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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第41回)

2023-01-27 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

基礎医学の政治化
 生物学におけるルイセンコ学説の体制教義化は、生物学の応用分野でもある基礎医学にも波及することとなった。特にオルガ・レペシンスカヤが提唱した無生物から生物が自然発生するという非細胞生物理論はルイセンコ学説に次ぐ疑似科学理論であった。
 レペシンスカヤは医師・医学者であり、ソヴィエトにおける女性科学者の草分けの一人と言える人物であったが、ルイセンコと同様にメンデル遺伝子理論を否定しつつ、生物の発生という基礎的な問題について、如上の無生物からの発生という新理論を立てたのであるが、これも検証されず、捏造証拠に基づく疑似科学に過ぎなかった。
 無機物の結晶は核酸を添加することによって細胞に変換することができるとか、細胞が顆粒に崩壊することによって増殖し、若返り的に親細胞とは異なる新形態の細胞を生成するなどと主張するレペシンスカヤの所論はどこか2014年に発覚した日本の理化学研究所のSTAP細胞説に通ずるところがあり、理論の実証のために証拠を捏造するというレペシンスカヤの方略も論文不正が発覚したSTAP細胞問題に似る。
 レペシンスカヤ学説にも批判は向けられたが、スターリン(及びルイセンコ)から支持されたことで、スターリン時代の体制教義の地位を獲得し、反対説が封じられたのはルイセンコ学説と同様の経過である。
 これも、レペシンスカヤが革命前からの熱心なボリシェヴィキ党員・活動家として、ルイセンコ以上にソヴィエト体制と深い関係を築いていたという政治的な要因によっていた。彼女は、1944年に設立されたソ連邦医学アカデミーの実験生物学研究所でも高い地位を保持した。
 一方、スターリン政権の指示によって1950年に開催されたソ連邦科学アカデミーとソ連邦医学アカデミーの合同学術会議「パヴロフ会議」は、基礎医学系諸科学全般に及ぶイデオロギー統制の始まりとなった。
 この会議に冠せられたパヴロフとは、帝政ロシア時代の1904年にノーベル賞を受賞した生理学者イヴァン・パヴロフの名にちなんでいる。条件反射研究で名を残すパヴロフ自身は、ロシア革命後、いったんは迫害されかけ、海外亡命を申請するも、頭脳流出を懸念したレーニンによって一転厚遇され、ソヴィエト体制下でも研究活動が保証されていた。
 パヴロフは1936年に死去していたが、1950年の合同会議はパヴロフ理論を体制教義化することで西側の生理学及び精神医学に対抗するという政治的目的から開催されたイデオロギー性の強い「学術会議」であった。
 実際、この会議は反パヴロフ派と断じられた科学者を非難する糾弾大会の様相が強かった。そのうえで、パヴロフ理論がソヴィエト生物学・医学の基本理論として定められ、体制教義化された。
 特に精神病理学の分野では、西側の精神分析理論などのような心理学的潮流が排斥され、生理学還元主義が基調となったことで、ソヴィエト精神医学は薬理学的傾向を強め、向精神薬依存の治療モデルが支配的となった。
 パヴロフ会議で定立されたパヴロフ絶対化路線はその後にある程度修正はなされたものの、ソヴィエトにおける遺伝学、生理学、精神病理学等の正常な発展を数十年にわたって停止し、かえって基礎医学分野での西側からの遅れをもたらす結果となった。

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近代科学の政治経済史(連載第40回)

2023-01-24 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化(続き)

