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近代革命の社会力学(連載第48回)

2019-12-04 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(3)フランス二月革命

〈3‐1〉オルレアン朝体制の限界
 第二次欧州連続革命の中にあって、フランス二月革命は他諸国の革命とはいささか次元を異にする位置づけにある。それゆえ、フランス二月革命を格別に取り出して論じることもできるが、ここでは、連続革命の中の一つという位置づけを維持したうえで、分岐的に見ていくことにしたい。
 フランス二月革命の位置づけが他と異なるのは、フランスでは欧州第一次連続革命の過程で起きた1830年七月革命が成功し、ブルボン朝が最終的に打倒され、ブルボン支流オルレアン家出身のルイ・フィリップを君主とするオルレアン朝立憲君主制が成立していたからである。
 つまり、英国を除く大陸欧州諸国ではウィーン体制下、反動的な絶対君主制が復活し、良くても進歩的な啓蒙専制君主による上からの近代化が進められる程度にとどまっていたところ、フランスでは立憲君主制が一足先に実現していたのであった。
 とはいえ、選挙権は人口の1パーセントにも満たないブルジョワ富裕層に限定された制限選挙制であり、七月革命時、前線で身を挺した労働者や小農などは政治過程から排除されたままであった。一方で、産業革命がフランスでも開始され、資本主義的経済成長が見られたが、その恩恵を受けたのはブルジョワ階級に限られていた。
 このように、オルレアン朝七月王政は、典型的なブルジョワ中心民主主義の権化であり、政治的にも社会経済的にも限界を抱えていた。こうした状況に対して、普通選挙運動が勃興するが、オルレアン朝政府はこれを拒否し、抑圧していた。
 当時、歴史家として体制イデオロギーの工作者であると同時に、首相としても行政府を仕切っていたフランソワ・ギゾーの言葉「選挙権を欲するなら、金持ちになれ」は失言・暴言と受け止められたが、ブルジョワ中心民主主義の本質を簡明に要約した“名言”であった。

〈3‐2〉未然革命:改革宴会
 普通選挙運動が抑圧される一方で、1845年以降、アイルランドでは亡国的な大飢饉を引き起こしたジャガイモの胴枯れ病に起因する飢饉の影響がフランスにも及び、食料価格の高騰による貧困の増大という経済危機が広がっていた。
 こうした経済危機に直面する中、政府に対し改革を求める運動が立ち上がる。それは「改革宴会」と呼ばれるユニークな形態を取った。その名のとおり、これは大衆デモとは異なり、宴会的な要素を伴ったオープンな政治集会であった。主催者は比較的穏健な共和主義者たちであった。
 最初の「宴会」は、1847年7月にパリで主催されたが、これが短期間のうちに全仏規模に広がっていった。翌年にかけて70回の「宴会」が開かれ、のべ2万人近い参加者を集めたとされる。公式には政治的集会は禁止されていたが、当初、政府は「宴会」を黙認していた。
 「宴会」は誰でも参加できる直接参加型の民会のようなスタイルで開催され、民衆蜂起とは異なり、非暴力的なやり方で選挙制度改革を中心とする政策提案がなされたという点では、公式の政府・議会に対抗する民衆権力の表出とも言え、「宴会」の全国的な広がりは、革命を準備する未然革命のような段階を画していた。
 そうした新たな革命の危機を感じ取ったギゾー政権は、1848年2月、パリのシャンゼリゼ通りで計画されていた「宴会」の中止を命じた。「宴会」に対する体制の最初の反撃であった。しかし、この強権措置は逆効果となった。
 2月22日の「宴会」当日、政府の中止命令に背いて、多勢の労働者、学生らが集会した。この「宴会」は、間もなく大規模なデモ行進に形を変え、議会へ向かった。これに対し、阻止のため政府が差し向けた軍の発砲で死者を出したことは火に油を注ぐ結果となる。
 国王ルイ・フィリップはギゾーを罷免して内閣交代を断行したが、事態を軽視していた国王は後任首相にも保守派を据えるミスを犯した。国王の姿勢に失望・反発した民衆は24日、武装蜂起し、ここに再び革命のプロセスが開始されることになる。

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