今日、民主主義を標榜する諸国では、一般国民も平等に選挙権を持つ普通選挙制度が定着しているが、普通選挙制度が確立される以前、普通選挙という考えは過激思想とみなされていた。反対論の有力な根拠の一つは、一般大衆に果たして政治判断力があるのか、だった。
今日ではこれは時代遅れの古い疑問とみなされるが、今般のアメリカ大統領選挙の結果を見ると、SNSやAIが駆使される選挙過程の電子化という現代的な状況の中、改めてこの疑問が浮上してくる。
※アメリカ大統領選挙では、一般投票の結果を直接には反映しない各州選挙人を通じた間接選挙制という古風な選挙制度が護持されているが、今回は一般投票でもトランプが勝利している。
実際、部分的な政策ばかりでなく、人格識見や言動を含めた総合評価では二大候補のどちらが21世紀の第二四半期を始める合衆国大統領によりふさわしいかは明らかと思われたが、アメリカの多数派有権者は34件もの罪状により刑事陪審裁判で有罪評決を下された人物を大統領に返り咲かせた。
※2016年のヒラリー・クリントン(vsトランプ)に続いて、女性大統領を再び拒否した意外なほど保守的なアメリカ人気質も影響したと思われるが、ここではそうしたジェンダー論は保留する。
SNSやAIが駆使される電子化された選挙過程では、人格識見や品格ある言動はもはや優先的判断基準とならず、インターネットを通じた派手なプレゼンテーションに長けた扇動者が従来にも増して当選しやすいことがはっきりと証明された。
とりわけ、「嘘」が重要なプレゼン手段となったことが恐ろしい。「嘘」を活用する選挙戦略としては戦前のヒトラーとナチスという巨大な先例がすでにあるが、電子化選挙の時代には、「嘘」はより大きな効用を持つ。
候補者や陣営、支持者に加え、特定候補者の当選を望む外国政府までが繰り返し、たゆみなく電子的な手段で「嘘」を発信・拡散させれば、それが選挙過程では「真実」にすり替わり、ファクト・チェッカーたちが奮闘しても、もはや是正は効かない。カントがいかなる理由があろうと絶対的に許されないという厳格な道徳律を立てた「嘘」が、選挙過程では最も有効な戦術的手段となってきたのである。
これは、世界各国の野心的な選挙候補者・政党への激励となり、今後、世界中で模倣され、「嘘」戦術が世界に拡散するだろう。もはや、普通選挙制度は民主主義を保証しないどころか、民主主義を危うくすると断じても過言でない。
世界で最も歴史の長い民主主義の信奉者であったはずのアメリカ有権者が、事前予想の僅差ではなく、明確にアメリカン・ファシズムを選択したことが何よりの証拠である。同時に、この選択はトランプに象徴されるような資本家・経営者層が伝統的な政治献金を介さず、自ら直接に政治権力を掌握する資本至上主義をも反映している。―全く自慢にならないが、筆者はトランプ一期目の終了時点で、復権を半ば予見していた(拙稿)。
もっとも、トランプ政権は既に一期経験済みであるが、―筆者はトランプの初当選前からアメリカン・ファシズムを警告していた(拙稿)―第一期トランプ政権はまだ試運転的であったうえに、終盤ではコロナ・パンデミックという思わぬ災難に見舞われ、十分には展開できなかった。二期目は、たたき台となる右派系民間シンクタンクによる綱領文書も存在しているから(トランプは無関係を強調するが)、イデオロギー色が一期目より強まると予想される(拙稿)。
しかし本来、自由主義に基づく民主主義を支柱とするアメリカ合衆国憲法にファシズムの余地はない。但し、それは憲法が定める古典的な三権分立が機能する限りにおいてである。但し、それも大統領が就任式の宣誓文言どおり合衆国憲法を順守することが前提である。この二重の「但し」が担保される限り、アメリカではファシズムは不可能である。
ところが、一番目の「但し」は、上下両院を共和党が征する見込みとなったことで議会による大統領の監視と牽制は期待できなくなっている。司法による審査と抑制についても、すでに第一期にトランプが送り込んだトランプ政権に忠実な連邦最高裁判所・連邦下級裁判所の超保守派判事と二期目でも送るであろう同様の超保守派判事の存在により、機能しない。一番目の「但し」が崩れれば、二番目の「但し」も形骸化する。よって、アメリカン・ファシズムは現実化する余地を獲得している。
