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近代革命の社会力学(連載補遺11)

2022-09-07 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(3)メキシコ独立革命の過程

〈3‐1〉司祭の蜂起~1815年
 ヌエヴァ・エスパーニャの中心地メキシコで独立運動の狼煙が上がったのは1810年のことであるが、そこから独立を達成するには約10年の歳月を要した。その点では、18世紀に先行したアメリカ合衆国の独立過程にも似ており、両者はともに長期戦を伴う革命であった。
 メキシコ独立の長い過程はおおむね1815年を境に前半と後半に分けられるが、前半はカトリック司祭に率いられたゲリラ蜂起の色彩が強く、副王が指揮するスペイン軍が優位にあった。
 前半期の端緒はクリオーリョ出自のカトリック司祭ミゲル・イダルゴが率いる農民反乱として開始された。このような始まりはアメリカ独立運動と大きく異なり、先住民や混血メスティーソから成る農民勢力を革命の主要アクターに押し上げる契機となった。
 イダルゴの農民蜂起は、1810年9月16日のイダルゴの演説(通称イダルゴの叫び)に始まる。ただし、イダルゴは独立よりは、農民を収奪する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、土地の分配などを優先事項として掲げており、厳密な意味では独立運動ではなく、農民一揆に近いものであった。
 明確に独立を掲げた運動は、イダルゴの蜂起とは別途、メスティーソ系のカトリック司祭ホセ・マリア・モレーロスが指導したものが嚆矢である。モローレスは少数精鋭の武装組織を結成し、1812年以降、南部の諸都市を制圧し、1813年、チルパンシンゴで独立宣言を発した後、翌年、アパチンガンでメキシコ初の憲法を発した。
 このアパチンガン憲法は本国スペインの1812年カディス憲法に範を採った自由主義的な近代憲法であったが、対等な三人の構成員から成る合議制の共和政体を採用するなど、カディス憲法より革新的な内容を備えていた。
 けれども、ナポレオン戦争が終結し、安定を回復した本国に呼応して副王軍が攻勢に出ると、モレーロス軍は劣勢に陥り、1815年にはモローレス自身も捕らえられ、処刑されたため、モローレスの蜂起は革命としては不発に終わった。

〈3‐2〉革命への反転~1821年
 モローレス蜂起が失敗した1815年を境に、独立運動は急速に収束に向かう。これは地主階級でもある白人中間層のクリオーリョの間では、本国への不満はあれ、独立への関心はまだ薄く、むしろ農民反乱への不安が共有されていたためと見られる。
 とはいえ、散発的には南部のオアハカなどでなお独立運動残党のゲリラ戦が続いていたため、副王は、軍人アグスティン・デ・イトゥルビデを起用して、オアハカ遠征に派遣した。イトゥルビデは王党派クリオーリョの一人であり、イダルゴやモローレスの蜂起に際しても鎮圧作戦を指揮して戦果を挙げてきた有力な軍人であった。
 奇妙なことに、この人事が収束していた独立運動の再燃と革命への反転の契機となる。その触媒となったのは、またも本国の動向、すなわち1820年の立憲革命である。これを指導したラファエル・デル・リエゴ大佐も南米の独立運動鎮圧の遠征軍の指揮を委ねられながら、反旗を翻した経緯がある。
 イトゥルビデも、当時独立運動を率いていた同じくクリオーリョ出自のビセンテ・ゲレロに敗れたことを機にゲレロの説得を受けて独立派に変心したのであるが、まさにミイラ取りがミイラになるの格言どおりの転向であった。
 ただし、本質的に保守的なイトゥルビデは、立憲君主制・カトリック・全社会的民族的集団の平等を独立メキシコにおける三つの基本原則と定めたイグアラ綱領を発した。これはより急進的な独立派には不満であったはずであるが、さしあたり独立派を束ねるうえでは最も現実的な策であったので、広い支持を受けることとなった。
 そのうえで、イトゥルビデは如上三原則(三つの約束)に基づく新たな独立革命軍「三つの約束軍」を結成して進軍、副王軍を追い詰めた末、1821年8月、南部の都市コルドバにて副王との間でイグアラ綱領を承認するコルドバ条約の締結に至り、メキシコの独立が成立した。


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