ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第61回)

2013-02-25 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として(続き)

上意下達政治
 為政者としてのレーニンの統治スタイルは上位下達のワンマン政治であった。このやり方は革命家時代からの彼の習慣であって、党内権力を確立してからの彼はいつも一人で決め、起草した文書を「テーゼ」と名づけて定言命法的に通達し、機関決定を迫るのであった。これは要するに、レーニンの指導への服従命令を意味していた。
 こういうワンマン・スタイルが如実に表れたのが、2月革命直後に帰国した際に示したかの「4月テーゼ」であった。この時はさすがに党内から反発が出て大いに紛糾を来たしたことはすでに見たとおりだが、それでも彼は異論派をねじ伏せて自らの「テーゼ」を貫徹したのである。
 このような手法は為政者となっても本質的に変わらなかったが、それは必然的に側近政治につながり、レーニンと彼の取り巻きで構成された党指導部の専制が党の基本的な運営スタイルとして定着していく。
 レーニンが確立し、その後世界の共産党の党運営の鉄則となったいわゆる民主集中制も、所詮は党指導部独裁、それも多くの場合、最高指導者の個人的独裁のイチジクの葉として機能してきたにすぎない。その点では、ブルジョワ保守系政党の方がより民主的な党運営を行っていることも珍しくない。
 レーニンは従来、あまり「独裁者」と呼ばれてこなかったが、彼はまぎれもなく独裁者であり、こう言ってよければ社会主義の衣を着た新ツァーリですらあった。にもかかわらず、彼が独裁者呼ばわりされることを免れているのは、その統治期間が短かったことに加え、後継者スターリンの長期にわたった独裁ぶりが度外れに悪名高いがために、前任者の独裁が霞んでしまったからにすぎなかった。
 その二代目スターリンは能吏タイプの党専従活動家としてレーニンの信任を得、若くしてレーニン側近となってその統治スタイルを着実に“学習”し、身につけていったのである。ただ、彼が党内権力を掌握するためには、レーニンの発病というチャンスがめぐってこなければならなかった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第60回)

2013-02-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として(続き)

無原則主義
 政策決定者としてのレーニンを特徴づけるのは、その時々の情勢に応じて施策を使い分ける状況判断であった。
 この特徴は革命家時代には臨機応変な情勢判断に基づき10月革命を成功させるうえで大きな力となったものであるが、為政者としてはまさに「一度握った権力は手放さない」と誓ったとおり、権力を保持するうえで極めて有効であった。
 このようなレーニンの流儀は確固とした原則を持たない無原則主義の現れにほかならなかった。これは、一定の原則を持ちつつも状況次第で動揺し、軸がぶれていく動揺分子的な立場とも、またおよそ態度表明せず、状況に応じて自己の利益に適う立場を選択する日和見主義とも異なる、まさに「レーニン主義」独自の特質であった。
 こうした無原則主義も、個別具体的なケースごとに対処法を選択していく法律家的な発想と手法に由来するものと取れないことはない。それは善解すれば「柔軟」ということになろうが、民衆の生活に直結する基本的な経済政策があまりに「柔軟」に変動すると、社会的な混乱のもととなる。
 レーニン政権の経済政策は当初、「戦時統制経済から社会主義へ」というテーゼに沿って「戦時共産主義」と称される統制経済からスタートするが、その結果、各種工場や銀行の急激な国有化のために経済が大混乱に陥ると、内戦・干渉戦終結後、今度は中小企業の私的営業の容認や独立採算制の導入まで含んだ「新経済政策(NEP)」に転換する。
 しかし、事実上資本主義原理を容認し、社会主義に逆行するようなネップが党内で批判されると、レーニンはプロレタリア国家の統制と規制の下に置かれた「国家資本主義」なるマルクスにはない新概念を持ち出して正当化を図った。
 一方では、社会主義とも辻褄を合わせるため、ネップへの政策転換と同時に経済計画の立案・実施機関となる国家計画委員会(ゴスプラン)をも設立した。さらに、まだネップ期にあった死の直前の頃にまとめて書いた五論文の一つでは、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を「文化革命」と呼んで後世に託してもいる。
 こうしたレーニン流無原則主義は経済問題のみならず、民族問題や宗教問題といったよリデリケートな領域でも発揮されている。
 特に民族問題に関わる彼の無原則主義が大きな政争に発展したのは、ソ連邦結成に際して生じた「グルジア問題」であった。グルジアのソ連邦への参加方法をめぐっては、独立してソ連邦に参加することを主張する民族派と、「自治共和国」という形式で参加することを主張するスターリンらロシア寄りグループの対立があったが、レーニンはそのどちらも支持せず、カフカス地域を包括するザカフカス共和国に編入して参加させる方式を提案し、党に認めさせたのである。
 彼はスターリン案を「大ロシア主義」と批判しながら、自らの案もグルジア人の民族自決を認めず、ロシア中心の連邦構成を目指したものにすぎなかった。レーニンはソ連邦を構築するに当たっては、かつてローザとの論争で高調した民族自決云々よりも、明らかに資源をはじめとする帝政ロシア以来の経済的権益の方を優先していたのだ。
 宗教問題に関する無原則主義もまた鮮明であった。レーニンの宗教認識が最も鮮明に現れているのは、第一次革命の渦中で書かれた1905年の「社会主義と宗教」という論文である。そこでの彼は宗教を人民の阿片とみなすマルクスの認識を継承しつつも、宗教に対しては「穏やかで、自制力のある、寛容なプロレタリア連帯性と科学的世界観の宣伝を対置する」との指針を示していた。
 ところが為政者としては、レーニン政権がコミンテルンの活動資金に充てるため、ロシア正教会の財産の没収を強化していたことに抗議する信徒らの暴動を契機に、1922年にはロシア正教会の弾圧に乗り出し、聖職者の処刑を断行したのであった。その20年近く前の論文における「寛容」な宗教対抗策は、現実の宗教暴動の鎮圧と帝政ロシアの精神的支柱であった正教会の打倒という政権課題の前では棚上げにされたのだ。
 レーニンの死の三年後に自ら命を絶つ芥川龍之介が遺作「或阿呆の一生」の中に書き付けた次のような詩的なレーニン評は、レーニンのしたたかな二枚舌、三枚舌の無原則主義を鋭い文学的直観で的確にとらえていたように思える。

誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第59回)

2013-02-22 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として

抑圧と収奪
 10月革命後の為政者としてのレーニンの統治期間は6年余りにすぎず、彼の履歴においては革命家としての活動期間が圧倒的に長いことから、従来為政者としてのレーニンの特質についてはあまり正面から検証されてこなかった。
 しかし、レーニンはまぎれもなく10月革命後のロシア及びソ連時代の最高権力者であった。そういう最高権力者としてのレーニンの特質として目を引くのは、抑圧と収奪とに対するためらいのなさである。
 レーニン政権による抑圧は10月革命の直後から始まっている。前にも述べたように、10月革命の三日後に革命を強く批判する声明を出したプレハーノフは早速翌日ボリシェヴィキ系武装部隊の家宅捜索を受け、フィンランドへの亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキの指導者マルトフは反ボリシェヴィキの活動を続けて秘密警察チェ・カーの追及を受けた。しかし、レーニンも若き日の友を逮捕・処刑することはさすがに気が引けたと見え、マルトフには人を介して亡命を勧めている。レーニンは今や敵となったかつての師や友まで亡命に追いやったのである。
 この点、カール・シュミットは政治的なるものの本質として、敵/味方の峻別という有名な定義を提出したが、革命運動の時代以来、為政者としても敵/味方の峻別に厳格であったレーニンは、まさにシュミット的な意味での政治的なものの実践者であり、このことも敵への報復という形で抑圧を導きやすかったと考えられる。
 こうしたレーニン政権の抑圧はかのエス・エルによるレーニン暗殺未遂事件の後に最高潮に達した。党は「赤色テロ」でもって報復することを宣言し、チェ・カーをフル動員してエス・エルに限らずおよそ反体制分子全般に対する大規模な抑圧に乗り出す。その基本は裁判なしの、または略式裁判による投獄・処刑であった。暗殺未遂後の「赤色テロ」だけでも1万ないし1万5千人が裁判なしに処刑されたと推定されている。
 ソ連時代末期以降の情報公開政策の中で次第にその実態が明るみに出され始めたこうした抑圧は内戦が本格化するとむしろ常態化して恐怖政治の手段となり、内戦が終息し社会が安定化しても、体制の体質として残されたのである。
 こうした点で、レーニンはマルクスよりもフランス革命時のジャコバン派指導者ロベスピエールの方に似ていたし、彼自身それを意識していた形跡もある。
 ここで、レーニンもロベスピエールも法曹(弁護士)であったのになぜかくも法を軽視することができたのかという疑念も浮かぶが、実のところ、彼らは法律家であったからこそ、法を軽視できたのである。
 彼らはともに「緊急は法を持たず」という法格言の忠実な実践者であった。国家権力は法に基づいて行使されなければならないという「法治」とは平時の原則であって、緊急時の国家は法を超越して行動することが許される━。これが上記格言の趣旨である。前皇帝一家に対する裁判なしの銃殺処分も赤色テロも、その観点からしてレーニンにとっては少しも良心のとがめるところではなかったのである。
 もう少し政治的な観点から眺めると、例外状況に関して決定を下す者をもって主権者と定義した前出カール・シュミット的な意味において、レーニンはまさしく主権者=最高権力者だったのであり、彼の体制において人民は主権者ではなかったのである。
 レーニンは抑圧に加え、すでに言及した農村の食糧割当徴発制のような収奪もためらわなかった。ここでも農民が対抗手段として食糧隠匿に走ると、人民の敵たる「富農」との烙印が押され、抑圧の対象とされた。この政策は内戦前に導入されたものではあったが、内戦が本格すると「戦時共産主義」という例外状況の中で、いよいよ大っぴらに抵抗勢力に対するテロルを伴いつつ展開されていった。
 この間、レーニンの傍にあって、冷徹な彼の抑圧と収奪の手段を逐一“学習”していたのが、かのスターリンなのであった。

