ザ・コミュニスト

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アラブの冬

2013-09-26 | 時評

2010年チュニジアの「ジャスミン革命」に始まった「アラブの春」も、凄惨なシリア内戦をもってほぼ一巡したようだ。結局のところ「春」は訪れず、「冬」が来たということだろう。

この一連の政変は、大きな目で眺めれば20数年前、東欧の社会主義諸国が次々と民衆蜂起で倒れた「東欧革命」のアラブ版であったと総括できるかもしれない。アラブ諸国の中でも「社会主義」を掲げていた旧東側陣営の諸国を中心に連続革命が起きたからだ。

しかし本家東欧革命と違っていたのは、東欧ではルーマニアやアルバニアといった少数の例外を除き、比較的平和裏に革命が終息し、すみやかに資本主義‐議会主義へ移行していったのに対し、アラブでは多くの流血と混乱を見なければならなかったことである。

その要因としては、それらアラブ諸国の支配体制の多くが実質上軍部に権力基盤を置く軍事政権的体質を備えていたため、民衆蜂起に対する政権側の武力攻撃が公然と行われたことが大きいが、根底にはイスラーム系のアラブ諸国に資本主義‐議会主義を移植することの難しさがある。

アラブ地域を新たな市場開拓地として付け狙う欧米が陰に陽に政治的・軍事的干渉を企てたことも事態を複雑化し、リビア内戦やシリア内戦のような凄惨な人道危機を招いてきた。

一方、アラブ民衆の側も眼前の独裁政権を打倒することに手一杯で、その後の展望がないため、政権打倒に成功した後の社会的混乱を収拾できずにいる。そうした間隙を利用して、イスラーム過激派が勢力を増す傾向も見られる。

抜本的な解法はなかなか見出しにくいが、最低限欧米は「人道」に名を借りた干渉の企て―その総仕上げがシリア空爆―を止めること、アラブの問題はアラブに委ねることである。 

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戦後日本史(連載第23回)

2013-09-25 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔二〕政党地図の総保守化

 画期1999年を導いたのは、96年の日本社会党解党に始まる日本の政党地図の総保守化という政治的な大状況であった。
 すでに述べたとおり、社会党が実質上解党した後、党内主流派はこぞって同年に新党さきがけの鳩山由紀夫と管直人が中心に結成した民主党(第一期)に合流していった。
 民主党は当初、さきがけのようなリベラル保守系小政党の出身者と社会党右派の議員を中心に結成されたため、あいまいながらもいくぶん左派色を帯びてはいたが、98年に改めて結成し直された民主党(第二期)には小沢一郎と袂を分かった保守系議員ら雑多な分子も流れ込んだため、そのイデオロギー的な基軸はいっそう不明瞭となり、左派と右派の間を浮動する日和見主義政党として再編された。
 そのため、結党時点で統一的な綱領を策定することすらできないありさまであったが、経済政策的には「経済社会においては市場原理を徹底する」など、当時はまだ自民党が明確に染まっていなかった新自由主義に傾斜した政策を抽象的に掲げていた。
 ただ民主党は雑多な分子から成る綱領も持たないヌエ政党であるがゆえに、かえって「非自民党」という一点でまとまりやすく、二大政党間で政権を転がし合ういわゆる二大政党政を志向する者たちにはアピールしやすい利点を備えてはいた。
 実際、民主党は第二次結党から二年後の2000年の総選挙で早くも100議席の大台に乗せる伸びを見せた。さらに03年には小沢一郎率いる自由党と合併する形で“選挙の達人”小沢を迎え入れたことで、保守層に食い込む足がかりも得て、同年の総選挙では177議席を獲得する躍進を見せたのだった。
 一方で、連合を中心とする労組主流は旧社会党の後身と目される社民党を支持せず、民主党支持に転じていたことから、民主党は労組勢力を支持基盤に取り込むことにも成功していた。このことは、日本の労組主流派がいよいよプチブル保守化の傾向を強め、資本主義体制の中に完全に回収されたことを裏書きしていた。
 ともあれ、こうして90年代の新党乱立状態が止揚され、自民党と拮抗する新たな大政党として民主党が台頭してきたことにより、戦間期の政友会・民政党の二大政党政に類似したブルジョワ二大政党政の構図が再現前し始めたことは事実であった。
 一方、社民党は旧社会党時代の最大支持基盤であった労組を失ったことが打撃となり、再び大政党化する可能性は完全に封じられた。日本共産党は96年の総選挙では旧社会党支持層の一部をも取り込む形で26議席を獲得する伸びを見せたが、その後は民主党の台頭・大政党化に伴い、急速に後退していった。
 また60年代の結党以来「中道政治」の代表として野党勢力の中堅を担ってきた公明党は、99年の小渕内閣以来自民党との連立・協調を基本とする方針に転じ、自民党の補完勢力となったことで、野党時代には一定保持していた革新性を喪失した。
 かくして、90年代末以降の日本の政党地図は自民党と新興の民主党を軸とし、総保守化する傾向を強めていくのである。そこにはたしかに政権獲得を目指す政党間の競争関係は存在したが、それは「逆走」の競走体制と言うべきものにほかならなかった。