ルイセンコ遺伝学教義と迫害
 ソヴィエト科学の政治的イデオロギー性を最も如実に示す悪名高い事例は、トロフィム・ルイセンコが提唱した独自の疑似科学的な遺伝学説とその体制教義化、それを教条とする科学者の大量迫害事象であった。
 ウクライナ農民の出自であったルイセンコは元来、園芸や栽培技術を専門とする農学者としてスタートしたが、その後、遺伝学者に転じると、遺伝学のスタンダードとなっていたメンデルの遺伝子理論を否定し、ラマルクの旧進化論に基づく獲得形質遺伝説を提唱するに至った。
 ラマルク進化論もダーウィンの自然選択説に基づく新進化論によって克服されていたはずであるが、ルイセンコは自然選択説をも否定し、ラマルクの旧進化論に回帰しようとしたのであった。
 これは理論的に考察した結果というよりは、ルイセンコが農学者時代に低温によるいわゆる春化処理の技法を研究する中で、春まき小麦が秋まき小麦に、逆に秋まき小麦が春まき小麦に転化する現象を獲得形質の遺伝によるものと即断的に誤認したことによっていた。
 従って、ルイセンコ遺伝学説は科学学説と呼び得るだけの検証可能な根拠を持っていなかったにもかかわらず、ソ連では時のスターリン共産党指導部の強い支持を受け、ルイセンコ学説が一種の体制教義の地位を獲得したのである。
 このように、政治とは直接関係のない一介の生物学説に党指導部が入れ込んだ理由は必ずしも明らかでないが、一つにはルイセンコ自身が共産党員としてロシア革命後の政治的激動を巧みに乗り切り、党指導部ともパイプを築いたある種の政治力によるところが大きいようである。
 他方、スターリン指導部としても、その目玉政策であった農業集団化とその下での農業生産力の増強という政策課題を遂行するうえで、生物学者というより農学者としての知見を持つルイセンコは有用な存在だったことが大きい。
 実際、ルイセンコの正当な業績は先人のイヴァン・ミチューリンが開発した育種法であるヤロビ法を継承して春化処理の技法を確立したことにあり、これはソ連を超えて中国や日本の農法にも影響を及ぼした。
 しかし、彼の遺伝学説は当時のソ連国内でも異論が多く、論争を巻き起こしたが、ルイセンコ学説を信奉するスターリン指導部はルイセンコ学説に反対する学説、とりわけメンデル遺伝学を「観念論」「ブルジョワ思想」と断じ、反ルイセンコ派の科学者を投獄するなど激しく迫害した。
 その最も象徴的な犠牲者は植物学者・遺伝学者のニコライ・ヴァヴィロフであった。彼は遺伝的多様性理論に基づく植物の起源論で知られる科学者であったが、ルイセンコ学派から攻撃を受け、でっち上げの政治犯罪の容疑で逮捕、死刑判決を受け、減刑されたものの獄死した。
 一方、ルイセンコはソ連科学アカデミー遺伝学研究所長を1940年から1965年まで勤続し、スターリン存命中はもちろん、スターリン主義を否定したフルシチョフ指導部からも支持を得て、ソ連科学界の最重鎮として君臨し続けた。
 こうして、ルイセンコ学説はソ連体制における科学教義として一世を風靡したが、その実態は検証されない疑似科学であり、これはあたかもナチス体制下の疑似科学教義であったアーリア人学説に相当する政治的な体制教義にすぎないものであった。
 そのため、1964年にフルシチョフが党内政変で失権したのを機にルイセンコ学説も勢力を失い、翌年にはルイセンコも遺伝学研究所長を解任され、1976年に死去するまで晩年は不遇をかこつこととなった。

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近代科学の政治経済史(連載第39回)