もっとも、ファシズムになっても、連続か返り咲きかを問わず、大統領任期を二期八年に制限する憲法修正第22条により、四年間の期間限定ファシズムではある。但し、これも、トランプ再選大統領が憲法を守って四年で退任した場合のことである。憲法に違反して政権に居座ったり、1951年に制定された比較的新しい修正第22条を廃止する憲法再修正を断行し、任期制限を撤廃するなら、「トランプ終身大統領」さえもあり得る。トランプ崇拝の支持者の中にはそれを望む熱狂者もいそうである。
そのようなことが起こらなかったとしても、ファシズムの四年はアメリカの自由主義・民主主義を破壊するのに十分すぎる年月である。今後、カナダや英国、オーストラリア等、よりましな英語圏への「自主亡命者」が続出するかもしれない。
繰り返せば、現代の電子化選挙過程は民主主義を保証しない。それどころか、民主主義を破壊する危険に満ちている。2024年アメリカ大統領選挙は、アメリカに限らず、選挙過程の電子化が進む日本を含めた諸外国に対しても重大な警告となった。
最後に我田引水。これからの民主主義は「嘘」戦術に左右される一般投票ではなく、代議員としての適格性を証明された代議員免許を持つ者の中からくじ引きで選ばれた代議員によって構成される民衆会議を軸としたものでありたい。
7日のハマースによる大規模軍事攻撃から半月余りを経た現在(24日)、イスラエルの空爆によるパレスティナ側死者はすでに6000人超となり、イスラエル側の確認済み死者1400人の倍返しをはるかに超えてきた。このあたりでいったんイスラエル側が攻撃を停止し、人質解放交渉を優先するという選択肢もあり得るように思われる。
イスラエルは、「戦争の第二段階」として、地上部隊の投入による限定的な地上戦を開始した。ハマース側が人間の盾として利用する人質の全面解放には応じる見込みがないことを踏まえて、作戦拡大を決断したものと見られる。これに先立ち、国連総会は27日、人道的な観点からの休戦を求める決議を採択したが、中途半端な休戦では現在の人道危機を解決できず、かえってハマース側に態勢立て直しの機会を与え、第二弾の攻撃を許す危険がある。これも安直な人道主義の戒である。
与党が「敵基地反撃能力」の保有を軸とする防衛費の大幅増大策を決めようとしているが、以前の稿でも述べたとおり、「敵基地反撃」は観念論であり、実際にそれを憲法9条の枠内で実行することは不可能である。
辛うじて可能だとすれば、第一撃を受けた後、第二撃以降を阻止するための自衛行動として反撃する場合だけであるが、現代の最新鋭弾道ミサイルなら第一撃が領土内の陸地に命中すればそれだけでも相当な被害を生じることは避けられないうえ、第二撃以降がどこから撃ち込まれるかの予測を瞬時的確に行うことは不可能である。
そこで、そもそも第一撃を受ける以前に先制的自衛行動として「反撃」するならば、これは憲法9条が禁ずる武力行使そのものであるから、紙切れ三通で決められることではなく、正面からの憲法改正を必要とする。
改憲を歴史的宿願とする与党が相変わらず正面から改憲を提起せず、〝解釈改憲〟の手法で9条を空洞化するやり方に固執する理由は定かでないが*、「敵基地反撃」はそれを文字通り実行する気なら、もはや〝解釈改憲〟という伝統の術策では対応しきれないこと明らかである。*想定されるのは、例によって同盟主・米国からの手っ取り早い政策転換の要求、あるいは9条改憲にいまだ積極的と言えない連立相方党への配慮である。
こうした事実上の超法規的改憲策動に対する「反撃」も、野党や平和運動の弱体化に伴い、風前の灯火ではあるが、そもそもの問題の発端はミサイルに代表される空中弾道兵器の脅威にある。
空中戦は現代の戦争の軸であり、伝統的な陸戦や海戦以上に民間人の犠牲者を出す非人道的な戦法である。原爆投下はその歴史的最大級の事例であるが、現代戦ではミサイルに核弾頭を載せて飛ばすだけで、敵国に破壊的な打撃を与えることが可能となっている。
核弾頭を搭載していなくとも、高速ミサイル攻撃は地上の市民に避難する時間的余裕を与えないため、被害が拡大されやすいという点で、核兵器に準じるか、少なくともそれに次ぐ非人道的な飛び道具と言える。
