ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第16回)

2012-08-30 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道(続き)

『政治経済学批判』の完成
 こうしてどん底の中での研究の結果、1859年に公刊されたのが『政治経済学批判』(以下、単に『批判』という)である。マルクス41歳。大英博物館で研究を始めてから9年の歳月が経っていた。そのわりに本文170ページと薄手の本になったのは、元来マルクスは全六部構成という壮大な大著を企画しており、『批判』はそのうちの第一分冊にすぎなかったためである。
 持ち込み原稿のうえ内容も難解で出版社探しは容易でなかったが、当時マルクス、エンゲルスと交流があり、後にドイツ労働者総同盟を結成するフェルディナント・ラサールの仲介でベルリンの出版社から初版千部で刊行される運びとなった。
 しかし、この自信作は著者の期待に反してほとんど売れず、マルクス生前には初版のみで絶版となってしまった。そのため、予定していた続巻の刊行も断念せざるを得なかった。ただ、『批判』の内容はその8年後にプランを変えて出した主著『資本論』第1巻の中により練り上げられた形で収録されたため、今日では『批判』はその本文よりも序言のほうに重要な意義が認められている。というのも、序言にはマルクスの経済学研究の理論性格と基本視座が自身の言葉で簡潔に要約紹介されているからである。
 そうした序言の概要をも参照しながら中期のマルクスが到達した経済理論の性格を考えると、それは『政治経済学』という表題―同じ題が『資本論』では副題として使われている―が如実に示すように、古典派経済学(政治経済学)に代替する新たな経済学体系なのではなく、資本主義生産様式とそれに照応する経済理論である古典派経済学(政治経済学)への体系的批判理論であった。
 従って、いわゆる「マルクス経済学」なるものは幻想である―そう言って悪ければそれは後世の人々がマルクスの名を冠して構築したマルクスその人とは無関係の学問であると言って過言でない。ちょうど政治路線としての「マルクス主義」がマルクスその人とは無関係であったように。
 一方、このマルクス独自の「政治経済学批判」は脱歴史化された理論経済学でもなく、その基底には先行的に確立してあった唯物史観が埋め込まれた歴史理論でもあった。それが『批判』序言の中ではやや図式化された形で、有名なアジア的→古代的→封建的→近代ブルジョワ的生産様式という発展段階論、さらに土台としての経済的構造の上に法的かつ経済的な上部構造が構築されるとする社会構造(構制)論として凝縮されている。
 同時にまた、この「政治経済学批判」は単なる経済理論に終始せず、社会革命の条件を探る社会理論をも内包している。すなわち社会の物質的生産諸力がある発展段階で既存の生産諸関係と矛盾を来たし始めた時点で社会革命の時期が始まる。逆言すれば、一つの社会構成体は全生産諸力がその中で完全に発展し尽くされない限り没落することはない。なおかつ新たな高度の生産諸関係はその物質的な存在諸条件が既存社会の胎内で孵化し切らない間は旧来の社会構成体に取って代わることはない。
 この「革命の孵化理論」と呼ぶべき社会理論は公式的な唯物史観テーゼの影に隠れてあまり注目されてこなかったが、これはマルクスにおける「革命の科学」と呼んでもよい「政治経済学批判」の重要な柱を成している。
 このように中期のマルクスが到達した「政治経済学批判」は包括的かつ複合的な社会批判理論として姿を現すのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第15回)

2012-08-29 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道

漂流からロンドン定住へ
 マルクスはプルードン批判書『哲学の貧困』を公刊した後、そこで展開した経済学的諸論点をさらに練り上げる研究へ進むはずであったが、それを中断せざるを得ない事情に直面する。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を公刊した1848年、フランスでルイ・フィリップの7月王政が倒れる2月革命が勃発したのだ。
 これは急進的なブルジョワ革命であって、プロレタリア革命ではなかったが、臨時政府には社会主義者のルイ・ブランや労働者代表も参画し、国立工場の設置など部分的に社会主義的施策にも踏み込んだ点では画期的であった。2月革命に引き続いて同年3月にはウィーンとベルリンでも革命が起き(3月革命)、その余波はベーメン、ハンガリーなど東欧を含めた東西ヨーロッパに広く及び「連続革命」の様相を呈した。
 そうした中、フランス臨時政府はまだブリュッセルにいたマルクスにも招請状を送ってきたが、隣国からの革命の波及を恐れたベルギー当局は3月、マルクスに24時間以内の国外退去を命じ、マルクス夫妻を拘束したうえフランス国境へ連行・追放した。
 こうしてマルクスは再びパリへ戻るのであるが、ベルリンの3月革命を受けて故国へ帰国する決心をしたマルクスは間もなくケルンへ移る。次章で詳しく述べるように、マルクスはドイツの3月革命をプロレタリア革命に先立つブルジョワ革命ととらえ、これをプロレタリア革命へ高めるべく助長せんとしていたのである。そこで彼は共産主義者同盟の仲間たちと新たに『新ライン新聞』を創刊して理論的活動拠点とするとともに、労働者組織の結成にも尽力する。
 しかしフランス2月革命が社会主義化を恐れるブルジョワジーの反動化によって挫折すると、周辺諸国の革命も連鎖的に挫折・収束していった。ケルンでも48年7月以降、共産主義者同盟メンバーの逮捕が相次ぎ、49年5月にはマルクスにも退去命令が出された。そこでマルクスは再びパリへ舞い戻るが、前年12月に大統領に就任していたルイ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの甥)の反動体制に変わっていたフランスにもはや彼の居場所はなかった。結局マルクスは49年8月、比較的自由で多くの亡命者を受け入れていた英国のロンドンへの亡命を余儀なくされるのである。