2023-01-13 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

ソ連邦科学アカデミー
 ソヴィエト体制の存続期間中、ソヴィエト科学の総本山となったのがソ連邦科学アカデミーである。この機関は18世紀に設立されたロシア科学アカデミー(拙稿)を前身とし、ロシア十月革命から数年を経て、革命指導者レーニンが没した翌年の1925年に再編発足したものである。
 これに先立って、レーニン政権は1922年には旧帝政ロシア時代の知識人で、反ソヴィエト的とみなされた者を公職追放する措置を取り、かれらを蒸気船に乗せて国外へ追放したが、この通称「哲学者船」の乗客には科学者はあまり含まれていなかった。
 ロシア科学アカデミー(19世紀に帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーに改称)は帝政ロシアにおける科学研究の基盤となり、帝政時代末期には大学を含めて多くの科学者が育ち始めていたが、帝政ロシアの科学者たちは革命政権と敵対することなく妥協し、アカデミーの再編存続を認めさせた。
 そうした激動期のアカデミーを率いて、ソ連邦科学アカデミー初代総裁となったのは地質学者・地球科学者のアレクサンデル・カルピンスキーであった。彼は十月革命前にロシア科学アカデミーの総裁に選出され、革命後も改めてソ連邦科学アカデミー総裁を1936年の死没まで務めた人物である。
 カルピンスキーはスターリン時代も迫害されることなく生き延び、ソヴィエト時代初期の科学界重鎮として90歳近い長寿を全うし、葬儀にはスターリンも参列、ソ連の切手の肖像に納まるほどの要人となった。
 一方、政治と一体化したソヴィエト科学が構築されたのも、カルピンスキーがアカデミー総裁職にあった時代である。1929年以降、アカデミーに対する党国家の統制は強化され、その幹部人事はソ連共産党が主導することが慣例となり、アカデミーはソ連政府の管理下に置かれた。
 その性格は事実上の党国家の研究機関であり、ソ連共産党のイデオロギーと政策目標に奉仕するべく定められていた。そうした条件下で、アカデミーは複数の支部組織とロシアを除く連邦構成共和国ごとのアカデミー、社会科学分野を含む300近い研究所、付属図書館のネットワークとして整備され、多数の研究者を擁する学術機構に発展し、多彩なソヴィエト科学を支えたことは確かである。
 ちなみに、医学分野に関しては1944年にソ連邦医学アカデミーが設立され、科学アカデミーとは別立てとなったが、当然ながら、その組織構造や性格は科学アカデミーに準じていた。
 科学アカデミーは最終的にソ連邦解体に至るまで7人の総裁を輩出したが、いずれも自然科学分野の研究者であり、特に戦後は核物理学や有機化学、宇宙工学、大気物理学など、ソ連政府が比重を置いていた重工業や軍需、宇宙開発に奉仕する分野の研究者が総裁職に就いていることからも、アカデミーの政治性が見て取れる。

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近代科学の政治経済史(連載第38回)

2023-01-09 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学

ナチスによる科学の政治的悪用は高度に政治化されたナチス科学と呼ぶべき特有の科学のありようを示したのであったが、ナチスの科学利用がどちらかと言えば実用的な観点からなされていたのに対し、科学そのものを政治と一体化させ、科学を体制イデオロギーに込み込んでしまったのがソヴィエト科学である。ソヴィエト科学は、ナチス体制と異なりソヴィエト体制が長期間持続したため、より本格的で多彩な展開を見せ、中でも宇宙開発を含む軍事科学の分野では一時アメリカを凌ぐ成果を出した。とはいえ、科学者もソヴィエト体制のイデオロギーに沿った理論を提唱する必要があり、科学的真理の探究は政治的に歪められ、不毛なイデオロギー論争に終始することもあった。また、しばしば科学者自身が政治的に迫害・抑圧されることもあり、科学と政治の一体化には弊害が大きかったことは確かである。