こうした非人道的な空中弾道兵器を廃絶することは、核兵器廃絶と同等の意義を持つことである。将来的には全世界における全軍備の廃絶こそが恒久平和の道であるが、さしあたりは核兵器とともに空中弾道兵器の廃絶を求めることこそ、現時点で唯一の被爆国の「責任」である。
敵基地反撃の技術的な方法論とか、まして防衛費増大の財源問題といった与党内のやらせ論争に引きずられて、増税か国債かなどといった矮小な視点に野党がとらわれるならば、それは与党の思う壺であろう。
[付記]
与党が国防政策の法的及び財政的な大転換を本気で断行しようとするならば、憲法9条の改正発議を行って国民投票にかけるのが筋であり、今こそ自由民主党の党是である改憲に進む最大の好機となるはずである。その是非を最終的に判断するのは、国民である。
中国でいわゆるゼロ・コロナ政策に対する民衆の抗議行動が拡大し、盤石と思われてきた中国共産党支配体制が綻びを見せ始めたが、これはパンデミック初期には感染防止策の範として自由主義標榜諸国によってさえ追随されたロックダウン政策の持続が体制維持の躓きの石となっていることを示している。
今般抗議行動は当面のゼロ・コロナ政策による厳しい生活統制に対する民衆の不満の噴出であるが、タイミングとしては習近平国家主席・党総書記の長期執権が既定路線となり、ある種の個人崇拝体制が明瞭となったことへの異議も裏に込められていると見られる。
しかし、今般抗議行動では「自由」や「共産党退陣」のスローガンが一部で掲げられるなど、一政策や個別の政権への反対を超えた中共支配体制そのものの打倒という従来は見られることのなかったスローガンが現れていることが注目される。
今般抗議行動は1989年の天安門事件とも対比されるが、天安門事件の抗議者たちは体制そのものの転換より、党指導部に対し当時のソ連共産党のゴルバチョフ政権を念頭に体制内改革を要求するレベルにとどまり、抗議行動も主として北京に集中していたことに比しても、今般抗議行動のスローガン、地理的範囲双方の拡大には注目すべき点がある。
今後の展開としては、確率の高さの順に、〈1〉武力鎮圧(弾圧)〈2〉政策撤回(緩和)〈3〉体制崩壊(政変)の三つがあり得るが、ここでは、いささか気が早いながらも、現時点では確率的に最も低いが、当ブログの問題関心に沿う(3)体制崩壊を考えてみたい。
実際のところ、体制崩壊予測にも、確率の高さ順に、(ⅰ)党内政変による新政権樹立(ⅱ)ブルジョワ民主勢力による新体制樹立(ⅲ)共産主義的民衆統治体制への変革の三つがある。
このうち(ⅰ)は厳密には体制崩壊ではなく、体制内改革であるが、党内改革派が離脱してブルジョワ民主政党を樹立する挙に出れば、(ⅱ)の展開に重なる。
一方、過去数十年来の資本主義適応化路線の中で育った新興富裕層の中から新たにブルジョワ民主政党が台頭し、政権の受け皿となる可能性もあるが、70年を越える一党支配が続き、対抗野党が完全に排除されてきた中では、共産党離脱者の存在抜きでは困難であろう。その意味では、(ⅰ)と(ⅱ)の展開は連続性を持つ。
いずれにせよ、中国のブルジョワ民主化は西側諸国の望むところであろうが、一党支配の崩壊後に多数の政党が誕生・林立し、安定政権が樹立されなければ、辛亥革命後の中国のようにある種の内乱状態に陥り、今や中国も枢要な参加者となっているグローバル資本主義に悪影響を及ぼすであろう。
(ⅲ)は確率的に最も起きそうになく、現状でこれを密かに待望するのは世界でも筆者一人くらいのものかもしれない。実際、中国共産党が事実上の中国資本党に変貌し、共産主義の結党理念が棚上げから在庫一掃へと転換された時代状況下では望み薄かもしれない。
しかし、拙『共産論』でも論じたように、中国に代表されるような共産党支配体制の諸国にあって、真の共産主義は「共産党に対抗する共産主義革命」によってもたらされる。言い換えれば、共産党から真の共産主義を取り戻すことである。その意味で、(ⅲ)は(ⅰ)と(ⅱ)とは明確な一線を画する展開である。
現状では、今般抗議活動は近年の世界各国で頻発する未組織市民による自然発生的な民衆蜂起の一種であり、筆者が年来提唱してきた民衆会議のような結集体の体を成していないが、さしあたってはゼロ・コロナに服従しない民衆の対抗権力としての結集体の設立に至るのかどうか、注視していきたい。
