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近代革命の社会力学(連載第378回)

2022-02-08 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(4)不正選挙と民衆蜂起、軍の離反
 ベニグノ・アキノ暗殺事件後の抗議活動は体制の想定を超えるものがあり、最大の後ろ盾であるアメリカからも不信感を持たれるようになった。危機感を抱いたマルコスは任期六年の残期一年を迎えた1986年2月に大統領選挙を前倒し実施することをアメリカのメディアのインタビューで表明した。この電撃発表には、野党に準備期間を与えない狙いも窺えた。
 これに対し、野党連合の「統一民族主義者民主機構」は統一候補として、アキノ未亡人のコラソン・アキノを擁立した。コラソンは政治歴のない主婦だったが、野党のシンボルとして誰よりも求心力があると見込まれたのであった。
 1986年2月7日―奇しくも、ハイチのデュヴァリエ大統領が亡命した日―の投票後、当初、政府は現職マルコスが約160万票差で勝利したと発表したが、民間選挙監視団体は逆にアキノ候補が約80万票差で勝利したと対抗発表する事態となった。当時はマルコス支持もなお堅く、本来なら再集計が必要な僅差であったと見られるが、現職陣営の開票操作が現場から暴露されたことで、事態は一変する。
 民衆の抗議デモが拡大し、アキノ陣営も当選を前提に勝利集会を開催したことで、急速に革命的な機運が高まった。通常の民衆蜂起と異なり、選挙直後のタイミングのため、勝利を確信する野党勢力は対抗権力を形成しやすい状況にあったことも確かである。
 そうした中、2月22日に決定機が訪れる。この日、改革国軍運動によるクーデター計画が政権側に察知され、一部メンバー将校が検挙されたことを契機に、運動を擁護するフアン・ポンセ・エンリレ国防相とフィデル・ラモス参謀次長(兼警察軍総監)がそろって政権からの離脱を表明し、国防省に籠城した。
 この二人は元来、マルコスの最側近集団12人衆に属していたため、これは「身内」からの造反であり、しかも共に軍に影響力を持つだけに、政権には打撃であった。二人の造反直後、霊的な指導者として民衆の信頼も厚いハイメ・シン枢機卿が声明で両人への支持と支援のため国防省前での街頭デモを呼びかけた。
 枢機卿のような高位聖職者がデモ行動を鼓舞するのは異例であったが、これで民衆デモに弾みがつき、軍からの造反者も増加し、2月22日は革命の初日となった。一方、マルコス大統領が腹心のヴェール国軍参謀総長から強く進言された群衆への発砲許可を出さなかったことも、革命の進行を早めた。
 25日にはマルコスとアキノの両陣営による二つの大統領就任式が二重に執行されるという珍事の後、マルコス一家はハワイに向け、出国した。その裏にアメリカ政府による事前の差配があったことは確実である。その点、ハイチ民衆革命と同様、最大の支援国であるアメリカが独裁者に引導を渡したことが最後の決定因となった。
 こうしてフィリピン民衆革命は不正選挙を契機に1986年2月22日からの3日間に短期集約され、その過程がテレビを通じて時々刻々とリアルタイムで世界に配信されたことで、スペクタクル化されたという面もある。
 この電撃的な民衆革命の決定要因は軍上層部の離反にあり、それなくしては成功しなかったであろうという点では純粋の民衆革命ではなかったが、他方で、民衆蜂起なくしては軍の造反もなく、民衆の支持行動がなければ造反軍人らは政権に忠実な国軍部隊によって逮捕されていたであろうという点では、やはり民衆革命と呼ぶにふさわしい事象であったと言える。


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