どん底生活と精力的研究
 ロンドンに定着したマルクスが自由と引き換えに直面したのは、貧困であった。妻イェニーの言葉によると、とりわけロンドン生活初期の1850年から53年にかけては「絶えず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた」時期であった。
 ちなみにマルクス夫妻は50年から55年までの間に次男ハインリヒ、三女フランチェスカ、長男エドガーの三児を相次いで病気で失っている。いかに子どもの死亡率が全般に高かった時代とはいえ、これだけの短期間に三児を失ったところには、借金の取立てに追われ、治療代にも事欠いたマルクス一家の苦境が示されている。
 しかし同時に、マルクスの経済学研究が大きく前進したのも、このどん底生活時代であった。50年には共産主義者同盟も弾圧の中で分裂し事実上活動を停止していたから、1850年代のマルクスは政治的実践からはひとまず離れ、懸案の研究に時間をさくことができたのだった。彼は当時世界最大級の蔵書を擁していた大英博物館図書室を研究室代わりに、膨大な先行著作・原資料を読み込み、研究ノートを作成していく。
 一方、スイス亡命を経て、同じくロンドンへ亡命してきたエンゲルスは間もなくマンチェスターへ移り、父親が経営する商会で働きながらマルクスを支えるようになった。彼はマルクスが生活の足しにするため51年から寄稿を始めた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』へ送るマルクス名義の原稿の相当部分を代筆さえしてマルクスが本業の研究に十分時間をさけるように配慮したのだった。

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多文化主義の限界

2012-08-26 | 時評

昨年7月22日、ノルウェーで白人系ノルウェー人青年が「イスラームの侵略と多文化主義から国を守るため」として、政府庁舎を爆破した後、与党・労働党系政治集会に乱入し銃を乱射して両事件合わせて計77人を殺害した事件で24日、ノルウェーの裁判所は被告人に禁錮21年―10年への短縮の余地を認める―の判決を言い渡した。

日本なら被告人に責任能力が認められる限り、死刑以外はあり得ないと思われる事件で―日本で77人殺に有期懲役刑が出たら、事件そのもの以上に大騒ぎになるだろう―、半期に短縮の余地ある禁錮21年とは、刑罰をもはや「応報」とはとらえず、更生へ向けた矯正の一手段とみなし、死刑も終身刑も持たない先端的な刑事政策を擁するノルウェーならではのことであろう。

この点、自身の姉1人を殺害した発達障碍の認められる被告人に検察側求刑(懲役16年)を超えて懲役20年の判決を言い渡した日本の裁判員裁判(大阪地裁2012年7月30日判決)の後退性とは好対照であった。

それはともかく、ノルウェーの爆破・乱射事件そのものは、やはりノルウェーが率先垂範してきた多文化主義に基づく寛容な移民政策の限界―「失敗」とは言わないまでも―を象徴している。

多文化主義は移民を含む社会成員の各文化の共存を目指すが、それは一方で、各文化保持者のアイデンティティーを刺激し、閉鎖コミュニティーを生む。反面で、被告人のような社会の多数派のアイデンティティーをも刺激して、少数派への反感・憎悪を助長するのである。注 ただし、アイデンティティー構築が少数派の自己差別の療法的意義を持つ場合もあることについては拙稿『〈反差別〉練習帳』理論編六命題25を参照。

さらに多文化主義が依拠する寛容の倫理は、被告人のような多数派の非寛容に対しても寛容たらざるを得ないという自己矛盾を抱え込む。

実際のところ、欧州の主要国はまさに被告人のような思潮の興隆を背景に移民規制の強化へ動いており、多文化主義は曲がり角に来ている。そこからどこへ向うか。被告人が称賛する日本の厳しい移民規制・同化政策、外国人管理政策ではない。そうした同化・排外主義でも多文化主義でもない、人類の単一性という科学的事実に基づく包摂政策である。

それは多様な文化の存在を否定するのでは決してないが、個別の文化的アイデンティティーを高調するのでもなく、人類としての類的共通性の意識を教育を通じて育み、市民としての連帯を社会の基軸とすることである。 

多様性の無垢な称賛は、単一性への暴力的衝動を惹起する━。これがノルウェーの7・22の衝撃から引き出される教訓である。

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領土騒動と生活不安

2012-08-25 | 時評

暑い夏をいっそう熱くする領土騒動━。遺憾にも、東アジア―極東までせり出すロシアも含め―が現在、領土をめぐって揺れている。ここで「騒動」と呼ぶのは、幸いにして現状、紛争としては先鋭化―つまりは戦争の可能性―を示してはいないからである。

それでもこのあたりで頭を冷やすために、視座を転換してみよう。すなわち領土騒動を表面的に受け止めず、その裏に隠された関係当事国民衆の生活不安という共通根を見据えることである。

目下の領土騒動の当事国を見ると、90年代以資本主義的経済成長を達成した韓国―比較的冷静であるが、台湾も同様―、「社会主義市場経済」の名において事実上の資本主義的経済成長の道をひた走る中国、ソ連解体後、再資本主義化路線に舵を切り一定の成功を収めつつあるロシア、そして近年斜陽とはいえ、GDP規模では世界第三位を維持する日本と、いずれも豊かであるか、豊かになりつつある諸国ばかりのように見える。

だが、そうした豊かさの影で、格差拡大による不公平感をも伴った生活不安が上掲各国で増大している。いわゆる「豊かさの中の貧困」問題である。一方で国家は生活保障機能を喪失しており、そのことへの民衆の不満の捌け口として、国家支配層が「領土」を利用しようとしているのだ。

この点では日本も決して例外ではない。日本は現在、周辺各国の領土侵犯にさらされた被害者の役を演じようとしているが、近年、日本国自身が長くあいまいにしてきた領土の画定方針を明確に打ち出し、領土に関する政府見解を疑うことなく生徒らに刷り込むような教育にも乗り出しているのである。