勤労感謝の日という祝日は日本独自のものであるようで、国民の祝日に関する法律によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことがその趣旨とされる。元来は、宮廷行事である新嘗祭に合わせた祝日であったものを戦後、勤労感謝デーに振り替えたらしい。
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」という文言からは、資本家・経営者もまた労働者の勤労に感謝するという趣旨を読み取ることもできる。そこからすると、ツイッター社を買収したイーロン・マスクの「長時間労働か、退職か」発話は、勤労感謝の対極にある勤労蔑視発話と言えよう。
この発話者にとって、労働者は企業の奴隷に過ぎず、長時間働かない奴隷など無用というわけである。このような発話が21世紀の先端的IT資本家の口から出たことは驚きではない。
IT業界と言えば、20世紀末以降現在に至るまで、新興業界の代名詞であり、カジュアルな「新しい働き方」でも脚光を浴びてきたが、一方で、一部を除き世界的なIT大手のほとんどは労働組合を拒否しているなど(外部記事)、その実態はまるで19世紀の資本である。
「長時間労働か、退職か」発話も、そうした19世紀的時代感覚を露骨に表す象徴的な言葉と言える。今日では、伝統的な大手資本の経営者なら―本心はともかく―、公には口にしない言葉である。
マスクならぬマルクスは、まさに長時間労働か退職かを迫られた19世紀の賃金労働者の被搾取的な働き方を評して「賃金奴隷」と言ったが、20世紀以降、労働法制の整備によって搾取に制約がかけられると、賃金労働者は奴隷的ではなくなった。それは主として労働時間削減の成果である。
とはいえ、労働者は制約された時間内での高密度な成果労働を要求され、経営管理者の業務命令や目標数値に束縛される限りでは、奴隷ではないが依然従属的であった中世の農奴に擬して、賃奴と言うべき存在であり続けている。
しかし、「長時間労働か、退職か」という発話は、そうした賃奴制を再び賃金奴隷制に巻き戻すかのような逆行的内容を備えている点で、注目すべきものがある。これに触発されて、他の資本も追随するなら、労働の世界は再び19世紀的状況に回帰していくだろう。
このような反動に対して、労働者はどう対応するのか。興味深いことに、2021年のギャラップ調査によると、調査対象となったアメリカ人の68%が労働組合を支持すると答え、1965年以来、労働組合運動に対する最も強い支持を示したという(上掲記事)。
近年の労組は経営側にすっかり飼い慣らされて社内機関化し、労組組織率は低下傾向を辿り、労働運動も斜陽化、5月1日のメーデーも恒例イベントと化している中、資本主義総本山のアメリカで労働運動復調の兆しがあるというのは興味深い。
ただ、労働運動の活性化と労使対決は、20世紀への巻き戻しである。現今の反動的状況下ではそれもやむを得ないかもしれないが、「勤労感謝」の精神を労使が共有することはより重要である。だが、それが真に可能となるのは、資本主義ではなく、まさに労使共産の体制下においてである。
改称統一教会関連や「死刑のハンコ」発言での大臣辞職が続き、野党は鬼の首でも取ったようなはしゃぎようであるが、そうした辞職ドミノの中で、本質的な問題が回避されている。
一つは、改称統一教会を含めた宗教団体の選挙介在という問題である。公職選挙過程で宗教団体が組織票集めに大きな役割を果たし、見返りとして政策にも影響を及ぼすことは、政教分離の精神を空洞化させる宿弊である。
こうした宗教介在選挙の実態については国会に特別調査委員会を設置し、国政調査権を行使すべきであるが、現状、相当数の議員(特に連立与党系)が何らかの宗教団体の支援を受けていると見られる中では、タブー化されているテーマである。
改称統一教会被害者救済法案も重要ではあるが、それで幕引きとするなら、宗教介在選挙という大元の本質問題は巧妙に隠蔽されることになる。救済法案をそうした隠蔽の遮蔽物として利用してはならない。
もう一つは、「死刑のハンコ」発言に象徴される機械的死刑執行慣例である。実際、日本は現在でも毎年死刑執行を続ける数少ない国の一つであるが、死刑執行命令の権限を持つ法務大臣は政治家であって法曹ではないため、命令発出に際して法律的な視点からの最終チェックを自ら実施する態勢になっていない。