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戦後日本史(連載第22回)

2013-09-24 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔一〕画期の1999年

 橋本政権は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」という六大改革を掲げ、「逆走」の完成へ向けた長期政権を目指す構えを見せたものの、消費増税が響いて1998年7月の参議院選挙で自民党が敗北した責任を取り、退陣した。
 後任には竹下登の後継者と目された同じ派閥の領袖・小渕恵三が就いた。連続して竹下系の首相が続いたことは、まさに80年代末の竹下内閣以来、過去10年にわたって自民党の竹下派支配が続いていた事実を物語るものであった。
 小渕内閣の課題はさしあたり橋本がやり残した「六大改革」を継承することであったが、「逆走」という観点から見れば、同内閣がその短い命脈の間に行ったことは、それ以上であった。1999年が一つの大きな節目である。この年、小渕内閣下で軍事・治安・国家象徴という根幹的分野に関わる三つの極めて問題含みの法律が一挙に制定されたのである。
 一つは周辺事態法である。これは日米安保条約のガイドラインが97年に改訂されたことを受け、「周辺事態」に際して従来より踏み込んで日米共同の軍事行動を可能とする根拠法であり、2000年代初頭に矢継ぎ早に「整備」されたいわゆる有事法制への突破口となるとともに、将来の集団的自衛権の解禁をも暗黙の射程に収めた布石であった。
 もう一つは治安分野で、史上初めて盗聴の権限を正面から捜査機関に与えた通信傍受法である。これはさしあたりオウム真理教による一連の凶悪組織犯罪や暴力団犯罪を念頭に置きつつ「組織犯罪対策」を名目としているとはいえ、通信の秘密や適正手続を保障する憲法上の疑義を排して導入された違憲性の強い治安立法であった。
 三つめは日章旗を国旗、君が代を国歌と明記する国旗国歌法である。従来90年代に入り、学校式典で国旗掲揚・国歌斉唱を義務づける動きが強まっていたことに対する思想良心の自由を根拠とした教職員の抵抗を排除する統制法規として、国旗国歌法が取り急ぎ制定されたのである。
 このことは同じ年、平成天皇在位10周年奉祝式典が民間団体と関係議員連盟主宰の形式を取りつつ盛大に挙行されたことと合わせ、国家主義的風潮を蘇生させる重要な出来事として銘記される。
 以上三本の法律はいずれも憲法上重大な疑義を持たれながら、小渕内閣は小沢一郎が新たに結成した自由党、続いて公明党と連立を組むことで、さしたる抵抗も受けずに粛々と制定することができたのである。
 小渕内閣はまた、「経済戦略会議」及び「司法制度改革審議会」という二つの大がかりな諮問機関を設置し、経済政策及び司法政策の面で2000年代以降強力に現れる新自由主義的な国策のイデオロギー的礎石を置いた。
 すなわち前者は市場主義的な競争社会を強力にエンドースする経済イデオロギーを打ち出し、後者は前者の経済イデオロギーとも連動しつつ、弁護士大増員を軸としたビジネス支援型司法を推進する方向性を打ち出し、いずれも間もなく小泉政権下で具体化ないし実行されていく新自由主義的施策の土台を作ったのである。
 結局のところ1999年は、加速化していた「逆走」が2000年代へ向けていっそうギアアップされ、急進化していく最初のステップの年であったと総括できるであろう。

