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近代革命の社会力学(連載第390回)

2022-03-07 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(6)ブルガリア革命

〈6‐1〉長期指導部とトルコ系迫害政策
 連続革命が始まった1989年の時点で、共産党の一党支配体制下にあったブルガリアでは革命が勃発したどの国よりも長い指導体制が続いていた。すなわち、1954年以来、35年にわたりトドル・ジフコフ党書記長の時代であった。
 ジフコフは対独レジスタンスを経て、若くして共産党指導部入りし、ソ連のスターリン死後の政治情勢の変化の中、40代で書記長に選出された。その後は、ソ連側のフルシチョフ指導部、さらにフルシチョフ失権後のブレジネフ指導部、80年代半ばに現れたゴルバチョフ改革指導部と、ソ連側のたび重なる指導部交代を生き抜いてきた東欧社会主義圏の生き字引であった。
 ジフコフの長期体制は対外的に徹底した親ソ路線、対内的にはある程度緩和された抑圧管理の組み合わせのバランスによって支えられていた。そうしたある種の修正主義的な路線に対しては1960年代に教条派がクーデターを企てたが、これを未然に防ぐと、以後はジフコフの権力が確立されていった。
 長いジフコフ体制下では、元来圧倒的な農業国であったブルガリアの工業化が志向され、ソ連に倣った中央計画経済の手法で短期間に一定の工業化を推進したが、80年代以降は、周辺の同種体制と同様、中央計画経済の限界が見え始めていた。
 その対策としての限定的な経済自由化や外資導入などの改革策も周辺諸国と大差なかったが、ブルガリアの特異性は、オスマントルコの支配下にあった時代以来、ブルガリアに移住・定住してきたトルコ系住民への迫害政策を開始したことである。その背景として、経済的な行き詰まりをブルガリア民族至上主義の扇動によって糊塗しようとしたことが大きい。
 迫害政策の柱は、トルコ系住民の氏名をブルガリア人風に改名させるという一種の強制同化政策であった。これに対して反発を強めたトルコ系住民は抗議デモを組織して激しく抵抗したため、改名政策はわずか一か月で撤回されたものの、「再生プロセス」と名付けられたブルガリア民族至上政策は継続されたため、トルコ系住民も過激化し、テロ攻撃で対抗するようになった。
 これにより、それまで安定していたジフコフ体制が一気に動揺を来たした。そこで、ジフコフ指導部は89年には、トルコ系住民の自発的なトルコ移住を容認するという形で事実上の追放政策を開始した。その結果、およそ36万人を越すトルコ系住民がブルガリアを出国したが、これは当時の人口約900万人の国としては大規模な労働力の喪失につながった。
 こうして、連続革命の年となった1989年のブルガリアは、国際的にも非難され、それまで忠臣で固めていた足元の党内にも反発を引き起こした民族差別政策によって、政治的にも経済的にも自ら墓穴を掘る状況に置かれていたのであった。


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