そのため、大臣は法務省事務方が選び出した死刑囚について執行命令書に機械的にサインするだけで、まさに「死刑のハンコ」である。辞職した法務大臣は本当のことを言ったまでであるが、気の毒にも、それが禍いとなった。
たとえ本当のことでも、死刑制度は野党でさえこれを正面から議論することを避けている日本の巨大なタブーの一つであるから、不用意に口走ってはならなかったのである。
しかし、大臣辞職で幕引きとすることで死刑執行をめぐる問題、ひいては死刑制度存続の是非という本質問題は封印されたことになる。これも、与野党総ぐるみでの本質回避行動と言える。
某国では史上最長期政権記録の持主への国葬が執行されたが、英国では史上最短期政権の記録が達成される見通しである。先月就任したばかりのリズ・トラス首相が在任2か月足らずで辞任することになったためである。
その要因は、当初公約に掲げていた大型減税・ミニ予算について、市場や世論からの反発を受けてほぼ全面撤回したことで与党・保守党内に大混乱を引き起こし、党内から辞任要求を突き付けられたことであった。要するに、公約を短期間で180度転換したことで身内からも不信任を招いたのであった。
変わり身の早さは職業政治家に共通の特性だが、近年の政治家は定見を欠くがゆえに、その時々の状況によって態度を転々と変える日和見主義者が世界的に増大しているように見える。
このような日和見主義は冷戦終結後、「イデオロギーの終焉」教義に伴い、イデオロギー闘争より日々の市場や世論調査の数字に踊らされたあからさまな権力闘争が政界の日常となって以降、諸国の政界の潮流となっている。
英国史上三人目の女性首相となったトラス氏も、中道リベラルの自由民主党から保守党に転向した上、保守党内でも欧州連合(EU)残留派から脱退派に転向、脱退派のジョンソン前政権で重要閣僚に抜擢され、二人の先人女性より若い40代にして首相の座を射止めたのであるから、日和見主義の大勝者と言える。
ところが、今回は勝因のはずだった日和見主義が命取りとなった。日和を見るにしても、あまりに度を越せば、味方の信すら失うということであろう。
トラス氏は初の英国女性首相マーガレット・サッチャーを崇敬し、強く意識しているとされるが、冷戦期のサッチャー氏の時代の保守党は「反共保守」を掲げていればブレずに済んだ。しかし、冷戦終結後の保守党はその軸が揺らいだうえ、EU脱退をめぐり党内が分裂し、党自体が日和見主義的に揺れている。
ロックダウン違反の不祥事をめぐって党内から突き上げを受け、先月辞任に追い込まれたばかりのジョンソン前首相の返り咲きさえ取り沙汰されているのも、そうした日和見保守党の実態を示している。―追記:ジョンソン氏は党首選挙への立候補見送りを発表した。
昨今、選挙された政治代表者に一任するという選挙政治自体が劣化し、消費期限切れを迎えている中、選挙政治の最古老舗である英国の政治が今後どう壊れていくのか、注目に値する。
13日に発表された2024年秋をめどとする健康保険証廃止と個人識別票(俗称マイナンバーカード)への統合という政府の新方針にはすでに多くの批判や反発、困惑が噴出しているようであるが、それも当然、まったく道理に合わない不条理な策だからである。
マス・メディア各社は、この新方針について、「(カード所持の)実質義務化」という誤導的なフレーズを躍らせて、これまで不所持だった人を取得に走らせようとしているが、「実質義務化」というのは、成り立たない話である。
個人識別票そのものの取得は任意とされながら、健康保険証を国民全員から取り上げたうえ、個人識別票を所持していない限り、健康保険に加入し、保険料も全納しているのに、法的には義務でない個人識別票を所持していないというだけで保険診療を拒否し、全額実費請求することは不可能だからである。
仮にそのような処理を許すならば、そうした診療拒否は違憲・違法となることは明白であるので、結局のところ、あくまでも個人識別票を所持しようとしない人には、特例として何らかの資格証明手段を認める補足対策が必要になるだろう。
タイトルでは「不条理」と抑制的に記したが、運転免許証のような経済的権利に関わるものを一体化するならまだしも、一律的に保険証を廃止し、生命・健康に関わる健康保険を盾に取って、個人識別票取得率100パーセントを達成しようとすることは、「非道」と言って過言でない。