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人類史概略(連載第9回)

2013-09-18 | 〆人類史之概略

第4章 商業革命と都市の成立(続き)

商業=都市革命
 通常、農耕の開始を「革命」と呼ぶことはあれ、商業の開始を「革命」とはあまり呼ばない。しかし交易の大量反復化としての商業の開始は、単なる物品ではなく、初めから交換に供する目的を帯びた「商品」の生産を結果した点で、人類史上もう一つの大きな生産経済革命であった。
 それはまた都市の成立を促す一大要因でもあった。農耕の発達は農村の大規模化を促進していたが、それだけで農村が即都市に変貌したわけではない。都市化は商業活動によって促進されたと考えられる。
 その際、原始遊牧民の役割は小さくなかったであろう。遊牧生活は農耕民の牧畜活動から派生したものだが、一箇所に定住しない遊牧民は交通機関の役割を担い、農耕民と商取引関係を結び、農村の点と点をつないだ。
 かれらはまた流民として農村に流れ込むこともあり、農村は次第に新規メンバーを加え都市化され、あるいは遊牧民の商業拠点が常設の都市化することもあっただろう。
 都市の成立を促したものとして宗教という要素も無視できず、古代都市は決まって神殿のような宗教施設を中心に持つのが通例だが、それは共同体的な統一を保つための精神的な手段にすぎず、シュメール人諸都市に見られたように、神殿が貿易の拠点を兼ね、商業とも深く結びついていることすらあった。

都市=文明の成立
 都市の成立は文明の成立をも促した。最初期の文明は都市の集合体としての文明圏によって担われた。このことは最も早くに文明が拓かれたメソポタミア文明圏のシュメール人諸都市が最も典型的に示している。
 そのメソポタミア文明圏とディルムン(今日のバーレーンを中心とした地域)やマガン(今日のオマーンを中心とした地域)といった都市を中継地として―それらの都市も小規模の文明圏を形成していた―貿易関係を持っていたことが知られるインダス文明圏も同じである。
 インダス文明圏で注目されるのは、他の文明圏のように王権の存在を示す明確な証拠が見当たらないことである。このことから直ちに同文明圏の諸都市では共和政が行われていたと即断することはできないとしても、インダス文明圏には超越的な権力は成立していなかったと推測できる。
 その場合考えられるのは、古代都市の常として神官の権威が高かったであろうことは想像に難くないとして、インダス諸都市の政治経済上の実権は商業を掌握する商人貴族層の手中にあったのではなかろうかということである。そうだとすれば、インダス文明圏は商業=文明の典型例ということになるが、同文明圏については不明な点がなお多い。
 いずれにせよ、都市を中心とした文明圏や文明圏に準じた高度文化を擁する準文明圏は、時期の遅速はあれ―アンデス地域のように紀元後に花開いた例もある―、世界各地に順次形成されていく。
 ところで、文明の成立要件の一つである文字の発明にも商業が深く関わっている。世界最古の文字とされるシュメールの楔形文字は、主に取引関係を記録する手段として発達したと考えられている。また時代下って、最古級のアルファベットとして普及したフェニキア文字やアラム文字を発明したフェニキア人やアラム人も商業民族として成功した集団であった。

