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近代革命の社会力学(連載補遺38)

2022-10-25 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(3)インド独立運動の脱革命的性格
 1947年のインド独立は、南アジアからアジア全般、さらには国際秩序にも波動的な影響を及ぼした事象であり、前回も触れたとおり、1951年のネパール立憲革命に対しても触発的な影響を与える中間項的な要因であった。
 インドの独立運動の歴史は長く、ラナ家専制下のネパールも英国東インド会社側で参戦した1857年の反英大蜂起を嚆矢として、およそ一世紀近く継続され、その間には革命によって独立を獲得しようとする動きも見られた。
 中でも、かねてより民族運動の中心にあったベンガルの革命的独立運動は、英国がベンガル地方をヒンドゥーとイスラームの宗教別に東西分割することを図った1905年のベンガル分割令の後、活性化された。
 しかし、こうした革命的運動は全般的な運動に展開することなく、ベンガルのほか、ウッタ―ル・プラデシュ、マハーラーシュトラ、ビハール、パンジャブなどの地域に限局された運動にとどまりつつも、20世紀以降に活発化し、二つの大戦の戦間期には爆弾テロなどの手法にしばしば出たが、幅広い支持を受けることはなかった。
 これに対して、南アフリカのインド人擁護活動を経験したマハトマ・ガンジーが提唱した「サティヤーグラハ(真理の把持)」思想に基づく非暴力抵抗運動は一世を風靡し、インド独立運動の主要な精神的・実践的な支柱となった。
 このようなインド独立運動における脱革命的な性格は歴史的にも特異であるが、おそらくガンジーの思想がアヒンサー(非暴力)のようなヒンドゥー教思想に着想されていたことが、ヒンドゥー教を優位宗教とするインド社会に適合したためであろう。
 もちろん、インド独立はこうした思想の力のみで達成されたわけではなく、1885年設立のインド国民会議という政治的な結集体の寄与が大きい。この政治団体は英領インドにおける英国の人種差別的な統治に反発するインド知識人を中心に立ち上げられた穏健派組織で、当初はある種の人権団体であった。
 しかし、19世紀末に自主独立を掲げる急進勢力が内部から台頭し、大衆にも浸透する民族主義団体に発展した。そして、ベンガル分割令を一つの契機とした1906年の大会で、四大綱領(英貨排斥・国産品愛用・自主独立・民族教育)を採択して以来、事実上の独立運動団体となった。
 その後、国民会議内部の穏健派と急進派の路線対立が激化したが、ガンジーの参加を得て、1920年以降、ガンジーの非暴力主義が事実上の路線となると、内部対立が緩和・止揚され、国民会議はインド独立運動の中心勢力として定着していった。
 このように、非暴力を理念とする会議体組織が運動の中心に立つことにより、インド独立運動は脱革命的な性格を強め、塩専売制に反対した1930年の「塩の行進」に象徴される不服従運動を手段としつつ、宗主国との対話と交渉を通じた独立獲得が目指されるようになる。
 第二次大戦後、戦勝しながらも戦災で疲弊した宗主国・英国労働党政権の植民地政策の方針転換により、インドはイスラーム優位のパキスタンとの分割独立という変則ながらも、独立を果たした。


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