ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第313回)

2021-10-18 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(1)概観
 ポルトガルは、大航海時代以来、アフリカ大陸にいち早く侵出し、植民地化を推進してきた歴史を持つが、同時に西欧で最も遅くまで植民地政策に固執していた。その背景として、1930年代から第二次大戦をはさんで40年以上も持続していたファシズム体制(拙稿)の時代遅れとなった帝国主義があった。
 そのため、英仏をはじめとする他の西欧諸国が植民地政策を転換し、独立容認へと動いていった1960年代になっても、ポルトガルは依然として動かず、植民地の独立運動に対する苛烈な弾圧を続けていた。
 そうしたアフリカのポルトガル植民地は大陸部の東西をまたぎ、モザンビーク、アンゴラ、ポルトガル領ギニア(現ギニア‐ビサウ:一部島嶼)、さらに西アフリカ島嶼部のカーボヴェルデ、サントメ‐プリンシペにまで及んでいたが、その中でも、独立戦争にまで進んだのは大陸部のアンゴラ、モザンビーク、ギニア‐ビサウである。
 これらの独立戦争地域のうち、面積の上ではモザンビークとアンゴラは広大であったが、それゆえにか、軍事的優位にあり、かつ親ポルトガルの現地勢力に支えられたポルトガルが要地を終始押さえていたのに対し、小国でしかも密林地帯の多いギニア‐ビサウでは解放勢力が効果的なゲリラ戦を展開し、次第に独自の革命解放区を拡大、1973年までに事実上の独立を確保していた。
 そのため、ポルトガルのアフリカ植民地における各独立戦争のうち、ギニア‐ビサウにおけるそれだけが独立革命と呼び得る性格を持つに至った。1973年をひとまず事実上の革命成就年と解すると、これも同時期のアフリカ諸国における第二次革命潮流の一環に含め得ることになるが、独立後の革命事象ではなく、独立を目指す革命となった点で他の革命と大きな相違が見られるため、別立てで扱うものである。
 それと同時に、ギニア‐ビサウでの独立戦争はポルトガルにとっては「ポルトガルのベトナム」と称されるほどの犠牲を伴う総力戦となり、厭戦気分から植民地政策、ひいてはそれに固執するファシズム体制への批判を強めたポルトガル軍の若手・中堅将校の革命的意識が覚醒し、本国における1974年の民主化革命へと向かわせる契機ともなった。
 このように、アフリカにおける革命が西欧における革命へと波及していくのは歴史上極めて稀な事象であり、その点でも、この小さなポルトガル植民地における革命には独特の歴史的な意義があったと言える。
 他方、ギニア‐ビサウ独立革命を担ったのはマルクス‐レーニン主義を掲げる解放運動勢力であり(アンゴラやモザンビークの解放勢力も同様)、独立後は社会主義国家の建設を目指した点では、第二次アフリカ諸国革命潮流における共通的な特徴を示してもいるところである。


[注記]
独立前はポルトガル領ギニアが正式名称であるが、隣接する旧フランス領のギニア共和国と紛らわしいので、本章では独立前後を問わず、ギニア‐ビサウと表記する。なお、日本語表記では通常「ギニアビサウ」と連記されるが、正式にはGuiné-Bissau(英語表記ではGuinea-Bissau)のようにハイフンが挿入されるので、本章のカタカナ表記でもハイフンを挿入する。


コメント    この記事についてブログを書く
« 比較:影の警察国家(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