政府が全体主義的な信条に基づき、個人識別票の全員所持を義務付けたいのであれば、大本である法律(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律)を改正して、法的にも個人識別票の所持及び携帯を義務付け、不所持には懲役刑を含む刑事罰を科せばよい。なぜそうはせず、健康保険を盾に取るような姑息な奸策に走るのだろうか。
これは想像の域を出ないが、政府も罰則付きで個人識別票の所持を義務付けることの憲法違反性を認識しているためではないか。そこで、個人識別票を事実上の健康保険証にすりかえれば所持率を100パーセント近くまで持っていけると打算した。そして、「実質義務化」のフレーズの後押しで、これまで不所持だった半数近い人々が取得に走り出すことも狙う。政府に従順な順応性の高い国民性のことも計算に入っているのだろう。
では、そうまでして政府が個人識別票所持率100パーセントを達成したい理由は何か。旧民主党政権時の導入理由である行政効率だけではなかろう。やはり顔まで含めた国民一人一人の個人情報の一元的な取得・管理への野望があり、さらには「実質義務化」にあえて背き、不所持の抵抗を続ける反抗分子のあぶり出しも容易になる。
要するに、社会保険、徴税から交通、治安に至る広汎な行政目的で総合活用できるのが個人識別票制度であり、所持率100パーセントを達成することで得られる統治利益は計り知れない。
ちなみに、個人識別票を所管する総務省は治安を司る警察庁とは旧内務省の〝同窓〟関係にあり、個人識別票情報を治安目的で密かに共有し合うことは技術的に可能であり、法的にも上掲法律の施行令では少年法や破壊活動防止法、暴力団対策法、組織犯罪対策法等々の治安目的による特定個人情報(番号を含む個人情報)の提供はすでに認められているところである。
筆者は先行連載『近未来日本2050』の中で、2050年の日本の状況について、ファシズム体制が樹立され、そこでは警察支配社会の中、「外出時における顔写真付きマイナンバーカードの常時携帯・呈示義務も課せられ、違反に対しては反則金が課せられるだろう。」と予言したが(拙稿)、どうやら、こうしたディストピアは2050年より前倒しで実現しそうな雲行きである。
[補足1]
筆者は、社会保障番号制度や電子保険証の制度化には反対しない。年金を含めた社会保障サービスの統一的かつ総合的な提供は国民の利便性を増すからである。新方針に追随する一部の御用識者の中には、「諸外国ではすでに導入済み」などと〝解説〟する向きもあるが、そもそも国家が顔写真を含めた個人情報を一元的に取得・管理することは自由を抑圧する全体主義的施策であるから、マトモな諸外国では個人識別票のような制度自体を導入していない。個人識別票と社会保障限定での電子的な利便向上策を混同する議論は世論操作的と言える。
[補足2]
本文で述べたとおり、カード不所持者を保険診療から排除するような「実質義務化」は無理筋であるから、何らかの補足対策は打たざるを得ないと想定されるが、仮にそうはならなかった場合、信条からあくまでも個人識別票を所持しない人々は保険診療も受けられず、あえて言えば非国民的な無権利状態に置かれる。それでも信条を貫くには、何らかの結集が必要であろう。例えば、集団訴訟行動を展開するとか(日本の行政追随司法には期待できないが)、商業医療保険を活用するなど個人的な対抗策を集団的に研究するなどである。
[追記]
各界からの批判を受け、首相はカード不所持者に対しては「資格証明書ではない制度」による保険診療の提供を認める方針を示したが、これが現行保険証に相当するような簡易な証明制度を創設する趣旨ならば、カードの100パーセント取得の目論見は達成できなくなるであろう。となると、最終的には、カード不所持者が何らかの形で所持者より不利に扱われるような策―例えば、医療機関窓口での本人確認に時間を要し、診察順を後回しにされるなど―が持ち出されてくるはずであるが、個人識別票の取得自体を任意とする限り、そうした不平等な取り扱いは不当な差別になるだろう。
[追記2]