こうしたことの結果、当事国民衆が領土主義的に煽られ、互いに反目し合い、分断されつつある。このような不穏な状況を抜け出す出口は、抽象的な“友愛”理念に基づく「東アジア共同体」構想―それはしょせん支配層同士の利害共有団体でしかない―ではない。それよりも、民衆の生活不安の共有、いわば不安の連帯である。

そこから進んで、3・11に絡めて昨年の拙稿「国家の無力」でも指摘した国家という無力化した政治的枠組みそのものへの懐疑とその超克―世界共同体―への展望をも民衆間で共有できれば、領土騒動は支配層同士のドタバタ喜劇として落ち着いて観覧できるようになるに違いない。

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マルクス/レーニン小伝(連載第14回)

2012-08-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(2)プルードンとの対決

プルードンとの出会い
 マルクスが経済学研究をいっそう進展させるに当たっては、フランスの社会主義者ピエール・ジョセフ・プルードンとの出会いが重要な契機となっている。
 1809年生まれでマルクスよりも一回り年長のプルードンは貧困家庭に生まれ、印刷工として生計を立てながら独学でフリーランスの反体制的な著述家となり、後には投獄も経験した政治的闘士でもあった。マルクスのパリ遊学時代には「財産、それは盗みだ」のセリフで有名な主著『財産とは何か』がセンセーションを呼び、プルードンはフランスを中心に社会評論家として声望を持っていた。
 彼はまた論文「政府とは何か」の中で、「政府に統治されるとは、そうするだけの権利も見識も美徳もない連中によって監視され、検分され、スパイされ、指示され、法的に強制され、番号化され、規制され、登録され、教化され、説教され、統制され、調査され、評価され、査定され、検閲されることの謂いである」と論じるアナーキズムの祖でもあった。
 当初プルードンの『財産とは何か』に感銘を受けた一人であったマルクスはパリでプルードンの知遇を得て交流を深め、特に経済問題について徹底した意見交換をしたという。
 しかし、この出会いはエンゲルスとのそれのようにはいかなかった。プルードンとマルクスの間には大きな溝があったからである。面白いことに、裕福な有産階級出身のエリート・マルクスがすでにプロレタリアートによる人間解放という視座を引っ提げていたのに対し、無産階級出身の独学者プルードンにとっては皆が平等に小財産を持ち、互いに助け合いながら自治的に社会を営む連合主義が理想なのであった。これでは二人の息は合わないはずであった。

『貧困の哲学』vs.『哲学の貧困』
 マルクスとの理論的相違の深さを十分に認識していなかったプルードンは1846年に出した大著『経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』(以下、『貧困の哲学』という)を前年ブリュッセルに亡命していたマルクスに早速送付し、称賛を期待しつつ批評を求めた。
 この本は古典派経済学と既成の社会主義理論についてプルードンなりに体系的な批判を加えたつもりのものであったが、すでにプルードンに批判的になっていたマルクスはこれを好機ととらえ、翌47年、全面的な批判の書『哲学の貧困‐プルードンの貧困の哲学に対する回答』をフランス語で公刊したのである。
 ちなみに、本のタイトル『哲学の貧困』は言うまでもなくプルードンの書『貧困の哲学』を逆さまにもじったもので、多くの友人を離反させてしまうマルクスの皮肉っぽいポレミカルな性格がよく示されている。
 この本におけるマルクスのプルードン批判の骨子は大きく二つあり、一つはプルードンがリカードウを生半可に解釈して導き出した「一定量の労働は同一量の労働によって作られた生産物の価値に等しい」との命題への批判である。
 マルクスによれば、この命題は全くの誤謬である。労働はそれ自体商品であるから、商品としての労働を生産するのに要する労働時間によってその価値が測られるのであり、その労働時間とは労働の不断の維持のため、すなわち労働者を生活させ、その子孫を繁殖させ得るために不可欠な物品を生産するのに必要な労働時間のことにほかならないという。
 従って、この労働時間によって測られた価値としての賃金と、この賃金の下で労働者によって生産された物の価値とは等しくならない。それどころか、労働の自然価格は賃金の最低限をなしている。裏を返せば、労働者は賃金に見合った価値以上の価値を創造させられている。
 こうしたマルクスの「回答」は、価値を創造する人間の肉体的・精神的力量としての「労働力」と価値を創造する働きそのものである「労働」とが混同されていたり、労働(力)の自然(通常)価値は最低賃金に等しいといった誤謬命題にとらわれていたりする理論的な欠陥をなお免れていないものの、「疎外」という倫理学的概念を科学的とされる「剰余価値」理論へ練り上げていくための手がかりがすでに芽生えている。
 マルクスのプルードン批判のもう一つの論点は、プルードンがヘーゲル弁証法の貧弱な援用を通じて―この点こそが本のタイトル『哲学の貧困』の由来である―、現存社会の悪い面を除去し良い面を助長するといった社会改良主義にとどまろうとする不徹底さへの批判である。
 これに対して、マルクスは未公刊に終わった『ドイツ・イデオロギー』で展開していた唯物史観を改めて対置し、プロレタリア革命の必然性を論じる。彼によれば、プルードンは科学者としてブルジョワとプロレタリアの上を天駆けようと欲しているが、実際は資本と労働の間を、経済学と共産主義の間を絶えず揺れ動くプチ・ブルジョワにすぎない。
 最後に、革命前夜における社会科学の最後の言葉として、「戦闘か然らずんば死か、血みどろの闘争か然らずんば無か」というフランスのフェミニスト作家ジョルジュ・サンド―マルクスとも交流があった―の名言を引いて力強く締めくくられるこの書はマルクスにとって初の経済理論書であり、彼の本格的な経済学研究の出発点に位置づけられる作品となったのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第13回)