商業民族の覇権
 このように、都市の建設者として覇権を握った民族は、その先駆者たるシュメール人をはじめ、ほぼ例外なく商業民族であった。
 シュメール人が新たに台頭したセム語系諸民族に同化吸収されて消滅した後、メソポタミア周辺で勢力を広げるのは、セム語系のアムル人、次いで同系のアラム人であったが、アラム人はラクダ隊商貿易の先駆者として、内陸貿易で大成功を収めた。
 そして、先に述べたように、かれらの言語であるアラム語はその文字とともに国際商業語となり、オリエント全体のリンガ・フランカとして、アラム人勢力が衰亡した後まで長く使用され続け、今日のアラビア文字、ヘブライ文字、モンゴル文字など東方系文字の祖となった。
 さらに時代下ると、今度はレバント地方を拠点としたカナン人から分岐したと見られるフェニキア人が台頭してくる。かれらはアラム人とは異なり、海上貿易の担い手たる海商民族として立ち現れ、長く地中海貿易を独占し、軍事的にも地中海方面の覇者となった。有名な北アフリカの植民都市カルタゴは、その拠点であった。
 アラム文字もフェニキア人が発明したフェニキア文字も表音文字、特に子音しか表さない子音文字(アブジャド)であったが、フェニキア文字はとりわけ純粋な子音文字であって、フェニキア人がこのように徹底して簡素化された文字体系を発明したのは、かれらがいっそう明確に文字を商業の手段として純化しようとしたためと考えられ、文字と商業の結びつきがより明瞭となっている。
 フェニキア文字はフェニキア人と取引関係を持つようになったギリシャ人の手でさらに改良されてギリシャ文字となり、今日の西洋系アルファベットの基礎を成した。
 商業を征する者は世界を征する━。この法則は以後一貫して妥当しており、中世におけるモンゴル人、さらに近現代におけるイギリス人、アメリカ人のように「世界帝国」の担い手となった民族・国民も、決まって商業の成功者たちなのである。
 かくして、商業は人類前半史を貫く太い縦糸である。ここには、その黎明期から強欲さを特徴とした現生人類の性格がよく現れていると言えよう。

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人類史概略(連載第8回)

2013-09-17 | 〆人類史之概略

第4章 商業革命と都市の成立

金属器の発明
 農耕よりも古い歴史を持つ交易は、当初は限られた地域間で限られた品目について行われていたが、次第にネットワーク化され、多品目について行われるようになったと考えられる。
 それを促した最初の契機が何であったかを確定するのは困難であるが、希少鉱物の取引ではなかったかと思われる。当初は黒曜石や琥珀のような石系の希少物から始まって、銅器や青銅器のような金属器の発明・普及に伴い、交易活動はいよいよ活発になったと考えられる。その意味で、金属器の発明は、かの用具革命の歴史に新たなページを切り拓いたと言えるのである。
 自然金・銅などを利用した最古の金属器はすでに新石器時代に現れているが、銅と錫の合金であるより強度に優れた青銅が知られるようになるのは前3千年紀と見られ、それは本格的な金属器時代の始まりを画するものであった。
 農耕が普及して生産余力がある程度生じると、分業制も始まり、金属加工のような複雑な技術を要する仕事は専業に近い職人によって担われるようになっただろう。そうした原始手工業者の生産する製品はまだ商品と言えるものではなかったにせよ、精巧に作られた製品はすでに日常的な交換取引に供するにふさわしい価値を備えていたはずである。

