薄れ、ストのような直接行動のみならず、平和的な交渉や教育、法制度への関心を強める。このことは、必然的に議会政治の枠内で労働者階級を代表する新党結成への要請につながっていったであろう。

4:フェビアン協会の設立
 労働党結成の運動的な基盤が労組であったとすれば、理論的な基盤は1884年にロンドンで設立された社会主義団体フェビアン協会であった。本協会は当初、詩人のエドワード・カーペンターやトマス・デヴィッドソンらによって設立され、後に劇作家のバーナード・ショーもメンバーに加わった人文主義的色彩の強い組織として出発する。
 しかし、間もなく協会の理論的指導者となるシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻のような社会科学者も参画し、具体的な改革課題を掲げた左派の政策集団的な組織に成長する。特にシドニー・ウェッブが創立者となったロンドン経済学院はその理論拠点となり、後に労働党の事実上のシンクタンク的な存在となる。
 このグループの特徴は防御的な持久戦で名高い古代ローマの将軍ファビウスに由来する名称のとおり、革命ではなく、労働法制や社会保障などの漸進的な社会改革によって資本主義的な社会経済を改良していく穏健主義にあり、革命的なマルクス主義とは対立的とは言わないまでも、対照的であった。
 ロンドンでは、まさにマルクス本人が長く盟友エンゲルスとともに亡命生活を送り、最終的に両人とも英国に骨を埋める―エンゲルスは海洋散骨―ことになったのであるが、彼らは外国人であったこともあり、英国ではマイナーな存在にとどまり、むしろ祖国ドイツやフランス、ロシアなど海外に影響を広げていったのに対し、英国ではフェビアン協会が有力となった反面、マルクス主義は一貫して極少数派であった。
 そのため、英国では大陸諸国の左派におけるように、革命的なマルクス主義と後の社会民主主義に連なる社会改良主義の対立という大状況がそもそも起こり得ず、左派はフェビアン主義やそれに近い穏健主義で固まっていくという独異な状況が生じた。このことも、共産党を抑えて労働党が大政党化する土壌を作った。

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英国労働党史(連載第2回)

2014-08-19 | 〆英国労働党史

第1章 労働運動の発達

1:労働運動の発祥
 英国労働党は、その名のとおり労働者の党であるから、そもそも労働者がまだ一個の階級として存在していなかった資本主義以前の時代には存在し得ない政党であった。従って、それは近代資本主義の政治的産物の一つである。近代資本主義の発祥地英国で、労働党が誕生し、やがて主要政党に成長するということもある意味では必然であった。
 しかし、労働党が泡沫的な抗議政党にとどまらず、大衆政党として定着した背景には、一世紀近い労働運動の蓄積がある。従って、労働党史を俯瞰するためには、前史としての労働運動史を振り返っておく必要がある。
 英国労働運動の歴史も古く、18世紀産業革命の時代に始まる。特に安い賃金で搾取された未熟練労働者が非公式に団結したことが労組の始まりとされる。当初は職場ごとの個別的な団結にとどまったゲリラ労組は19世紀に入ると各地に出現するが、当局は当然にも当初は弾圧方針で臨んだ。
 そうした労組抑圧の雰囲気の中で、労働運動が戦闘的な形で現れたのが機械打ちこわし運動(ラッダイト運動)であった。もっとも、これは労働者というより手工業職人(織物職人)による抗議運動の性格が強かったので、近代的な労働運動とは異質な面もあった。
 現在知られる限り、様々な職域の労働者が結集する近代的な労働運動の先駆は1818年にマンチェスターで結成された労働組合連合と言われる。しかし労働組合は禁止されていたため、「博愛協会」という偽装名を名乗る必要があった。
 1824年、政府はいったん労組を解禁したが、翌25年に再び政府は団結権を禁止した。そうした制約の中で、職域横断的な全国規模の労働運動の注目すべき先駆的な試みとして、性格の異なる二つのものがある。
 一つは、アイルランド出身の紡績工・労働運動家のジョン・ドハーティが1830年に結成した全国労働保護協会である。これは織物工場労働者を中心としながら、その他の職域の労働組合も糾合して急速に拡大し、最盛期には2万人近いメンバーを擁した。
 もう一つは、ウェールズ人のロバート・オーウェンが1834年に結成した全国労働組合大同盟である。オーウェンは本来労働運動家というよりも初期社会主義の思想家兼模範工場経営者であったから、この組織はその名称にもかかわらず、政治思想団体の性格が強かったが、労働運動がやがて政党化していく過程での先駆ではあった。
 この二つの運動は団結禁止法の存在に加え、有能なオーガナイザーを欠いたこともあり、いずれも短命に終わったが、19世紀前半期の労働運動の先駆として、遠く労働党の結党にも間接的にはつながっている。