2012-08-22 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第3章 『資本論』の誕生

この年と次の二年間(注:1850年‐53年)は、私どもにとって外的に数々の極めて大きな心配が襲ってきた時期で、たえず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた。
―妻イェニー・マルクス


(1)初期の経済学研究

『経済学・哲学草稿』
 前章でも触れたように、パリ遊学時代にエンゲルスの論文「国民経済学批判大綱」に接したマルクスは経済学研究の重要性を認識し、以後スミスやリカードウを中心に古典派経済学の研究を鋭意進めていく。その予備的な成果が今日『経済学・哲学草稿』(以下、単に『草稿』という)として公刊されている初期の著作に収められている。
 これは経済学及び哲学にわたる種々の主題を試論的に展開するまさに草稿であって、マルクス生前には公刊されず、1932年になってソ連の研究所の手で編集・公刊されたものであるから、二次性と断片性を免れないのであるが、この草稿には青年マルクスの思想的キーワードと目される「疎外」の概念が鮮明な形で現れる点で、ヒューマニスト・マルクスの到達点を画する作品とみなされている。
 この「疎外」概念は、マルクスの最初の思想的転回点となった論文「ユダヤ人問題に寄せて」の中で、貨幣の本質に絡めて「貨幣は人間の労働と人間の現存在とが人間から疎外されたものであり、この疎遠な存在が人間を支配し、人間はそれを礼拝する」という形で提示されていた。
 『草稿』にあっては、このテーゼを資本主義社会における賃労働全般にまで拡大し、「疎外された労働」という定式化を試みている。それはまだ十分に分節化されていないため、熟した定式ではないが、要するに資本主義の下では労働者は他人の利潤追求の道具として他人に属する物の生産に従事することを個人的な生活、ひいては生命を保続するための手段とせざるを得ないことによって、共同存在という人間性の本質を喪失させられてしまうという批判理論である。
 これを労働者を雇用する資本の側から見れば、労働者も他の商品と同様に、その価値が需要と供給によって変動する一つの商品とみなされ、労働者が死滅してしまうことのないようかれらの生活のために支払われるべき労賃は他の生産手段の維持・修繕等に支出される費用とともに、節約すべき必要経費であるにすぎないという。
 このような概念規定には、後にマルクスが仕上げることになる有名な「剰余価値」の概念とその論理的前提となる労働力=商品論のモチーフがすでに認められるが、『草稿』の段階ではまだヒューマニスティックな倫理学的把握を出ておらず、後年のマルクスが強調する「科学的」把握には到達していなかった。
 しかし、これ以降本格的に推進されるマルクスの経済学研究は、「疎外」概念を―マルクスによれば科学的に―突き詰めていくことに全力が傾注されると言ってよいのである。その際、ヒューマニズムは彼の経済学研究の通奏低音として鳴り響き続ける。そういう意味ではマルクスの「科学」とは通常言われるような歴史の科学でも経済の科学でもなく、人間の科学(人間科学)となるはずである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第12回)

2012-08-17 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで(続き)

『共産党宣言』発表
 『共産党宣言』(以下、単に『宣言』という)はエンゲルスが先行して書いていた未公刊のQ&A形式の小論「共産主義の諸原理」をベースとしつつマルクスが仕上げたもので、完成したのはようやく1848年1月のことであった。
 これは前回見た共産主義者同盟の「理論的にして実践的な綱領」として生まれたものだが、マルクス‐エンゲルスの意図をもはるかに越え、20世紀に入って世界各国で結成された共産党の綱領にも取り込まれた。
 しかし、この『宣言』に対しては、共産主義に肯定的な者も否定的な者も大きな誤解を共有し合ってきたし、おそらく今でもそうである。その誤解とは、この書は共産主義とは何かを明示する綱領文書だという誤解である。
 ところが、実際には『宣言』が第一章を中心に多くのページを費やすのは、唯物史観に立った資本主義の歴史―未来完了態を含む―なのである。特に「自己の生産物の販路を常にますます拡大しようとする欲望に駆り立てられて、ブルジョワ階級は全地球を駆けめぐる。かれらはどんな所にも巣を作り、どんな所をも開拓し、どんな所とも関係を結ばねばならない」で始まるくだりは、『宣言』が発表された19世紀中頃にはまだ英国を中心にほぼ西欧及びその植民地に限られていた国際資本主義の全地球規模化(グローバリゼーション)という今日的現象を未来完了的に予示した点で重要な意味を持つ。少し長く小さな文字になるが、続きの部分を引用してみよう。

ブルジョワ階級は、世界市場の搾取を通じて、諸国の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた。反動らには甚だ気の毒であるが、かれらは産業の足元から、民族的な土台を掘り崩したのだ。遠い昔からの民族的な産業は破壊され、今なお毎日破壊されている。これを押しつけるのは新たな産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。しかもそれはもはや国内の原料ではなく、最も遠く離れた地域から産出する原料をも加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は国内自体で消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸でも消費されたのである。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって新たな欲望が立ち現れる。この新たな欲望を満足させるためには最も遠く離れた国や気候の生産物が必要とされる。かつては地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、代わってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係が立ち現れるのである。