貨幣価値の発案
 金属器の発明という物質的な要因だけが商業の成立を促したわけではない。交換取引の大量反復化のためには、むしろ貨幣価値の発案という観念的な要因の関与が決定打となる。
 ここで言う貨幣価値とは広い意味であって、貨幣という物品の介在を前提としない。その意味で、これは交換価値と言い換えてもよい。
 商取引のプロトタイプである物々交換において、ある物品Aを取得するためには物品Bが3個必要というような取引慣行が成立すると、そこにおける物品Aと物品Bは互いに貨幣と同じ役割を果たしていることになる。別の言い方をすれば、物品Aは物品B3個分の交換価値を持ち、逆に物品B3個は物品A1個分の交換価値を持つ。
 この場合、AとBの物品としての使用価値は全く考慮されないわけではなく、およそ使用に耐えないような物品は交換に供することができないが、定型化された取引関係において、物品の使用価値いかんはひとまず括弧でくくられるのである。
 そうなると、物々交換は煩雑なものとなり―特に手元に物品が存在しない場合―、交換価値だけを表象するような特別の形式的な物品の需要が生まれる。こうして貨幣という物品が誕生したであろう。
 貨幣自体も一つの物品ではあるが、それは石とか貝殻のような自然物であってもよく、それ自体は実質的な使用価値を持たない形式的な取引媒介物にすぎないが、そうした媒介物を介することで交換取引はいっそう敏速・大量化していくのであり、ここに単なる交易が商業へと発展する契機が生じるのである。
 このような貨幣価値の観念がいつどこでどのようにして発祥したのかは、目に見えない観念の性質上確定し難いが、原初貨幣としての貝殻は西アジアや中国でも発見されている。
 こうした原初貨幣には呪術的な意味合いもあったと見られるが、元来使用価値を離れた抽象的な交換価値にはある種の物神性が込められており、貨幣価値が呪術と結びついていたことは現代の拝金主義にもつながっているだろう。
 より即物的な鋳造貨幣の出現となるといっそう遅く、今日知られる限り、アナトリアのヒッタイト帝国滅亡後の後継小国家群の中から台頭したリュディア王国が前6世紀頃先鞭を着けたと考えられている。
 鋳造貨幣は国家が貨幣価値の定立を独占する通貨高権の誕生を画するものであるが、広い意味での貨幣価値の成立は先史時代のことであり、これによって人類を特徴づける商業活動が確立されていくのである。

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戦後日本史(連載第21回)

2013-09-11 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔四〕独占資本解禁と「内務省」復活

 「55年体制」の終焉を画した村山政権は96年1月に退陣した。代わって自民党から3年ぶりに出た橋本龍太郎を首班とする新たな連立政権には引き続き社会党から党名変更した社会民主党も参加し(第二次内閣からは閣外協力)、自社連立の枠組みは維持される。とはいえ、橋本内閣の成立は、自民党政権の名実ともに完全な復活を意味した。
 橋本新政権が当面した課題は、90年代初頭のバブル経済崩壊後、深刻さを増しつつ遷延していた不況に対処することであった。当時はバブル期に不良債権を抱え込んだ銀行による貸しはがしや貸し渋りのために資金繰りに行き詰った企業のリストラ解雇や倒産が始まっていた。
 こうした中で、橋本政権は総選挙を経た第二次内閣下の97年に独占禁止法を改正し、47年の同法制定以来、財閥解体・経済民主化の柱として半世紀にわたって禁止されてきた純粋持株会社の解禁に踏み切り、大資本主導の企業再編を促す政策に転換した。この大転換はまた、金融不況対策として金融行政の規制緩和と金融持株会社の解禁に象徴されるいわゆる「金融ビッグバン」の一環でもあり、これにより大金融資本としてのメガバンクの再編も実現した。
 こうした施策の結果、法的にも独占資本が半世紀ぶりに復活することとなるが、これは経済政策面での一足早い「逆走」の到達点でもあった。
 橋本政権はまた行財政改革にも着手し、財政再建のため、消費税率の引き上げも断行した。さらに行政改革の一環として、中央省庁の全般的な再編にも乗り出す。特に97年に続々と表面化した金融機関の破綻に関してその監督官庁としての責任が鋭く問われた大蔵省が主要なターゲットとなる。
 戦後の大蔵省は戦前の旧内務省が解体された後は、国家財政から金融行政まで司る総合官庁として絶大な影響力を誇り、4人ものOB首相を輩出してきたが、橋本改革では金融行政の権限を大部分剥奪され、新設の金融監督庁(現金融庁)へ移管されることとなり、名称も財務省に変更された。
 一方で、自治省・郵政省の合併を軸とするメガ官庁として総務省が新設された。英語公式名ではMinistry of Internal Affairs and Communications(内務通信省)と訳され、「行政組織、公務員制度、地方行財政、選挙、消防防災、情報通信、郵政事業など、国家の基本的仕組みに関わる諸制度、国民の経済・社会活動を支える基本的システムを所管し、国民生活の基盤に広く関わる行政機能を担う省」と自己紹介される同省は実質上旧内務省の部分的な復刻版であって、将来ここに戦後内務省から分離された警察庁が外局として加われば、まさしく戦後版内務省となるだろう。
 結局、従前の1府22省庁を1府12省庁へ統廃合した橋本行革は、旧総理府を拡充して首相権限の強化を図った内閣府を筆頭に、総じて巨大な許認可権が集中するメガ官庁を多数出現させることになったが、これも戦前の同種行政制度への「逆走」にほかならなかった。
 以上のような「逆走」の大仕事が、自社連立・連携の翼賛的な枠組みを通じて合作的に断行されたことの歴史的な意味は大きい。

