ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第167回)

2020-11-11 | 〆近代革命の社会力学

二十二 タイ立憲革命

(5)武官派の優位と疑似ファシズムへの転化
 1938年にパホン首相が事実上の不信任により退任した後、首相の座に就いたのは、やはり軍人のプレーク・ピブーンソンクラームであった。彼はパホン前首相よりも一回り下の世代の人物であったが、人民団に加わり、早くから野心的な頭角を現していた人物である。
 ピブーンは1938年総選挙後に招集された議会(人民代表院)の選挙ではわずか5票しか獲得できなかったにもかからわらず、後任者となるに当たっては、軍部の支持と圧力があった。これにより、二代続けて武官派から首相が選出されることとなり、文民中心の政党政治が未確立の中、武官派の優位が決定的となった。
 一方、文官派の指導者プリーディ―のほうは、パホン内閣で内相と外相を経験し、ピブーン内閣でも財務相に起用され、政権の主要閣僚としての座は維持していたが、文官派の劣勢は明らかであった。
 首相に就任したピブーンは同時代イタリアのファシズムとその指導者ムッソリーニに傾倒しており、就任早々からファシズムに傾斜した政策を展開し始めた。手始めは、人民団員を含む反対派の大量検挙と処刑という恐怖政治であったが、続いて自身もそこに含まれた華人の権利を制限し、同化を促進する一種の民族浄化政策を開始したのであった。
 国名を従来のシャムから民族自称のタイに変更したのも、そうした民族主義政策の象徴であった。こうした国粋的な民族主義政策には、従来から経済的な権益を握っていた華僑華人勢力を階級闘争ではなく、民族差別によって抑圧する狙いがあったこともたしかであり、その点では、同時代ドイツの反ユダヤ政策にも通じるところがある。
 対外政策に関しては、すでに前任のパホン首相時代からの親日政策をさらに進め、太平洋戦争が勃発すると、国民総動員体制を採るとともに、当初は中立を標榜するも、間もなく日本との同盟に転じ、枢軸国側に立って米英に宣戦布告した。
 しかし、その過程で日本軍のタイ領内通過を認めるという形で日本軍による準占領状態に陥ったことへの国民の反発が高まり、ピブーンは第二次内閣を率いていた44年、いったん辞職に追い込まれることになる。
 しかし、サバイバル戦術に長けた彼は、戦後、クーデターによって返り咲き、以後、1957年に軍部内造反派のクーデターで失権するまで、連続的に通算八次もの内閣を率いて、一時代を築いた。
 こうしたピブーンの体制は、個人崇拝による独裁政治であった。その点、ピブーンは戦後、自身の政党を結成したものの、基本的には政党よりも軍部を支持基盤とする軍事政権の性格が強かったため、純粋のファシズム体制ではなかったが、ファシズムに強く傾斜した疑似ファシズムの性格を持っていた(拙稿参照)。
 このような方向性は出発点の立憲革命の理想からは逸脱したもので、とりわけ文官派のプリーディーの理念とは合わなかったから、彼はピブーンと次第に敵対するにようになる。特に親日政策に反対し、戦時中は日本の準占領状態に抵抗する自由タイ運動を組織するなど、完全に袂を分かった。
 人民団文官派は戦後、民主主義の確立を目指して新党・民主党を結党し、クアン・アパイウォンを首相に擁して政権を獲得するが、ピブーンのクーデターで打倒され、民主党体制が根付くことはなかった。結局、タイはピブーンの最終的な失権後も、軍部のクーデターが相次ぐ体質が今日まで続いている。
 結局のところ、1932年立憲革命は絶対君主制の転換という点では長期的な成功を収めたものの、中心となった人民団における武官派主導のクーデターという手法によったことから、武官派の優位が確立し、人民団が役割を終えた後も、軍部優位の構造が定着したのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 比較:影の警察国家(連載第... »

コメントを投稿