コメント

最後のスターリン主義国家

2013-02-16 | 時評

今年は旧ソ連の独裁者スターリン没後60周年である。かつてはいわゆる社会主義圏でスターリン流の体制を採る国家―スターリン主義国家―が多く見られたが、スターリン没後は旧ソ連も含め、次第に衰滅していった。そうした中で、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)はスターリン主義国家の最後の生き残りである。 

スターリン主義の特徴は、単純な社会主義ではなく、徹底した個人崇拝と軍事優先の諜報国家体制にある。朝鮮はこの特徴を完全に備えている。その意味では、朝鮮は決してよく言われるような特異な国家ではない。歴史的にも、朝鮮はスターリン存命中の1948年、スターリン政権を後ろ盾に建国され、冷戦下旧ソ連の極東における衛星国家としてスタートとしている。

ミサイル開発や核実験、さらには拉致のような諜報工作も、スターリン主義的な軍事諜報国家ならではの国家活動としてとらえることができる。その行動は一見無謀に見えながら、実はかなり高度な政治的打算に基づいており、決して“狂信”の表れではない。

朝鮮がスターリン主義とも異なるのは、スターリンもあえて試みようとはしなかった“世襲”により世代を超えて体制を継承し得ている点である。実際、スターリンのスターリン体制は総帥の死により30年ほどで終わったが、朝鮮のスターリン体制は建国者の首領金日成没後も持続し、21世紀まで半世紀以上もしたたかに生き延びてきたゆえんである。

こうした侮ることのできない最後のスターリン主義国家に対して、国際社会は危険を煽る「敵視・敵対」でも、媚を売る「宥和・包容」でもなく、熱を冷ます「理解・対話」で向き合うことが有益である。

ここで「理解」とは、朝鮮の体制を表層的にとらえるのではなく、建国史を踏まえつつ、如上のように「最後のスターリン主義国家」として正確に把握することである。

そのうえで「対話」のチャンネルを維持することであるが、「対話」といっても、単に核開発の放棄を説得するだけでは埒が明かないだろう。対話の前提となる政治経済的条件を整備する必要がある。

その場合、経済的条件が優先されるべきである。なぜなら、朝鮮が核開発などの軍事優先政策をひた走るのは、一般通念に反し、対米防衛よりも、当面する未曾有の経済危機をカバーして国威を発揚し、内部からの体制崩壊を防止することに主眼があると考えられるからである。

具体的には、朝鮮がまがりなりにも採用してきた計画経済の立て直しを支援することである。朝鮮が当面する経済危機は、これまた一般通念に反し、市場経済化に踏み込まないからではなく、むしろ中途半端ななし崩しの半市場経済化により元来脆弱な計画経済がいっそう機能不全に陥っていることが主因だからである。