政府は、2023年4月から、個人識別票と一体化されていない保険証による保険診療の受診料を引き上げる方針を発表した。このような正当理由を欠く制裁的な加重料金制度は不当な差別であり、憲法14条に反することは明らかであるが、将来の保険証制度廃止後の措置として個人識別票を所持しない人に対する不平等な扱いの一端が見えてきたと言える。
25日のイタリアの総選挙で、戦前の独裁者ベニト・ムッソリーニが率いた旧国家ファシスト党の直系に当たる政党「イタリアの兄弟」―「同胞」と訳すのが定訳のようであるが、イタリア語党名Fratelli d'Italiaのfratelli(複数形)は男性の兄弟というニュアンスが強いので(意味的には兄弟姉妹を包括する)、あえて「兄弟」と訳す―が第一党に躍進した(以下、「兄弟」と略記)。
欧州でファシスト政党に直接源流を持つ政党が第一党となるのは戦後初めてのことであり、衝撃的と言える事態である。その点、イタリアでは、つとに2018年の総選挙でポピュリスト系の右派政党「五つ星運動」(以下、「五つ星」と略記)が躍進し、同党を柱とする右翼連立政権が成立したが(拙稿)、連立内の内紛から短命に終わった。
その後、コロナ・パンデミックとロシアのウクライナ侵略戦争に伴う経済危機の中、不安定な連立政権が続いた末の結果が、ファシストの躍進である。「五つ星」はファシスト党とは別筋から出たイタリア・ファーストを旗印とするファースティスト政党であったが、今度はファシスト直系政党の躍進であり、イタリアの右傾化が一層明瞭となった。
もっとも、「兄弟」は現在では単なる保守系右派を標榜し、実際、今般も他の保守系政党と連合を組んでの勝利である。といっても、下院400議席中119議席、上院200議席中65議席を押さえる躍進であり、連立政権の首相に同党の女性党首ジョルジア・メローニが任命される公算が高い。
問題は、同党の現在標榜が真実かどうかである。メローニ氏はファシズムの過去との絶縁を強調しているが、党は反移民政策の強化(海上封鎖)や反同性愛などの差別政策を公然掲げ、「五つ星」のファースティズムを超えた強硬路線を示している。
その点、現代ファシズムについて論じた以前の拙稿でも指摘したように、ファシスト党の後継政党であった「イタリア社会運動」が公式にファシズム路線を放棄し、「国民同盟」に「党名を変更、最終的に新保守系政党「頑張れイタリア」へ合流・吸収されたところ、こうした保守系への吸収に反発するメローニ氏らが2012年に再結成した党が「兄弟」である。
そうした経緯から見て、「兄弟」は今なおファシズムの理念に忠実であり、単なる保守系右派の標榜は世間を欺く擬態に過ぎないという厳しい評価が導かれる。言わば、「擬態ファシズム」である。その意味で、内外のメディアが「兄弟」を形容する極右政党という指称はミスリーディングである。
その点、筆者は、戦後のファシズムの特徴として、議会制を利用して隠れ蓑に隠れた状態で存続する態様を「不真正ファシズム」と呼び、次のように記した(拙稿)。
不真正ファシズムは民主主義を偽装する隠れ蓑として議会制を利用し、議会制の外観を維持したり、完全に適応化することさえもあるため、外部の観察者やメディアからは議会制の枠内での超保守的政権(極右政権)と認識されやすい。実際、単なる超保守的体制と不真正ファシズム体制との区別はしばしば困難であり、超保守的政権が政権交代なしに長期化すれば、何らかの点で不真正ファシズムの特徴を帯びてくることが多い。
ファシストが議会制を隠れ蓑として有効に利用するには、単なる保守系右派に擬態するという戦略が必要となる。「兄弟」の躍進は、そうした戦略を巧みに展開した結果であろう。
実際のところ、「兄弟」の祖党である戦前の旧ファシスト党も総選挙で第一党に躍進して独裁への足掛かりを得たし、史上最凶ファシズムであったドイツのナチスも総選挙で第一党に躍進し、当初は保守系政党との連立政権からスタートしており、選挙はファシスト政党にとって戦前から大きな武器である。
といっても「兄弟」の議席は単独過半数には遠い数字であり、イタリア人の大半が同党になびいたわけではない。イタリアの不安定な連立政治の慣習からして、組閣しても短命で終わる可能性もあるが、これが突破口となって欧州各国で同類政党の躍進が続けば、欧州連合というファシズムの防壁(拙稿)が倒壊することが懸念される。