 一方、「マルクス主義」の名の下に遂行されたロシア10月革命(1917年)以降、世界的に盛行したいわゆる「国有化」政策の典拠ともされてきた『宣言』第二章に見えるプロレタリア革命後における10項目の政策提言も共産主義そのものではなく、むしろプロレタリア革命を経由して共産主義社会へ移行するまでの過渡期に対応するプログラムを列挙したものであった。従って、「国有化」は共産主義そのものではなく、共産主義へ至る通過点の手続にすぎない。それは資本を民間資本家の手から国家に移し替えた限りではなお資本主義―言わば国有資本主義―の枠内にあるとさえ言えるのである。
 もう一つ、『宣言』に関わる大きな誤解として共産主義=共産党独裁という図式がある。これは共産主義の政治的側面に関わる誤解である。おそらくその誤解の典拠は『宣言』第三章の「プロレタリア階級はその政治的支配を利用してブルジョワ階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」云々というくだりにあり、さらに後年のマルクスが「プロレタリアートの独裁」という概念を提起したことでいっそう助長され、マルクス自身が独裁政治の理論家にされてしまった。
 しかし、『宣言』が発表された19世紀中頃には政党という近代的な政治用具はまだ発展を見ておらず、政党の発達はマルクス最晩年のヨーロッパでようやく始まるのである。マルクスらが『宣言』をその綱領文書として書いた共産主義者同盟も政党ではなく、共産主義者の国際的運動組織であった。従って「プロレタリア階級の政治的支配」といい、「プロレタリアートの独裁」といい、それらは共産党であれ、その他の何党であれ、政党を通じた支配の埒外にある概念である。
 要するに、それはプロレタリア階級を主体とする革命政権の樹立ということ以上でも以下でもなく、その具体的内実は事実上空欄のままに残されているのである。ただ、後年のマルクスが「独裁」(ディクタトゥール)という重たい用語を持ち出したのは、彼が「本質的に労働者階級の政府」とみなしたパリ・コミューンがブルジョワ支配体制によって無残に粉砕されたのを見て、強力な革命防衛体制の必要性を痛感したことによるものであろう。
 それではマルクス‐エンゲルスの想定する共産主義とは何か━。『宣言』では先行するサン・シモン、フーリエ、オーウェンらの共産主義を「空想的」として批判的に対置しようとする以外、積極的な形では何も示されていないというのが答えである。ただ、プロレタリア階級が革命によって支配階級となり、旧来のブルジョワ的生産様式を廃止し、階級対立を終わらせた後に「ひとりひとりの自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件である」ような「一つの協同体が立ち現れる」と抽象的に定式化されるにとどまるのである。
 このようないささか肩すかしの回答は若きマルクス‐エンゲルスの未熟さに原因があるというよりは、先に見た『ドイツ・イデオロギー』の断片的な命題にもあったように、共産主義を創出されるべき「状態」とかあるべき「理想」ととらえるのでなく、現実を止揚し変革していく「運動」としてとらえるというマルクス‐エンゲルスの視座に由来すると解されるのである。彼らは理論の運動家ではなく、運動の理論家たらんとしていたのだ。

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マルクス/レーニン小伝(連載第11回)

2012-08-16 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで

ブリュッセル亡命
 マルクスはルーゲと共同で創刊した『独仏年誌』をルーゲとの決裂により失った後、パリで亡命ドイツ人たちが発行していた『フォーアヴェルツ』という左派系新聞に寄稿するようになっていたが、同紙はプロイセン批判の急先鋒であったため、プロイセン当局はこれを危険視し、フランス政府に厳重な取り締まりを要請してきた。
 当時のフランスはルイ・フィリップのいわゆる7月王政末期に当たり、選挙法改正運動や労働運動、社会主義運動も高まりを見せる中、政府内では保守的な歴史家でもあった外相ギゾーが実権を握っていた。そのため、フランス政府としてもプロイセン政府の要請を容れ、マルクスら同紙関係者のフランス追放を決定した。
 1845年1月、フランス内務省から一週間以内のパリ退去を命じられたマルクスは2月、知人と共に隣国ベルギーへ出国した。当時のベルギーは30年にオランダから独立したばかりの新興国で、まだ自由な気風があったからである。
 ただ、次女ラウラを身ごもっていたイェニーとパリで生まれた第一子の幼いジェニーはしばらく残留し、後からマルクスに合流することになった。早くも波乱の人生の始まりが予感された。

共産主義者としてのスタート
 マルクスが理論上も実践上も共産主義者として本格的なスタートを切るのは最初の亡命地ブリュッセルにおいてであった。
 45年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移転し、二人の本格的な共同研究が始まる。その手始めは、マルクスによれば「ドイツ哲学のイデオロギー的諸見解に対するわれわれ(マルクスとエンゲルス)の対抗的見解を共同して作り上げること、実際上はわれわれの以前の哲学的意識を精算すること」を目的とした共同著作の執筆であった。これが今日『ドイツ・イデオロギー』として公刊されている二人の代表的な共著である。
 ただ、この作品は予定していた出版社側が断りを入れてきたため、未完の草稿のままに終わり、結局二人の生前には公刊されなかった。そういうわけで、この著作は今日でも十分に整理されないまま公刊されているが、その中心は先のマルクス自身の総括にあるように、ヘーゲル以来のドイツ哲学(ドイツ・イデオロギー)を批判すること自体よりも、マルクス‐エンゲルス自身の以前の「哲学的意識」―ドイツ・イデオロギーの圏内にあったヘーゲル左派―を精算して、いよいよ唯物弁証法及びそれを歴史に適用した唯物史観に基づく新しい共産主義思想―それこそがプロレタリアートの精神的武器となるはずのもの―を提示することにあった。
 こうした課題を担った同書が完全な形で公刊されていればマルクス‐エンゲルス(特にマルクス)の共産主義思想に関する基本書となったはずであるが、残念ながら未整理のために、この著作はマルクス‐エンゲルスの著作中最も読解困難なものとなっている。
 とはいえ、いくつかの断片的な形でマルクス(及びエンゲルス)の共産主義の特徴的な命題を引いてみよう。

