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近代革命の社会力学(連載第285回)

2021-08-27 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(7)イラクにおける革命の横領
 イラクでは、1968年のバアス党革命が成功し、アーメド・ハッサン・アル‐バクルを頂点とするバアス党支配体制が確立されたのであるが、革命直後から体制の性格に変化が現れた。アル‐バクルの縁故主義によって彼の側近として台頭していた従弟のサダム・フセインが革命翌年の69年に革命指令評議会副議長に任命され、政権ナンバー2にのし上がったことがその契機である。
 フセインは職業軍人ではなかったが、1950年代に入党して以降、職業的テロリストとなり、59年には当時のカーシム首相暗殺未遂事件、64年にはアリフ大統領暗殺計画に加わるなど、数々の陰謀計画に関与していた。
 このような武闘派経歴が従兄のアル‐バクル大統領から重宝され、党内の保安組織を任されたフセインは早くから党内異分子の排除に努め、68年革命後も治安・諜報機関を担当し、アル‐バクル政権の早期安定に寄与した。
 加えて、フセインはイデオロギー面でも、革命前から始まっていたシリアの本家バアス党との離反を促進させ、イラク人を偉大なメソポタミア文明の継承者と位置づけるイラク・ナショナリズムを唱道し、バアス党本来の汎アラブ主義を大幅に修正した。
 一方では、シリアを追われたバアス党創設者のミシェル・アフラクを庇護したが、アフラクを表向き丁重に遇しながら、党運営には関与させず、敬遠する方策を取り続けたのであった。
 フセインは革命直後からアル‐バクルが大統領を辞任した1979年まで副大統領の地位にあったが、この間の約10年は、フセインが治安・諜報機関を権力基盤としつつ、実権をなし崩しにアル‐バクルからもぎ取っていく過程でもあった。
 その際、フセインは治安・諜報機関に自身と同郷ティクリートの出身者や親族を起用して人脈を固めていき、スパイを活用してバアス党内や軍内の動向監視も徹底させたため、革命後のバアス党支配体制は、アサドが権力を確立するまで激動のあったシリアと比べても安定したものとなったことはたしかである。
 とはいえ、イラクはその国境線が英仏によって便宜的に引かれた関係上、南部に多いイスラーム教シーア派が過半数を占め、人口の4割程度の正統派スンナ派が劣勢という周辺諸国の多くとは逆転した社会編成を持っており、イラクのバアス党も当初はシーア派が中心の党であった。
 しかし、その構造はスンナ派に属するアル‐バクルの党掌握以降逆転し、フセインを含めてスンナ派優位となったことで、シリアと同様に、イラクのバアス党体制も少数支配体制となった。
 シーア派の多くは68年革命までに党内から排除され、反体制派に回ることとなり、70年代には何度か暴動を起こすが、いずれも政府により鎮圧された。シーア派が懐柔されるようになるのは、フセインが大統領に就任した後、シーア派国家との戦争となったイラン・イラク戦争に際してである。
 ともあれ、フセインは約10年に及ぶ副大統領在任中に、事実上の最高実力者としての地位を固めていくが、最後の総仕上げは、1979年、アル‐バクルが権力奪回のためか、長く対立していたシリアとの統合憲章を推進したことに対し、フセインが介入し、党内の親シリア派を冷酷に粛清したことである。
 これを機にアル‐バクル大統領は健康問題を表向きの理由とする辞任に追い込まれ、副大統領のフセインが満を持して自ら大統領に就任したのである。これ以降、フセインは個人崇拝に基づく独裁体制を確立するが、その過程でバアス党はフセイン独裁を支える私物のような存在と化していった。
 同時代のシリアでは革命の「矯正」の名の下にアサドによる独裁体制が確立されていったが、イラクでは長い年月をかけたフセインによる革命の横領が生じたと言えるであろう。結果として、シリアとイラクのバアス党革命は結党時の汎アラブ主義の理想からは完全に遠ざかり、互いに反目し合う相似的な長期独裁体制を産み出すこととなった。


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