ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第126回)

2020-07-15 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(13)革命の余波
 1917年ロシア革命は、前節で見たソ連共産党政権による積極的な革命の輸出のほかにも、波及的な事象を世界各国で引き起こしている。その最も大きなものは、帝政ロシアと並ぶ欧州におけるもう二つの帝国であったドイツとオーストリア(ハンガリー二重帝国)において、強力な帝政を打倒した革命である。
 このドイツ革命及びオーストリア革命は、後の章で詳しく見るように、最終的にはブルジョワ共和革命の線で収斂し、親ソ革命政権の樹立には至らなかったが、反帝政・共和革命としては今日まで効果が持続し、20世紀の欧州地政学を大きく変える契機となる出来事であった。
 他方、ロシア革命に先立って共和革命(辛亥革命)に成功していながら、その後、軍閥支配の混乱に陥っていた中国でも、1921年に共産党が結党されていたが、当初の中国共産党はマイナー政党にすぎず、孫文の国民党が圧倒的な革命勢力であった。
 もっとも、中国に十月革命やボリシェヴィズムの思想をいち早く紹介したのは、孫文配下の革命派軍人・陳炯明であった。彼は孫文の護法革命に参加し、ごく短期間ながら福建省漳州に革命解放区を樹立することに成功した。この陳による漳州統治は、ソ連からも中国における初の社会主義の小さな実験と評価された。
 孫文も陳を評価していたが、地方自治や人民による権力掌握など、より革命的な思想を抱懐し、孫文の北伐作戦にも異を唱えた陳は孫文と袂を分かち、孫文をクーデターで追放するに至ったが、最終的には孫文と国民党軍に反撃され、香港に亡命した。なお、彼が亡命中に結党した中国致公党は、現在も中国共産党と協力関係にある傘下小党として存続している。
 コミンテルンとしても、こうして革命勢力として地歩を築いてきた国民党を中国における革命センターとみなす現実的な戦略から、国民党をソ連共産党の協力政党とすべく、ミハイル・ボロディンをコーディネーターとして孫文の顧問に送り込んだ。
 その結果、孫文は「連ソ」・「容共」・「扶助工農」の新方針を掲げ、1924年に国民党と共産党の呉越同舟的な共同戦線たる第一次国共合作を成立させた。同年のレーニン早世と翌年の孫文早世が重なり、合作は頓挫したが、これは、ソ連による革命輸出政策の中国版と言える面とともに、中国大陸でも共産党が伸張していく余波の一環ともなった。
 中国革命の余波を連動的に受けてきた旧清朝版図モンゴルにも、動きがあった。モンゴルでは辛亥革命の後、外モンゴルは活仏ボグド・ハーンを推戴する君主国として独立していたが、ロシア内戦中、侵入してきた白軍のウンゲルンによる暴虐な占領統治に反発したモンゴル民族主義勢力が赤軍に支援を求め、ウンゲルン軍を放逐、改めてボグド・ハーン体制を復旧した。
 ハーンの没後、1924年に君主制を廃止、社会主義を標榜する人民共和国へ再編された。この再編は、コミンテルンの指導下、一種の平和革命により無血で行われた。結果として、モンゴル人民共和国はソ連に次ぐ史上二番目の社会主義国家とみなされることになった。
 以上のような前向きの余波以外に、言わば反面的な余波が及んだのが、スウェーデンであった。スウェーデンでも社会民主労働者党が19世紀末から伸張していたが、ロシア十月革命をめぐる党内抗争で、非主流のボリシェヴィキ支持派が集団離党、1921年に共産党を結成したため、残留主流派はメンシェヴィキ支持の議会主義政党として純化・発展することとなった。
 社民党は、1920年には早くも政権を獲得したが、ヤルマール・ブランティング首相に率いられたこの最初の社民党政権は、選挙で成立した史上初の「社会主義」政権とみなされている。ブランティングは翌年の普通選挙制導入後もさらに二度、20年代に計三度にわたり首相として社民党政権を率いた。
 こうして他国の同種政党に先駆けて親メンシェヴィキ派社民党が議会政治に適応し、1930年代以来、今日に至るまで優位政党として断続的に長期政権を担うことになるスウェーデンは、ロシア→ソ連とは対照的な修正資本主義国家(福祉国家)の20世紀史を歩むことになる。
 一方、ロシアとスウェーデンの間に挟まれた旧帝政ロシア領フィンランドでは、1918年、親ボリシェヴィキ派の革命的蜂起があった。結果的に失敗に終わったフィンランドの未遂革命については、ロシア革命の余波事象を越えた性格も認められることから、続いて独立の章を立てることにする。
 また、帝政ロシアが覇権を及ぼしていたイランでは、1920年、北部ギーラーン地方に、民族主義勢力と共産党が連合して、ボリシェヴィキの支援の下、イラン・ソヴィエト社会主義共和国を建てたが、この地方的な革命もイランに固有の事情を背景としているので、独立の章を立てる。
 また、オーストリア革命の過程で独立したハンガリーでも、1919年、親ボリシェヴィキ派が蜂起し、ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国を建てたが、これはオーストリア革命の枝分かれ的な革命でもあるので、後にオーストリア革命と関連づけた独立の章にて論ずることにする。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 世界共同体憲章試案(連載第... »

コメントを投稿