ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第417回)

2022-04-26 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(5)ザイール=コンゴ救国革命

〈5‐1〉反共独裁体制の破綻
 旧ベルギー領コンゴは1960年にコンゴ共和国として独立したが、その直後、南部のカタンガ州の分離独立宣言を契機に、動乱が勃発した。このカタンガ独立の影には、銅を中心とする天然資源に富むカタンガの支配継続を狙った旧宗主国ベルギーの思惑が隠されていた。
 このいわゆるコンゴ動乱は当連載の主題から外れるので、その経緯等については割愛するが、動乱は当時の冷戦最盛期の国際情勢の影響をじかに受け、新生コンゴの指導者であったパトリス・ルムンバがソ連に接近したのに対し、カタンガの指導者モイーズ・チョンベをベルギーや米国が支援する代理戦の構図となった。
 そうした混乱の中、二度の軍事クーデターを通じて政治的な実力者にのし上がった軍人出自のジョゼフ‐デジレ・モブトゥは、1965年の第二次クーデター後、大統領の座に就いた。
 反共主義者であるモブトゥは米国をはじめ西側諸国の援助のもと、一党支配の独裁体制を構築することで動乱を収拾したが、その実態はアフリカ諸国でも最もファシズムの色濃い個人崇拝型かつ公私混同の独裁者であった。1997年まで32年間に及んだモブトゥ体制の特質については、別の拙稿に譲る。
 この長期の独裁体制が破綻に向かう契機は、やはり冷戦終結である。その経緯はソマリアのバーレ独裁体制と近似しており、米国が用済みとなったアフリカの独裁的同盟諸国への援助を打ち切ったことで、モブトゥ体制も動揺し始めた。モブトゥは1990年にやむなく複数政党制を受け入れるが、大統領の座は明け渡さなかった。
 そうした中、従来は徹底して抑圧されてきた反体制運動が蠕動を始め、90年代半ば過ぎには内戦状態に入る。実のところ、モブトゥは余命いくばくもない癌を患っており、体力的な面でも限界に達しつつあり、体制は急速に破綻に向かっていた。

〈5‐2〉地政学的革命と新たな内戦
 1996年以降の内戦状態の中、反体制運動は革命の機を窺うようになるが、その中核となったのは、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)であった。これを率いたロラン・カビラは元ルムンバの支持者であったが、ルムンバが処刑された後は、マルクス主義革命家として活動した。
 一時期は、キューバ革命の立役者の一人、チェ・ゲバラの支援も受けたが、酒色に溺れる怠惰なカビラを見限ったゲバラが去ると、カビラらはコンゴ東部の山岳地帯に政府の支配が及ばない小さな革命解放区を立ち上げ、中国の支援を受けつつ、金の密輸で富を蓄積していたと見られる。
 この革命解放区は1988年までに解散、カビラも一時姿を消すが、死亡説もあった彼が再び現れたのは1996年10月、ザイールの革命組織としてAFDLが結成された時のことである。この勢力が急速に実力をつけた決定的動因は、隣国ルワンダでの救国革命であった。
 前回も見たとおり、ルワンダでは大虐殺を契機に、虐殺の犠牲者民族であったトゥツィ族系の救国革命が成功していたが、革命後、虐殺の実行部隊であった民兵組織(インテラハムウェ)を含むフトゥ族がザイールへ逃げ込み、反革命組織を結成して、反攻の機を窺っていた。
 これをモブトゥ政権が支援することを恐れたルワンダの新政権は、ザイール国内のトゥツィ族(バニャムレンゲ)を中心とする反体制組織を立ち上げさせた。カビラがこれに参加し、議長に就いた経緯は不明であるが、如上の解放区時代にルワンダ救国革命を担ったルワンダ愛国戦線のカガメらの知己を得ていた可能性がある。
 いずれにせよ、AFDLの立ち上げにはルワンダが密接に関わっており、そこにルワンダ愛国戦線の発祥地でもあり、支援国でもあったウガンダが側面支援的に関わっている。さらに、もう一つの隣国であるアンゴラも、自国の反政府組織を支援していたモブトゥ政権を打倒するべく、参加してきた。
 こうして、周辺諸国共同の支援態勢を整備したAFDLは1997年以降、首都キンシャサへの進撃を開始、同年5月には首都を落とし、モブトゥはモロッコへ亡命した。こうして、ザイールの救国革命は周辺諸国の思惑が直接に反映された地政学的な革命という特質を強く帯びることとなった。
 革命後、AFDL議長のカビラが大統領に就任し、国名もコンゴ(民主共和国)に戻し、モブトゥ体制との決別をアピールしたものの、すぐに独裁化し、政府の腐敗も始まったことで、「第二のモブトゥ」と批判されるようになった。
 同時に、カビラが革命に際して支援を受けたルワンダやウガンダの影響を排除しようとしたことで、両国との関係が悪化、さらにAFDLの中核であったバニャムレンゲの排除も図ったことに反発したバニャムレンゲの蜂起を契機に、1998年以降、ルワンダとウガンダが支援する反政府組織との間で新たな内戦が勃発した。
 この内戦は周辺8か国を巻き込む形で、2001年にカビラ大統領が護衛官の手で暗殺された事件をはさみ2003年まで継続し、戦後08年までの混乱期を含めれば、推計500万人を超す死者を出した。これは、近代アフリカ史上はもちろん、第二次大戦後の世界でも最悪規模の戦争であった。まさに地政学的革命が招いた惨事とも言える。
 カビラの体制は暗殺事件後、長男でAFDLのゲリラ兵から新生コンゴ軍参謀総長となっていた当時29歳のジョゼフに世襲され、彼が以後、任期満了を過ぎて2019年まで大統領を務めることで維持されたうえ、同国初の野党への平和的な政権交代が実現したが、紛争は終焉していない。


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