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近代革命の社会力学(連載補遺4)

2019-11-03 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(4)ベルナドッテ朝と立憲君主制
 立憲革命後に王位に就いたカール13世はすでに高齢で、病弱でもあったうえに、継嗣もなかったため、王位継承問題が直ちに浮上した。もっとも、王統断絶を契機に共和制へ移行する選択もあり得たが、1809年革命を主導した革命派は立憲君主制の支持者であり、共和制は想定されていなかった。
 ここで、スウェーデン議会は稀に見る奇策に打って出る。こうした場合、通常、他国の王族を招聘することが欧州君主制の慣例であったところ、議会はナポレオン麾下のジャン‐バティスト・ベルナドット元帥を次期国王たる王太子として招聘したのである。
 ベルナドットはフランスの下級法律家の息子で、中産階級平民の出にすぎず、本人自身も認めていたとおり、本来なら一国の君主になる資格はなかった。そのような人物にスウェーデン革命派が白羽の矢を立てた理由は種々考えられるが、一つには革命派に軍人が多かったこと、ナポレオンのフランスを知悉する人物が望ましかったこと、さらにスウェーデン語を解さない外国人の平民出自君主なら立憲君主制が確立しやすいと目論まれたことなどが考えられる。
 ナポレオンもこの奇策に呆れつつ承諾したため、ベルナドットは1810年、カール13世の養子となり、スウェーデン流にカール・ヨハン・ベルナドッテを改名したうえ、摂政王太子に就任、カール13世指揮挙後の1818年にカール14世ヨハンとして即位し、今日まで続くベルナドッテ朝の始祖に納まったのである。
 カール14世ヨハンの治世は彼が死去した1844年まで26年に及んだが、この間、欧州では第一次連続革命、彼の故国フランスでも七月革命を経験する激動の時代であった。そうした中、カール14世は保守的なスタンスを取り、故国での七月革命には否定的であった。
 革命派が密かに期待していた立憲君主制の確立は、カール14世の保守思想や彼自身に統治者としての手腕があったことからも、目論見通りにはいかず、14世存命中は絶対君主制とまではいかないまでも、国王親政によるかなり権威主義的かつ啓蒙的な立憲君主制の運用となった。
 その点、カール14世が摂政王太子時代の1814年にデンマークから割譲させたノルウェーは、同年、当時の欧州では最も先進的な憲法を制定して独立を目指した。この動きはスウェーデン軍の力で抑圧されたが、その後もノルウェーはスウェーデンとの同君連合の枠組み内で、憲法を盾にしばしばカール14世と衝突するのであった。
 この時代のノルウェーは欧州の他国に先駆けて中産階級の形成が進んでおり、依然として貴族制を残すスウェーデンの保守的な階級社会との不調和が生じていたところ、貴族制の廃止をめぐってカール14世と衝突した末、14世にこれを認めさせたのである。
 結局のところ、スウェーデンにおける立憲君主制はカール14世を継いだ息子オスカル1世のより自由主義的な統治の下で最初の進展を見せ、以後、歴代ベルナドッテ朝君主の治下で、革命を経ることなく、漸進的に確立されていくこととなった。そこには、平民出自王朝たるベルナドッテ朝の柔軟性が寄与していたかもしれない。


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