☆実践的な唯物論者すなわち共産主義者にとっては現存する世界を革命的に変革すること、眼前に見出される事物を実践的に攻略し変革することこそが問題である。

☆共産主義とは、われわれにとって創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは現在の状態を止揚する現実的な運動である。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる。

☆共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として一挙的かつ同時的にのみ可能なのであり、このことは生産諸力の全般的な発展及びそれと連関する世界交通を前提とする。

 こうした理論的な活動と同時に、二人は共産主義運動の実践にも取り組んだ。『ドイツ・イデオロギー』を書き上げた後の46年2月、彼らはブリュッセルに「共産主義者連絡委員会」を設立し、ヨーロッパ各国の共産主義運動の連帯を目指す。マルクスとエンゲルスがこのような組織を設立したのは、冒険主義的な革命運動でも抽象的な思想運動でもなく、まさに『ドイツ・イデオロギー』の中で提示したような「現実的な運動」としての共産主義を広めるためであった。
 ドイツ人による共産主義運動としてはつとに「正義者同盟」なる秘密結社があったが、一部冒険主義者の起こした無謀な反乱事件に連座して壊滅状態に陥っていたところ、ロンドンで活動していたその残党からマルクス‐エンゲルスの路線に沿った組織再建の相談を受けた二人はこれを承諾し、先の共産主義者連絡委員会も新たな組織「共産主義者同盟」に加盟することになった。
 早くも金欠状態で47年6月に開かれた同盟の第一回ロンドン大会には出席できなかったマルクスであったが、8月には同盟ブリュッセル支部長に推された。そして今度はマルクスも出席した11月から12月にかけての第二回ロンドン大会は、マルクス‐エンゲルスの立てた綱領原則を採択したうえ、大会宣言の起草を二人に委託したのである。この宣言文書があまりにも有名な『共産党宣言』として世に出ることとなった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第10回)

2012-08-10 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(4)盟友エンゲルス

エンゲルスという人
 フリードリヒ・エンゲルスはマルクスよりも2年遅い1820年、ライン州バルメン(現ブッパータール)に、プロイセンの裕福な紡績工場主の子として生まれた。このようにエンゲルスはプロイセンの正統的なブルジョワ階級の出自であった。
 しかし、エンゲルス家はマルクス家のように知的ではなく、エンゲルスも家業を継ぐことが期待され、正規の大学教育を受けることはできなかった。それでも知的なエンゲルスは1841年にベルリンへ出て砲兵隊に志願する一方で、ベルリン大学の聴講生となり、ここで彼もヘーゲル左派に加わったのである。
 このようにエンゲルスは独学者と言ってよい人であったが、元来知的な彼はたちまち頭角を現し、精力的な論文執筆によって注目されるようになった。特に42年秋、英国のマンチェスターで父が経営していた紡績会社で見習いをするため渡英した後に英国の労働者階級の惨状を実地調査してまとめた『英国における労働者階級の状態』は初期エンゲルスの代表作とみなされている。
 エンゲルスはこの渡英の途中、ケルンの『ライン新聞』編集部に立ち寄り、編集主幹マルクスと初めて面会した。しかし、当時のエンゲルスはマルクスがすでに不和になりつつあったベルリンの「自由人たち」の人脈に連なっていたため、マルクスの態度も冷ややかなものとなり、この最初の対面はすれ違いに終わったのだった。
 とはいえ、当初はエンゲルスの方が知名度が高かったうえ、自覚的な共産主義者となったのも、後にマルクスとの共著『共産党宣言』の素材ともなる論文「共産主義の諸原理」を書いたエンゲルスが先行していた。

再会と意気投合
 父親の経営するマンチェスターの紡績工場で見習いを終えて郷里バルメンへ帰国する途中のエンゲルスがパリでマルクスに再会したのは、1844年8月のことであった。
 これより先、エンゲルスは例の『独仏年誌』に論文「国民経済学批判大綱」を発表していた。この論文は初期資本主義の理論家アダム・スミスやデーヴィッド・リカードウらの国民経済学(古典派経済学)を批判するための基本的視座を示したもので、これを読んだマルクスは経済学研究の重要性に開眼し、エンゲルスと文通するようになっていた。
 再会して話してみると、二人の見解は近く、後にエンゲルスが「理論上のあらゆる分野で二人の意見が完全に一致していることが明らかとなった」と述懐したほど意気投合した。この劇的再会はマルクスの人生そのものにとって一大転機となり、これ以降二人は生涯の共同研究者兼政治的同志として固い絆で結ばれることになる。マルクスの私的人生が妻イェニーなしにはあり得なかったとすれば、マルクスの理論家・革命家人生はエンゲルスなしにはあり得なかったと言ってよい。
 とりわけ、マルクスが経済学研究の道へ入るうえで、その先鞭をつけたエンゲルスとの出会いは決定的であった。また自らは研究・執筆のかたわら資本家として会社経営を続け、無産知識人として次第に窮乏していくマルクスとその家族を金銭的に支えたのもエンゲルスであった。エンゲルスはそのように実際家であり、学者肌のマルクスに対して編集者的役割も果たすようになる。編集者エンゲルスの才覚は、マルクスの死後やや有害な形をも取って発揮される。
 このように盟友関係は結んでも肌合いに違いのあった二人の完全な共著による単行本は三作と意外に少ないが、その最初のものは例のバウアー一派をイエス・キリスト一家(聖家族)になぞらえて徹底批判した書『聖家族』であった。これはマルクスにとっては最初の単行著作であり、実質は大半をマルクス自身が執筆したにもかかわらず、共著者としてエンゲルスの名が先に掲げられているところにも、当時はエンゲルスの方が知名度も高かったことが示唆されている。
 いずれにせよ、この本はその内容からしても、すでに疎遠になっていたドクトル・クラブ時代以来の旧友たちに対するマルクスの最終的な決別宣言であった。この中で、マルクスは現実社会の問題と取り組もうとせず、純粋思弁哲学へ沈潜していくバウアーらの立場を「批判のための批判」(批判的批判)と評して鋭く批判し、先に論文「ヘーゲル法哲学批判序説」で提示したプロレタリアートの人間解放という歴史的使命をより詳しく再確認するとともに、誤った現実を投影したヘーゲル精神弁証法における精神と人間的現実との転倒をも批判し乗り超えていこうとするのである。いよいよマルクスは唯物弁証法の世界に一歩近づいていく。
 『聖家族』は1844年11月、二か月足らずで完成した。しかし、この記念すべきマルクス‐エンゲルス最初の合作を公刊する前に、マルクスはパリから立ち退かなければならない重大な事態に直面する。

