ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第63回)

2023-05-27 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力(続き)

近代医薬学の発達と生命科学
 医学と薬学は近代科学成立以前からの古い歴史を持ち、元来は医師や薬師の施療経験にのみ基づく職人的知見であった。そうした伝統的な医薬学は世界各地の各民族間に存在してきたが、近代科学の勃興は医薬学のあり方にも決定的な変革を引き起こした。
 ここでも、顕微鏡の発明と微生物学の発達は画期的であった。微生物の概念は顕微鏡の祖国であるオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックによって導入されたが、本格的な微生物学はフランスのルイ・パスツールに始まる。パスツールの強みは、元来は化学専攻で、化学的な素養の上に生物学を築いたことにある。そこから、化学と生物学を融合した生化学という新分野が開拓された。
 パスツールまた、医師・生理学者のクロード・ベルナールとともに、ワインなど飲料の低温殺菌法としてパスチャライゼーションを開発するなど、産業的な応用性の高い研究も行い、細菌学の実用性を高めた。
 こうした細菌学、広くは感染症学の発達は、近代的な医学の発達を強く後押しした。その点、明治維新後、西洋医学を取り急ぎ導入した日本が輩出した国際的な医学者の多くも細菌学者あるいは感染症学者であったことは偶然ではない。
 また、近代的な生理学の発達も、生物の臓器の形状や構造を外部から観察するにとどまる解剖学を超え、臓器や神経系の機能をより精緻に解析することを可能にし、病気の原因に遡る病理学に基づいた新しい医学の誕生を促した。
 他方、薬学の分野でも、細菌学、広くは感染症学の発達は、それまで伝統的な薬学では限界のあった感染症の治療で多くのブレークスルーを成し遂げた。パスツールの狂犬病ワクチン治療や北里柴三郎の破傷風血清療法、パウル・エーリッヒと秦佐八郎の梅毒治療薬サルバルサンの開発などは、初期の近代薬学の重要な成果である。
 かくして、近代的な医薬学は病気の治療という実践的な使命を担いつつ、経験と勘に依存せず、生物学とともに、科学的な思考を通じて生命現象に迫るもう一つのアプローチを提供することにより、実用性の高い生命科学の誕生と発展を促進したと言える。

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近代科学の政治経済史(連載第62回)

2023-05-15 | 〆近代科学の政治経済史

十二 生命科学と生命科学資本・生権力

有機体に関する科学である生物学は物理学と並び古い歴史を持つ科学であるが、20世紀以降、その発展は著しく、情報科学と並び、近年最も応用的な進歩を遂げている科学分野である。それは医薬学の発展ともリンクしつつ、経済的には生命現象そのものを人為的に操作する技術を備えた生命科学資本のような新規の資本を生み出すとともに、政治的にも生命現象をそのものを管理する生権力の可能性を高め、人間を含めた生物の存在性そのものに根源的な影響を及ぼしている。


生物学から生命科学へ

 生物学という経験的学問は、古代ギリシャはアリストテレスの『動物誌』以来の古い歴史を持つとはいえ、同書は今日的に見て多くの誤謬を含む思弁的な思考の域を出ておらず、近代的な経験科学としての生物学が成立したのは、他の近代科学分野と同様に17世紀のことである。
 中でも、オランダで発明された顕微鏡は画期的な道具となり、物理学者でもあったロバート・フックが顕微鏡を用いて細胞という生命体の最小単位を発見、さらにオランダの商人かつ生物学者でもあったアントニ・ファン・レーウェンフックが微生物を発見したことは近代生物学の本格的な幕開けとなった。
 顕微鏡により従来は肉眼でマクロな形態しか把握できなかった生命体について、肉眼では捉え切れない微生物や一般生物の細胞などの微視的な生命現象を捉えることができるようになったことは、近代生物学の発展を強く促した。
 19世紀後半には、マクロな分野でもダーウィンの進化論が台頭し、宗教的に大きな反駁を呼びつつも、通説として定着していった。一方、ミクロな分野では画期的なメンデルの遺伝学が誕生したが、この両者は遺伝的進化の理論として結合していく。
 20世紀以降には、電子顕微鏡の発明により、生命現象に対する微視的解明はさらに精緻を極めるようになり、分子生物学のような超ミクロな生物学も発展する。これは遺伝学とも結びついて、分子遺伝学の発達、ひいてはゲノム解読にも至る。
 このようにして、当初は生物の素朴な観察に始まった生物学は、次第に生命現象そのものを微視的に解明する生命科学へと発展を遂げていった。それに伴い、生命現象を人工的に操作するような政治経済的に利用価値の高い技術も誕生し、人間存在、ひいては生物界全体にも不穏な影響を及ぼしつつある。

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近代科学の政治経済史(連載第61回)

2023-05-08 | 〆近代科学の政治経済史

十一 情報科学と情報資本・情報権力(続き)

国家の情報化と高度監視社会
 20世紀末以降における情報科学のビッグバンと表現してもよい急激的な発達は、国家の統治にも高度な情報化をもたらしている。それは国家統治のあらゆる分野に及んでいるが、中でも軍事と保安の分野で特に高度である。
 軍事に関しては、伝統的な戦術が高度に情報技術化され、無人攻撃機のように、爆撃を無人で実施するような戦術の革新現象が顕著に見られる。こうした無人兵器は広義の軍用ロボットであり、今後は軍用ロボットの作戦投入はいっそう拡大するだろう。
 それにとどまらず、ハッキング等の電子技術を通じた敵国のインフラストラクチャーの破壊・攪乱など電子工作自体を戦争の手段とするサイバー戦争、及びそれを専門とするサイバー軍という新たな戦争手段も登場してきた。
 こうした戦争の高度情報化は、かつての人海戦術的な陸戦のように大量の戦死者を出すことを避けて、目的や標的を限定した戦争を可能にしてはいるが、戦争の概念を拡大することにより、かえって国家に戦争の効率的な選択肢を与える結果となっている。
 また軍事と密接に関連する諜報活動に関しても、かつては生身の人間たるスパイを使った情報の盗取工作が主体であったところ、情報技術が高度化した今日では、ハッキングや偽情報の拡散等の電子工作活動が主体となりつつある。
 市民的自由を脅かす国家による情報科学のより集中的な活用は、保安分野で進行している。ここで言う保安は犯罪の抑止や摘発、テロリズム対策を含めた広い意味での治安政策であるが、こうした分野でも、電子技術を通じた個人のセンシティブ情報収集技術や行動追跡技術、さらには監視カメラ網の全般化と結びついた顔認識技術などが開発されてきている。
 こうした保安の高度情報化は、自由主義を標榜する諸国でも2010年代以降、急速に進行し、「自由」を形骸させているが、一方で、従来からの管理統制国家では、ネット検閲(選択的通信遮断)のような新たな統制手段が発達し、電子的な管理統制を強めている。
 軍事や保安面での高度情報化は、「国家からの自由」の古典的な概念を形骸化させ、体制の形態を問わず、高度監視社会という世界共通の潮流を作り出す要因となっている。
 他方で、国のサービスの受給や投票などを電子的に処理する電子政府化も進んでおり、国民に便益を与えている面もあるが、これらは国民の側の電子化への対応力とも相関するため、全面的な電子政府化は至難である。
 情報科学/技術は今後とも日進月歩の進化を続けるであろうが、国家がその成果をどこまで、どのように活用すべきかについての議論は後手に回っている。しかし、自由の形骸化を阻止するためには、そうした国家の情報倫理も問われる必要がある。

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