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近代革命の社会力学(連載第368回)

2022-01-21 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(4)ブルキナファソ革命
 旧フランス植民地オートヴォルタは、「アフリカの年」1960年に他の16か国とともにオートヴォルタ共和国として独立を果たした。しかし、モーリス・ヤオメゴ初代大統領は間もなく独裁と腐敗というアフリカで定番の陥穽に陥った。
 オートヴォルタでは、進歩的な学生や労働者、公務員などが比較的早くから育っていたため、60年代半ばには、そうした進歩勢力による反政府抗議デモやストライキが頻発し、1966年1月にヤオメゴは辞職に追い込まれた。
 しかし、この民衆蜂起は革命に発展することはなく、権力は軍のサンゴール・ラミザナ将軍に移譲され、軍事政権の登場となった。とはいえ、これは民衆勢力の要請に沿った政変であったので、現代的な民衆政変の先駆けとも言える事象であった。
 そうした特異な経緯から成立したラミザナ政権は、軍事政権でありながら、民主主義と権威主義の間を揺れ動く傾向にあった。干ばつ問題に直撃された70年代以降は次第に独裁化していくが、77年の新憲法に基づく78年の比較的民主的な選挙によって、ラミザナは改めて民選大統領に納まった。
 しかし、ラミザナは1980年に急進的な将校グループが参加するクーデターで失権した。この後、1983年の革命で軍内部の派閥抗争を反映したクーデターによる二転三転が続くが、その過程で、間もなく革命指導者となるトマ・サンカラ大尉が大衆的な人気を獲得し、83年1月には首相に就任した。
 しかし、サンカラは軍事政権内の政争から同年5月には罷免・投獄される。これを援助国フランスの策動とみなして反発した民衆の声に答え、サンカラ同志の青年将校らが7月に決起し、サンカラを救出したうえで、翌月には当時33歳のサンカラを最高権力に押し上げた。
 実際のところ、この決起を指揮したのはサンカラの盟友だったブレーズ・コンパオレ大尉であり、彼がサンカラの背後にいる革命の実質的なマスターマインドであったことは、後にサンカラ自身の命取りともなる。
 この1983年政変も形の上ではクーデターを伴った民衆政変と言えるが、この後、84年のブルキナファソへの国名変更を経て、87年に暗殺されるまで、事実上の国家元首である国家革命評議会議長サンカラの下で急進的な社会主義的政策が展開されていったため、クーデターを超えた革命としての意義を持つこととなった。
 このような若手の下級将校による革命はアフリカではしばしば見られる現象であるが、ブルキナファソ革命の特質は、青年将校が民衆の直接的な支持に支えられていたことである。その点、オートヴォルタ時代から、この国の軍事クーデターは民衆の支持を得た民衆政変の性格を帯びる伝統があった。
 サンカラはマルクス主義に感化されていたとされ、実際、革命最初期には、オートヴォルタ時代に結党されたマルクス主義政党・アフリカ独立党が政権に参加したが、間もなくサンカラと決裂し、排除された。
 その後、約4年間のサンカラ時代に展開された政策を見る限り、教条主義的ではなく、その重心は教育や福祉の充実、鉄道の整備、環境保全、女性の地位の向上、前近代的な女子割礼や強制結婚の禁止などの近代化に置かれていたと言える。
 また、外交的には反帝国主義を掲げ、植民地時代を引き継ぐオートヴォルタから二つの民族語を組み合わせたブルキナファソ(高邁な祖国の意)への象徴的な国名変更を主導するとともに、キューバをモデルとした親東側路線の外交政策を展開し、援助国による対外債務返済要求やIMF・世界銀行の構造調整介入に反対した。
 一方で、人民革命法廷を通じた旧体制派への恣意的な処断や、キューバの制度にならって各地に設置された革命的隣保組織である革命防衛委員会による人権侵害などの負の側面もあり、次第にサンカラの大衆的人気に乗ったポピュリスト型独裁の傾向を強めていったことは否めない。
 そうした中、機を窺っていたマスターマインドのコンパオレは1987年6月、サンカラを排除するクーデターを起こし、政権を奪取した。その際、サンカラは銃撃により死亡したが、コンパオレ政権はこれを意図しない事故として処理し、サンカラを秘密裏に埋葬した。
 コンパオレは、政権掌握後、サンカラの政策の大半を撤回し、親西側の立場で、市場経済化の構造調整を遂行した。こうした構造転換は、ガーナのローリングズ政権のそれと類似するが、ガーナでは革命指導者自ら方針転換を遂行したのに対し、ブルキナファソでは革命指導者の排除という新局面を要したことになる。
 コンパオレは90年代の形式的な民主化の後も、抑圧と懐柔を組み合わせた政治技巧を駆使して多選を重ね、27年間にわたり大統領として君臨したが、2014年の大規模な抗議デモとその後の軍事クーデター(民衆政変)により失権し、国外へ亡命した。
 なお、新政権下で行われた検視の結果、サンカラの死亡は意図的な銃撃によるものであることが判明し、改めてコンパオレによる暗殺の疑いが強まり、コンパオレら13人が起訴され、昨年に裁判が開始されている。


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