特に食糧配給制の機能停止が食料不足の原因でもあるので、この点の建て直しが急がれる。それと関連して、半市場経済化の中で利権をむさぼる党官僚や公務員・軍人の腐敗防止を図る法的技術支援も必要である。

一方、政治的には、一部大国だけに核兵器保有の特権を認める「核不拡散」ではなく、全国家に例外なく核兵器の保有を許さない「核不保持」の国際法的枠組みを構築することである。「核不拡散」という名の核の特権クラブ化は、朝鮮やイランを含む野心的な途上国の核開発意欲をかえって刺激する逆効果を招いていることは明らかだからである。

こうした条件整備のもと対話に臨めば、日本や南の韓国を含む周辺諸国にとっても重大な影響の及ぶ体制崩壊なしに最後のスターリン主義国家を毒抜きして、さしあたり平穏な中堅国家へ誘導することは決して不可能ではないだろう。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第58回)

2013-02-13 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」(続き)

苦い「勝利」
 レーニンのマルクス主義の師であったプレハーノフは、10月革命の三日後にザスーリチらと共同で発表した公開状の中で、10月革命を「史上最大の厄災」と論難し、それは結果として内戦を誘発し、2月革命の到達点よりもはるかに後方へ後退するだろうと警告したが、この警告は的中した。
 第一次大戦の終結から間もなく勃発した内戦・干渉戦は、大戦とそれに続く革命の激動の中にあってただでさえ疲弊していたロシア経済にダブル・パンチ的な打撃を与えたのだった。
 内戦・干渉戦が終息に向かった1920年には大工業生産高は戦前の七分の一、農業生産高も同二分の一に低下していた。燃料不足も深刻で、出炭量は戦前の三分の一、石油採取量は同五分の二という惨状の下、多くの工場が稼動停止に追い込まれていた。20年初夏にヴォルガ河流域で発生した飢餓では数百万人に上る死者を出した。
 こうした苦い結果を伴いながらも、レーニンとボリシェヴィキ党は「勝利」した。まずは日本を除く連合国の干渉軍が19年末から20年にかけて順次撤退していくと、元来まとまりを欠く地方軍閥勢力の寄せ集めにすぎなかった白衛軍の勢力も退潮していき、最後までクリミア半島を拠点としていた勢力が国外へ放逐されると、ほぼ内戦も終息したのである。
 しかし、それで落着ではなかった。内戦・干渉戦を勝ち抜くためにレーニン政権が導入していた「戦時共産主義」という名の統制経済、中でも内戦突入のきっかけとなった18年の左翼エス・エル反乱の原因でもあった食糧割当徴発制に対する農民の不満が20年から21年にかけてタムボフ県で爆発した。
 かつて10月革命を下支えした農民革命の原点の地で起きたこの反乱にはまたしてもエス・エルが絡んでおり、5万人の武装した農民たちが決起し、農村の共産党員らを殺害した。
 これに続く21年2月末から3月中旬にかけては、「共産党独裁」を公然批判し、社会主義への道を開く労働者階級自身による「第三革命」を呼号するクロンシュタット要塞の水兵反乱が発生した。
 こうした大規模な武装反乱を容赦なく鎮圧しながらも、レーニンはクロンシュタット反乱の渦中に開かれた第十回党大会で、食糧割当徴集制に代えて、農産物の市場取引を認め現物税を導入することを柱とする新経済政策(NEP)への移行を決定したのである。
 「我々はひとたび権力を握ったら、手放すことはしない」と誓ったとおり、レーニンと彼の党の特質は政治生命力の強さにあった。しかも、かれらは破局的な内戦・干渉戦を通じて権力を単に守り通したばかりでなく、焼け太り的に増強さえしてみせたのだった。
 まさに内戦・干渉戦最中の19年3月に開かれた第八回党大会で、党はソヴィエトにおいて「自らの完全な政治支配を達成する」という野心的な宣言が採択され、これに基づきソヴィエトの骨抜きと党への従属化が徹底されていく。実は先のクロンシュタットも最後まで残っていた自立的な地方ソヴィエトの拠点だったのである。
 同時に、レーニンと党は革命以降旧ロシア帝国領内で進行していた民族独立の動きにも歯止めをかけていった。その手始めは10月革命直後ウクライナ人民共和国を宣言していたウクライナの独立運動を武力で鎮圧したことであった。そして、各地に傀儡的に設立された民族別共産党をすべてロシア共産党中央委員会の支部として回収していった。
 その仕上げが22年の連邦条約をもって創設されたロシア、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカスの四共和国で構成するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)であった。この連邦体において構成共和国相互は対等の関係にあると説明されていたが、どう見ても中心にあるのはロシア共和国であり、ソ連邦は社会主義の衣を着たロシア帝国にほかならなかったであろう。
 民族問題の観点からながめると、ロシア内戦とはレーニンとボリシェヴィキ党がロシア革命のもう一つの底流を成していた民族独立革命を抑圧し、分離しかけていた周辺諸民族を再征服してロシアの帝国的統一を回復・維持する戦いであったとさえ言えるのである。
 最後に、内戦・干渉戦という国家的非常事態は、レーニンと党指導部に超法規的な万能権力を与えた。18年7月16日には、エカチェリンブルクで囚われの身となっていた前皇帝ニコライ・ロマノフと未成年子を含むその家族6人が白衛軍による身柄の奪還を防ぐとの名目で、党中央委員会の指令に基づき銃殺された。これは正式な司法手続きなしの超法規的処刑、要するに政治的虐殺にほかならなかった。しかし、この重大な一件は、ボリシェヴィキ的万能権力の作動のほんの手始めにすぎなかったのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第57回)