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戦後日本史(連載第20回)

2013-09-10 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔三〕大震災/サリン事件と統制強化

 村山自社連立政権は自民党・社会党双方の支持者から疎んじられ、総じて不人気であったが、同政権は90年代を象徴する二つの大きな天災事変に見舞われたことでも、ネガティブな記憶にとどめられている。
 そのうち1995年1月17日早朝に発生した阪神淡路大震災は6000人を超える死者を出した久々の大規模自然災害であった。この時、村山内閣は初動の災害救助対応に手間取り、批判を浴びた。
 続いて震災の衝撃冷めやらぬ同年3月20日に東京の営団地下鉄線内で朝の通勤ラッシュ時間帯に猛毒神経ガスのサリンが散布され、死者13人を含む数千人の死傷者を出した世界的にも未聞の大量殺傷事件は、大震災以上に社会を震撼させた。
 この事件は、前年6月に長野県松本市の住宅街で発生し、死者8人を出したサリン散布事件とともに、新興宗教団体・オウム真理教の組織的犯行と特定され、教祖をはじめとする教団幹部・信徒多数が逮捕・起訴された。
 20世紀も残すところあと5年という時期に起きたこの凶悪事件は、82年以降「逆走」の流れが再活性化し、93年からは加速化もしてきた状況下で、宗教的過激勢力に多くの高学歴者を含む青年たちが引き寄せられていた衝撃的な事実を社会に突きつけた。
 これは「逆走」鈍化期の青年たちを惹きつけた革新・革命運動がほぼ完全に退潮した一方で、脱政治化された青年たちが宗教へ傾斜し、容易に宗教反動勢力の走狗として異常な凶悪犯罪にまで走り得ることをも証明した出来事であった。
 村山内閣はこの大事件に際して、50年代の「逆コース」施策の象徴でもあり、制定時には社会党も反対に回った破壊活動防止法(破防法)の強制解散条項のオウム真理教への適用方針を打ち出したのであった。
 皮肉にも、破防法による団体強制解散はそれが本来主要なターゲットとしてきた共産党をはじめとする共産主義革命団体への適用例は一例もなく、適用されればオウム真理教が初例となるはずであったところ、政府(公安調査庁)の適用請求を受けて審査に当たった公安審査委員会は、請求棄却の決定を下したのだった。
 こうして一見政府内部で抑制が効いた形となった背景としては、一度でも強制解散が発動されれば先例となって累が及びかねない共産党やその他の市民団体が強力な適用反対キャンペーンを展開したという外部的要因が大きかったであろう。少なくとも、社会党に属する村山首相が表向き「慎重」姿勢を示す以上に破防法発動に異論を呈した形跡は見られなかった。
 結果的に棄却されたとはいえ、村山政権が初めて破防法に手をかけたことは、冷戦終結後その存在意義が揺らいでいた破防法所管官庁・公安調査庁を蘇生させるとともに、90年代末以降盗聴立法や刑法・少年法厳罰化など治安面での統制強化策が次々と打たれていく大きな契機となったことは間違いない。
 ちなみに「人にやさしい政治」を掲げた村山政権下、死刑執行も約1年半で8件行われた。社会党はかねて選挙公約でも死刑廃止を掲げていながら、ここでも自党の政策をあっさり取り下げて、死刑存置派の連立相手・自民党に歩調を合わせたのだった。
 結局、村山自社連立政権の“功績”は、治安面でも「逆走」の加速化をいっそう円滑に推し進めるための土台を築いたことにあっただろう。