2:チャーティスト運動
 労働党の結成は、純粋な労働運動のみならず、労働者の政治的な結集の結果である。そうした英国労働者の最初の政治的結集が見られたのは、1830年代から50年代にかけての社会変革運動チャーティスト運動の時であった。
 この運動は中産階級も参加した階層横断的な変革運動であったが、運動の中で労働者階級は主要な動力となった。議会制が早くから発達した英国とはいえ、当時の英国政治はなお貴族と地方名望家が主導し、労働者階級は政治から締め出されていた。そのため、かれらの中心要求は普通選挙制の実現に置かれた。
 この時、チャーティスト運動の労働者派指導者ウィリアム・ラヴェットらを中心に1836年にロンドンで結成されたロンドン労働者連盟は政党ではなかったが、労働者階級の政治運動体としては最も初期のものである。
 労働者階級の要求は、チャーティストの語源ともなった38年の「人民憲章」6か条に集約された。そこでは、男子普通選挙制を筆頭とする民主的な議会改革策が提起されていた。この憲章は100万人を越える労働者の署名を得て議会に請願として提出されたが、議会はこれを却下した。
 この後、労働者たちは抗議デモやストライキで応じ、特に不況に襲われた42年に300万を越える署名をもって提出された第二次請願が再び議会に却下されると、大規模ストライキの波は頂点に達した。こうした労働者階級の政治的な急進化に対して、当局は弾圧で応じるが、48年の第三次請願が却下された後も、運動は50年代末まで持続していく。
 チャーティスト運動は革命運動の域に達するほど先鋭ではなく、内部は強硬な「実力派」と穏健な「道徳派」に分裂し、その中心的な要求事項であった男子普通選挙制が英国で実現するのは遠く1918年のことにすぎなかったが、労働者階級を政治的に覚醒させる歴史的な転機となったことは、たしかである。
 同時に、このような労働者階級の政治的な団結は支配層にも弾圧一辺倒政策の限界を認識させ、19世紀後半には特にリベラル派の自由党が労働者階級の利害を一定代弁する傾向が生じる。

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英国労働党史(連載第1回)

2014-08-18 | 〆英国労働党史

序説

 先に連載を終了した『世界共産党史』の結語で、「英国の謎」を指摘した。「英国の謎」とは、西欧の典型的な階級社会とされる英国で共産党が発達しなかったという一見不可解な歴史的事実のことである。本連載は、その謎の解明を兼ねて、英国で共産党の代わりを果たした英国労働党の歴史を検証することを目的とする。
 その前提として、労働党結成前の英国の状況を概観しておくと、周知のとおり英国では17世紀におけるカトリック派ジェームズ2世の即位問題をめぐる政争に起源を持つトーリーとホイッグの二大党派がやがてそれぞれ保守党と自由党という近代政党に発展し、二大政党政を築いていた。
 マルクスがロンドンで亡命生活を送っていた時期は、ちょうどこの保守/自由二大政党政が最盛期を迎えていた時期であった。この二大政党のうち、カトリック派ジェームズの即位に反対した党派に起源を持つ自由党はその名のとおりリベラルな政党であった。
 同党の主要な支持基盤は商業ブルジョワジーであり、ある意味では資本主義の代表政党でもあったが、リベラルで比較的進歩主義的な気風から、労働党が創設され全国政党に成長するまでは、労働者階級の利益をも間接的に代弁する政党であった。特にヴィクトリア朝時代に計四度にわたり首相を務めたグラッドストンは労働組合法を制定し、組合のスト権を解禁するなど、労働政策でも重要な足跡を残した。
 このように19世紀後半の英国では、まだ存在しない労働党を自由党が言わば「代行」するような仕組みが出来上がっていた。西欧でも労働組合の活動自体が抑圧されがちであった当時にあって、資本主義の世界帝国で先進的な労働政策が進められていたのであった。その延長上に労働党の結成が見えてくる。
 マルクスはプロレタリア革命の手法について、武装蜂起のほかに平和的な方法もあり得ることを指摘し、その可能性がある国の一つに英国を挙げていたが、その預言は完全には的中しなかったとはいえ、半分くらいは当たっていた。当たらなかったのは、労働党が自由党を押しのける形で二大政党の一角に座り、長い時間をかけて事実上自由党化していった歴史の進路である。
 英国で共産党の遠い親類として始まった英国労働党という独特の労働者階級政党の歴史を検証することは、共産党という政治マシンが成功することのなかった「平和革命」の意義と可能性とを改めて再考するうえでの反証的な素材ともなるはずである。

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