2013-02-08 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」(続き)

コミンテルンの設立
 レーニンがドイツとの講和問題に際して「革命戦争」に否定的であったのは、相手方ドイツにおける革命の可能性に対して悲観的であったからである。
 ドイツ社民党主流は改良主義化していたし、古代ローマで奴隷反乱を起こしたスパルタクスにちなんで「スパルタクス団」という勇ましい名称を持つ分派を形成していたローザのような革命的左派も、前述したように大衆の自発性を神秘化する受動的な立場に終始しており、ボリシェヴィキに相当する勢力はドイツに見当たらなかった。
 ところが、そのドイツで1918年11月、水兵反乱をきっかけに革命が起き、帝政が倒れる。兵士と労働者はソヴィエトにならってレーテ(評議会)を結成し革命の拠点としていた。臨時政府はブルジョワジーと妥協する社民党右派の手中にあったが、カール・リープクネヒトやローザらスパルタクス団のメンバーも釈放され、19年1月にはドイツ共産党を立ち上げた。ここまではロシア2月革命と似ていた。
 レーニンはドイツ革命の報に接した時、エス・エルによる暗殺未遂事件で負った怪我の療養中であったが、予想外の出来事に欣喜雀躍し、ドイツ革命を支援するため赤軍(新政府軍)の増強方針を打ち出した。
 同時に当時内戦・干渉戦に直面していたロシアの国際的孤立状態を打開するため、世界の共産主義政党の国際組織として共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立を推進した。
 ただ、ドイツ革命は前にも触れたように、反革命化した社民党政府が1月、ローザらドイツ共産党指導者を虐殺してブルジョワ革命の限度で収束したため、19年3月にモスクワで開かれたコミンテルン第一回大会はローザらへの追悼大会を兼ねたものとなった。
 コミンテルンは第一次大戦を機に解散していた第二インターに続く第三インターと通称されることもあるが、レーニンが参加資格を限定したため、結局はレーニンと18年3月にボリシェヴィキから改称されたロシア共産党とを支持する各国政党の連合組織にすぎなかった。
 それはカウツキーに代表される第二インターの理念はもちろん、「労働者階級は労働者階級自身の手で闘い取られねばならない」というマルクスのテーゼを基本として組織された元祖第一インターの理念からも遠く隔たったレーニン主義党の指導による世界革命のセンターとなるべきものなのであった。
 実際、レーニンはコミンテルン第一回大会ではカウツキーから寄せられていた「独裁」批判に対する痛烈な反論書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』をベースに、彼の理解によるプロレタリアート独裁の理論―その概要については第1部第5章(4)で先取りしてある―に基づく「ブルジョワ民主主義とプロレタリアートの独裁に関するテーゼと報告」を全会一致で承認させた。
 続いて20年7‐8月にコミンテルン第二回大会向けのテクストとして執筆した著作『共産主義内の「左翼主義」小児病』の中で、レーニンは改めて故ローザらドイツ共産党の誤りを取り上げ、かれらが「大衆の党」か「指導者の党」か、「大衆の独裁」か「指導者の独裁」かという問いを立て、自然発生的に下から盛り上がる大衆の革命に期待する「大衆の党」「大衆の独裁」という自己規定によって結局敗北していったと分析する。
 彼はこうした傾向を「プチブル革命性」と呼んで批判したうえで、革命的プロレタリアートの団結を保持し、ブルジョワジーとの闘争に勝ち抜くためには、「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律」が基本的条件であることを力説し、10月革命に勝利したボリシェヴィキの「鉄の規律」と自らの指導の正しさとを自画自賛するのであった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第56回)