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マルクス/レーニン小伝(連載第9回)

2012-08-03 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(3)在野知識人へ(続き)

最初のアンガージュマン
 パリ時代のマルクスにとって一つの大きな転機となったのは、この地で初めて政治的な実践、言わばアンガージュマンを経験したことである。
 彼はパリ移転の最大目的であったフランス社会主義・共産主義の研究を文献読解にとどまらず、実際にプルードン、バクーニン、ルイ・ブラン、カベーなど当時のそうそうたる社会主義者・共産主義者らと交流することによって実践した。
 そればかりでなく、彼はドイツ亡命者の集まりや、労働者の集会、民主主義者の会合などにも出席するようになった。特に当時のフランスは1830年の7月革命以来、英国に続く産業革命の進展による産業資本の発達に伴い、労働運動も活発化し始め、その最前線ともなっていたから、そうした運動現場に直接触れたことはマルクスがプロレタリアートによる人間解放という視点を切り拓くに当たって大きな動因となったと考えられる。
 こうして、マルクスはパリで理論家としてのみならず、実践的な革命家としての初めの一歩を踏み出していったのである。
 しかし、こうしたマルクスの実践への傾斜はかつての仲間たちとの決裂をもたらさないわけにはいかなかった。元来、彼がまだこの時点で一応は属していた青年ヘーゲル学派は政治グループではなく哲学グループであった。中でもその重心は宗教(キリスト教)批判にあった。それは聖書の中立性をどこまで認めるかといった神学論争から始まって、マルクスに影響を与えたフォイエルバッハにしてもなお宗教哲学の域にとどまっていた。そのため、マルクスはすでにパリ移転前からフォイエルバッハが政治に目を向けようとしないことに批判的になっていた。
 一方、ルーゲのように政治的関心の高い仲間にあっても、民衆を見下すエリート主義的傾向を免れていなかった。しかし、パリで労働運動とも接触しプロレタリアートによる人間解放を提示するに至ったマルクスにとって、民衆蔑視はもはや容認し難いことであった。彼はルーゲとも早々と決別せざるを得なかった。そのために二人で創刊した『独仏年誌』も創刊合併号をもってあっけなく廃刊となってしまったのだった。
 しかし、こうして次々と決別していった旧友たちに代わって、生涯の盟友となる一人の人物がマルクスのもとに飛び込んでくる。

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マルクス/レーニン小伝(連載第8回)

2012-08-02 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(3)在野知識人へ(続き)

『独仏年誌』と二つの論文
 マルクスはパリで同行の友人ルーゲとともに新しい理論誌『独仏年誌』を創刊した。この雑誌は結局、第一号と第二号の合併号を出しただけで終わってしまうのであるが、その最初にして最後の合併号には青年マルクスの思想的転回を画する二つの論文「ユダヤ人問題に寄せて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」が掲載されている点で重要である。
 第一の論文はマルクス自身の民族的出自とも関わるユダヤ人解放論に引き寄せつつ、実質上別立てとなっている二つの章のうち、特に第一章においてブルジョワ自由主義との決別を宣した論文であり、それは同時に哲学上の“恩師”バウアーに対する初の公然たる批判を含んでいた。
 本章冒頭で見たマルクス17歳当時の小論にもあったとおり、彼は元来、単純に個人の自由を称揚するような個人主義者ではなかったが、青年期マルクスの思想的バックボーンには郷里トリーアの風土や家庭の気風をも反映したブルジョワ自由主義があったことは間違いない。しかし同論文で、マルクスは自らの旧来のバックボーン全体からの転回を宣言したのである。
 その際、バウアーの政教分離を通じた宗教からの解放というテーゼを批判の俎上に載せる第一章においては「ユダヤ人問題」は必ずしもメインテーマではなく、中心はあくまでもブルジョワ自由主義批判、わけても「人権」観念批判に置かれている。従って、そのエッセンスも次の命題にあろう。

いわゆる人権のどれひとつとして利己的な人間、ブルジョワ社会の成員としての人間、すなわち自己自身だけに閉じこもり、私利と私意に閉じこもって共同体から分離された個人であるような人間を超え出るものではない。