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生命/生活置き去り五輪

2013-09-09 | 時評

2020年東京五輪の招致成功を誰よりも喜んだのは東京電力ではないだろうか。東京優勢が伝えられていた中で、「汚染水問題」発覚のため土壇場で落選していれば、東電が「A級戦犯」として非難の矢面に立たされかねなかったからである。

それにしても、原発事故から2年半を経てなお収束のめども立たないうえ、新たな大問題も発覚した中での東京開催というIOCの決定は大胆という以上に、鈍感ではないか。汚染水問題の影響はないという根拠抜きの安倍首相の口約束が最後の決め手となったとすれば、あまりに政治的である。

五輪選手は一般人以上に健康管理には気を使うはずであって、海外選手が原発問題をどう見ているのかは不明である。2020年時点での原発の状況によっては、少なからぬ出場辞退者が出る可能性もあろう。

それだけではない。東京招致は「安全」が評価されたとも言われるが、遠くない将来の首都直下大地震の可能性を警告してきたのは誰であろうか。ということは、2020年の五輪開催期間中に直下地震に襲われる可能性もあるわけで、安全などころか、いつ来るかわからない大地震の不安に怯えながらの五輪となる。

2020年東京五輪は福島原発の二次的事故の危険性と合わせて、原発プラス地震のダブル不安を抱えた史上最も不安な五輪になるのではなかろうか。

一方で、震災避難民は依然として約30万人に達する。中でも福島の原発避難民は帰還のめども立たず、離散状態にある。2020年までに整備すべきは五輪向け単発のハコモノではなく、こうした長期避難民の生活再建を支える社会保障制度、あるいは元来貧弱な社会保障制度一般である。

結局のところ、五輪招致に浮かれる人々は、生命/生活より金銭/栄冠という資本主義的価値観に支配されているのだ。かれらは五輪招致を批判する者は非国民扱いという雰囲気を作り出し、五輪熱で存在が忘れられることを懸念する避難民たちにすら「五輪招致成功は喜ばしいが・・・」と前置きせざるを得なくさせている。

このような者たちがこの国の支配層である間は、この国で安全に生命を保ち、安心して生活していくことなどは期待できない。執拗に招致成功の歓喜を反芻して観せるテレビを眺めながら、虚しさが胸に去来する日々が続く。

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人類史概略(連載第7回)

2013-09-04 | 〆人類史之概略

第3章 農耕革命と共同社会(続き)

共同社会の成立
 現生人類は長き狩猟採集生活の中で、家族を核とした原初的な社会を形成するようになっていたとはいえ、それはいまだ流動性の高い群集団にすぎず、共同社会と呼び得るような段階には達していなかった。より固定的で持続的な共同社会が形成されるようになるのは、やはり農耕の開始以後のことであった。
 原始農耕は雨水を利用して作物を自然の成長に任せる乾地粗放農法であったから、初期農耕民は定住民というより耕作地を転々とする流民のようなものであったと考えられるが、農耕技術が進歩し始めると、定住集落も生まれるようになった。
 そうした初期集落の代表例として、シリア地方のテル·アブ·フレイラ遺跡(現在はダム湖に水没)がよく知られている。この遺跡は農耕開始以前の狩猟採集生活から中断をはさんで農耕生活へ移行する過程をフォローできる点でも、基準的な遺跡として重要である。
 その発掘結果によると、この遺跡の元住民はせいぜい200人程度と小規模で、集約的な大規模集落が形成される以前の初期共同社会のありようを示している。
 こうした初期農村の形成も西アジアが先駆的であったのは、この地域では粘土を利用した日干しレンガ造りの家屋の建設が容易であったことに加え、一度放棄された集落の上に丘状に新たな集落を形成するテルという形で集落のリユースもしやすいことがあっただろう。