2013-02-07 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」

内戦・干渉戦の勃発
 選挙によって招集された制憲会議を巧妙な手段で転覆し、クーデターに成功したレーニンは、意外なところでやがて自らの命をも縮める代償を支払わされることになった。
 問題の発端は、レーニンがクーデターの過程で政権に抱き込んだ左翼エス・エルにあった。元来、土地政策に大きな違いのあるエス・エルとの連立は党略的な手段であったから、長続きするはずもなかったのであるが、閣内対立の原因は土地問題ではなく、ドイツとの講和条件をめぐるものであった。
 レーニン政権が10月革命直後に発した「平和に関する布告」で打ち出した無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時講和という立場に反して、ロシアにとって極めて不利な併合条件を甘受するブレスト・リトフスク条約をもってドイツとの単独講和に踏み切ったことは、ボリシェヴィキの一部とともに、戦争を継続してドイツをはじめ当事国における革命につなげようという「革命戦争」を主張していた左翼エス・エルを憤激させた。結局、同党は1918年3月の第四回全ロシア・ソヴィエト大会が前記条約を批准するや、連立を離脱していったのである。
 対立はしかし、これだけでは終わらなかった。モスクワに首都を移転したレーニン政権が5月、農民に一定量を残して収穫した穀物の全量供出を義務づける「食糧独裁令」を発し、労働者で組織する「食糧徴発隊」を農村に差し向けて徴発に当たらせるという農民収奪政策に走ると、左翼エス・エルは7月初め、ドイツ大使を暗殺したうえで、武装反乱を起こした。
 この反乱自体は直ちに鎮圧されたが、レーニン政権が報復措置として左翼エス・エルのソヴィエト代議員を逮捕し、非合法化に踏み切ると、同党は地下に潜伏し、テロ活動に入っていく。元来、エス・エルはレーニンの兄アレクサンドルが加入していた「人民の意志」以来、テロ戦術では数々の“実績”を持っていた。その矛先が今度はレーニンに向かう番であった。
 8月30日、モスクワの旧工場で演説を終えて車に乗り込もうとしたレーニンをエス・エルの女性テロリストが銃撃した。二か所に重傷を負ったレーニンは一命を取りとめたものの、一時は重体に陥った。
 こうした左翼エス・エルの動きとほぼ並行して、5月末からは大戦中のロシア側が捕虜としたオーストリア軍中のチェコスロバキア人軍団(チェコ軍団)がシベリア鉄道沿線で反乱を起こし始めた。彼らは元来対独戦に投入する目的で帝政ロシア軍の独立軍団として編入されていたところ、先のドイツとの単独講和後、チェコスロバキア独立のためシベリア経由で西部戦線へ移送される途中で反乱を起こしたのである。この外国人軍団の反乱が内戦の引き金を引く。
 まずエス・エル残党が各地でチェコ軍団に合流したのに続いて、しばらく鳴りを潜めていた反革命勢力も次々と蜂起して西シベリア、ウラル、ヴォルガなどロシア東部を占領していき、各地にこれら反革命白衛軍の地方軍閥政権が樹立されて本格的な内戦に突入する。
 一方、当初は事態を静観しているかに見えた連合国は18年3月に英国軍がヨーロッパ‐ロシアの北岸ムルマンスクに上陸したのに続いて、4月以降は日本軍や米国軍がシベリアへ侵攻し、最終的には16か国が先のチェコ軍団の救出を口実に白衛軍を支援する干渉戦に乗り出した。日露戦争に際しては帝政ロシアを撃破し第一次革命のきっかけを作ってレーニンに称賛された日本軍は、最も遅く22年10月に至るまで東シベリアを占領し続けた。
 レーニンはこうした事態を「帝国主義世界総体の攻撃」と規定しつつ、労働者・農民と資本家の「最後の決戦」と大衆を煽った。このようにして、ロシアは大戦から一転、今度は大規模な内戦・干渉戦へ引きずり込まれていくのである。

コメント