 これだけ取り出してくると、あたかも反動的な共同体論の反人権テーゼのようにも響いてしまうが、マルクスは決して人権の否定を唱導しているわけではない。むしろ人間を利己的な個人という原子(モナド)に切り刻んでしまうような観念的人権理念を通じた政治的解放(=ブルジョワ政治革命)の限界性を指摘しているのである。そのような限定された「解放」は真の解放とは言えず、かえって個人の私利私欲を規正するものとしての政治国家の強制権力による人権抑圧を招く自己矛盾―マルクスはこれを「政治国家とブルジョワ社会との現世的な分裂」と定式化する―を来たすことになる。
 こうした矛盾を解きほぐすためにマルクスが政治的解放に対置するのは、この論文の段階ではまだ「人間解放」というヒューマニスティックな抽象命題にとどまっている。
 ただ、彼が論文の結論部分でいくらか具体化して提示した「現実の個体的な人間が抽象的な公民を自己の内に取り戻し、個体的な人間でありながらその経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係の中で類的存在とな」る云々という叙述からすると、マルクスの言う「人間解放」とは人権の否定ではなく、人権を政治的次元にとどまらず、より高い人間的次元―人間の類的存在性―において実現することを目指すテーゼであると解してよいであろう。
 これに対して、同論文第二章は「ユダヤ人問題」を主題的に論じているが、ここではやはりバウアーの「ユダヤ人が解放されるためにはユダヤ教を放棄しなければならない」という命題を内在的に批判しながら、ユダヤ教を廃棄するためにはいかなる社会的基盤を克服すべきかを問うている。
 その際、彼はユダヤ教の基礎を実際的欲求=利己主義ととらえ、それが同時にブルジョワ社会の原理でもあるからこそ、ユダヤ教はブルジョワ社会の完成とともに頂点に達すると言う。すなわち「ブルジョワ社会はそれ自身の内臓から、絶えずユダヤ教を生み出す」。
 そうであれば、その“ユダヤ人”の源泉となるブルジョワ社会を廃することにより、「ユダヤ人問題」も消失することになる。すなわちここで先の人間解放の照準として、私利私欲に基づくブルジョワ社会体制そのものが定められているわけである。
 この「ユダヤ人問題に寄せて」の第二章には表面上痛烈なユダヤ人‐ユダヤ教批判が書き連ねられていることから、自身ユダヤ系であるマルクス自身の「自己憎悪」の表出と解釈できなくもない際どい文献であるが、マルクスの主旨は反ユダヤ主義の宣伝にあるのではもちろんなく、「ユダヤ人問題」の解を「ユダヤ人問題」として、政治的解放―今日流に言えば民族解放―という特殊命題に求めるのでなく、マルクスによればそれ自体がユダヤ(教)的でさえあるブルジョワ社会からの解放―人間解放―という一般命題に求めようとすることにあったのである。
 それではその人間解放は誰がどのようにして実行し得るのか。これを解明しようとしたのが「ヘーゲル法哲学批判序説」である。
 マルクスによれば、そうした人間解放の実現のためにはその担い手が社会全般と取り違えられ、その普遍的代表者と感じられ認められるような熱狂の一時期を自身の内部及び大衆の内部に作り出さねばならず、そのためには社会の一切の欠陥がその階級の中に集中していなければならず、またその解放が全般的な人間解放と思われるようになっていなければならないと言う。
 そのような階級こそ、プロレタリアートである。なぜなら、社会の急激な解体、ことに中間層の解体によって人為的に作り出される貧民層としてのプロレタリアートは人間性を完全に喪失させられており、人間性の完全な再獲得によってのみ自己自身を回復できるような階級にほかならないからである。そしてこのようなプロレタリアートによる人間解放に精神的な武器を提供することが哲学の任務である。人間解放の頭脳は哲学であり、心臓はプロレタリアートであるとも言う。
 こうしてこの論文の意義は、その表題にもかかわらずヘーゲル法哲学批判自体よりも―序説に続く本論が予定されていたが未公刊に終わった―マルクスによる最初の「プロレタリア革命」命題の提起にあると解することができる。ここに至って、マルクスはブルジョワ自由主義から共産主義へ向けて大きく舵を切ったのだと言えよう。

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マルクス/レーニン小伝(連載第7回)

2012-08-01 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(3)在野知識人へ

『ライン新聞』発禁
 『ライン新聞』に対する当局の締め付けはついに発禁処分にまで発展した。プロイセン政府は1843年1月、同紙を同年4月1日付けで発禁とすることを決定した。創刊からわずか1年余りである。
 もっとも、出資者であるブルジョワ層の株主たちは論調を穏健化することで再刊の道を探ろうとしていたが、安易な妥協を嫌うマルクスはそうした延命策を拒否し、辞職の道を選んだのであった。
 この決断について、後年マルクスは「『ライン新聞』に下された死刑宣告を取り消してもらえると信じている同紙経営陣の錯覚をむしろ率先して利用し、公の舞台から書斎に退いた」と述懐している。と言えば25歳での優雅な隠居生活のようにも聞こえるが、実際にはこれ以降マルクスが有給の定職に就くことはなく、在野知識人としての迫害と窮乏の後半生が始まるのである。
 ただ、その前に、彼は長く待望されていた一つの仕事を済ませておく必要があった。

結婚とパリ移転
 マルクスは『ライン新聞』編集主幹を辞職した後の1843年5月、7年間も待たせていた婚約者イェニー・フォン・ヴェストファーレンとクロイツナハで結婚した。クロイツナハはトリーアの東にある小さな温泉町で、イェニーは前年に父ルートヴィヒを亡くした後、母とともにこの地に移り住んでいたのだった。
 こうしてカール25歳とイェニー29歳のマルクス夫妻はクロイツナハで新婚生活を開始する。しかし、マルクスは温泉町で優雅に思索にふけるような人間ではなかった。新婚生活は5ヶ月ほどで早々切り上げ、43年10月、マルクスはイェニーを伴いパリへ移転した。これには新たな友人ルーゲも同行し、マルクス夫妻と同居を始めた。
 この時のパリ移転はまだ亡命ではなく、一種の「留学」であった。前にも述べたように、マルクスは「自由人たち」がかぶれ始めていたフランスの社会主義・共産主義に関する素養の欠如を痛感していたため、自ら本場パリへ赴いて直接に学ぶ決意をしていたのである。

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