ソヴィエト科学とイデオロギー

 ソヴィエト科学における科学と政治の一体性の根源となったのは、ソヴィエトが体制イデオロギーと規定したマルクス‐レーニン主義による科学の統制である。もっとも、同主義に基づく統制は科学を含む全学術に適用され、科学への適用はその一環にすぎない。
 マルクス‐レーニン主義自体は本来、社会科学分野における理論であり、それを自然科学分野にまで拡大適用することには無理があったが、ソヴィエト体制はその無理を強制したところから、ソヴィエト科学の政治性が強まったのである。
 とりわけマルクス・レーニン主義がプロレタリア革命の理論にして、空想的な観念を排する「科学的社会主義」の理論と標榜されていたことから、「ブルジョワ的」または「観念論」とみなされた理論が排斥される傾向にあった。
 しかし、こうした基準は曖昧かつ非科学的ですらあり、結局のところ、科学理論の正当性は理論そのものよりその提唱者が体制に忠実であるか否かという政治的審査基準に帰着した。そのため、物理学者として正当な業績がありながら、反体制的な言動のゆえに長く流刑に処せられたアンドレイ・サハロフのような例も現れたのである。
 こうした政治的なソヴィエト科学の総本山は後で見るソ連邦科学アカデミーに置かれたが、ソヴィエトにおける科学研究が総じて大学よりも国立研究機関を基盤に行われたのも、統制が効きにくい大学より直接に党国家の統制と監視下に置きやすい国立研究機関が好まれたからであった。そのため、ソヴィエト時代には数多くの科学研究所が設立された。
 ソヴィエト科学におけるイデオロギー統制の程度にも時代的な変遷があり、初期の編制期を経て最も統制が強まったのは、スターリン独裁時代の1930年代から50年代初頭にかけてである。
 この時期にはスターリン自身が個人的にも興味を示した生物学・遺伝学分野で迫害を伴うイデオロギー論争が隆起したほか、物理学分野でもアインシュタインの相対性理論を「観念論」として排斥するようなキャンペーンが隆起している。
 第二次大戦後には核開発や宇宙開発といったより実用性の高い科学技術研究も活発に行われるようになり、前出サハロフも水爆開発で業績を上げているが、これらの研究は戦後の冷戦期における軍拡競争という国策に奉仕するものであった。
 スターリン死後のソヴィエト時代後半になると、ある程度イデオロギー統制が緩和されたとはいえ、科学と政治の一体化自体は体制末期の自由化によって解き放たれるまで不変であり、ソヴィエト科学の質を制約し続け、西側科学への遅れの要因となった。

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年頭雑感2023

2023-01-01 | 年頭雑感

昨年は、ロシアによるウクライナ侵攻を主たる契機に、先の第一次冷戦が終結して三十余年ぶりに地球の東西が分断される第二次冷戦が開始された。その意味で、2022年は21世紀最初の四半世紀における画期点であったと言える。

これに伴い、第一次冷戦当時とは異なり、すでにグローバル規模に拡大していた資本主義にも打撃が加わり、パンデミックによる混乱からの回復基調を吹き飛ばすグローバルなインフレーションを惹起した。結果として、生活難も世界規模で拡大し、生活経済は破綻状態である。

他方、地球環境はパンデミックによる一時的な生産の総停止状態からの反動で、かえって急激な回復生産に向かったことにより悪化し、環境破壊は猛暑と大寒波という極端な寒暖差を伴う異常気象現象を症状とする慢性進行疾患のように固定化されている。それに伴う環境難民も増加していくだろう。

資本主義―その本質である貨幣経済―は、生活経済及び環境経済という視座から見る限り、すでに終わっている。そして、現今のグローバル規模での生活破綻や環境破壊には、主権国家という矮小かつ排他的な政治単位ではもはや対処できない。

その点に関連して、筆者は2018年の本欄で、「長期的には56パーセントの確率をもって人類は(主権国家を持たない)共産主義社会の建設に向かうと予測する。」と記したが、現状に鑑みると、この革命発生予測確率を5ポイント上昇させて、61パーセントに引き上げておきたい。

とはいえ、現状、資本主義と主権国家という二つのキー概念は、世界の大半の人々にとって、単なるイデオロギーを超えた無意識レベルに埋め込まれてしまっており、その転覆を思考すること自体を妨げていることは否定できない。資本(貨幣)と国家(権力)は、言わば強力な麻酔に匹敵する。

革命とは言うまでもなく自然現象ではなく、人間の意志的かつ集団的な行動であるから、意識の覚醒と覚悟とを必要とする。現状はそうした革命の主意的な条件を欠いているため、如上61パーセントは名目確率であり、実質確率はまだ50パーセントに満たないだろう。

資本(貨幣)と国家(権力)という二つの強力な麻酔から覚めるためには、単なる啓発とか啓蒙といった表層レベルの対応では足りず、生物的進化のレベルで、生物としての人類のさらなる進化を促進することが必要かもしれない。

そうした意味では、資本と国家にとらわれ、堂々巡りの思考に終始する現生人類の大半は生物的進化が止まった旧人類と呼ばざるを得ない。それに対して、いち早く資本と国家の麻酔から覚める人々は新人類と呼ぶに値するだろう。

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