原始共産制仮説
 こうした初期農村共同体の社会編制がいわゆる原始共産主義と呼ばれるものに照応していたかどうかについて、考古学的証拠は明確に語らない。従ってそれは仮説にとどまるが、初期農村遺跡にはさほど顕著な階級差が認められず、比較的平等な社会編制を持っていたと推定することは不合理でない。
 原始農村共同体は自給自足がぎりぎり成り立つ状態で、余剰生産力は望めなかったから、分業も未発達で、階級差を生じる要素は乏しかったと見られる。先のテル・アブ・フレイラ遺跡でも住民の遺骨に粉引きの重労働の痕跡が残されていたことは、平等な労働習慣の存在を示唆する。
 交易は農耕に先行して始まっていたとはいえ、貨幣の発明前は大量反復的な交易すなわち商業活動も開始されておらず、階級差の要因となる富の蓄積もまだ考えられなかった。
 一方、初期農村共同体が母権制社会であったかどうかについても、考古学的証拠は語ることができない。しかし、農耕では女性の役割が大きく、豊饒のイメージもまとう女性が神格化されていたことは、各地の地母神信仰に看て取ることができる。
 家父長制ならぬ家母長制が基本であったかどうかは別としても、先史農村共同体における女性は現代資本主義社会における女性よりも高い地位を保持していたとみなす余地は十分にあるだろう。

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人類史概略(連載第6回)

2013-09-03 | 〆人類史之概略

第3章 農耕革命と共同社会

農耕の始まり
 農耕(及びそれと密接に関わる牧畜)の始まりはおよそ1万年前とされる。それは現生人類史20万年の中では、比較的「近年」のことにすぎない。それほど長きにわたって、現生人類は狩猟採集生活を続けていたわけだが、ここには現生人類の意外に保守的な生活様式の一端が窺える。
 最初に農耕が始まったのは西アジアと見られている(稲作に関しては、中国の長江流域が西アジアと同程度もしくはそれ以上に古いとする説もある)。
 西アジアは「出アフリカ」した人類がいち早く定住したアフリカ外の代表的な地域であったし、ここには栽培に適した食用植物や家畜化しやすいヤギやヒツジのような中型動物が豊富に存在したことも幸いし、その地で人類は初めて栽培と飼育という習慣を身につけたのだろう。
 このことの意義は画期的であった。まず用具生産という点から見ても、農具という新しいジャンルの用具を発明するきっかけを成した。また従来生産行為と言えば用具の生産に限られていたのが、新たに食料の生産という重要な生産行為が加わったのである。
 このことは、人類が自然の食物連鎖サイクルの中に組み込まれていた状態を脱し、自然に働きかけ、自然に手を加えることで自らの生活を維持・発展させる可能性を確保し得たことを意味している。人類はこの時から、単なる自然の一部ではなくなり、自然からはみ出し始めたのだとも言える。
 こうした最初の生産経済革命とも呼ばれる農耕は、西アジアを出発点に周辺に伝播するだけでなく、順次連続的にアフリカ、南アジア、中国、中南米などでも開始されていった。
 この事実をいわゆる単一起源説、多源説のいずれで説明するかという枝葉の論議はさておき、おおむね前10000年から前5000年頃にかけて、各地に拡散・定着した人類は農耕を開始することが可能な段階に達し、地球の気候条件もそれを許したのである。
 同時に、農耕という画期的な生活様式の開始は、従来の狩猟採集という伝統的な生活様式が気候条件にも規定されつつ、おそらくは人口増と乱獲によって限界に達し始めていたことをも示唆する。
 ここで用具生産に関して特筆すべきは、農耕の開始にほぼ前後して新たに土器が発明され、普及したことである。土器は石器や骨角器に比べより高度な加工技術を要する用具であって、土器の発明は人類がより複雑な用具生産の道へ進んだことを意味している。
 土器は食物の調理や貯蔵にも適しているから、土器の発明は農耕の開始にとってはタイムリーであって、それは新時代の到来にふさわしい用具革命の新たな段階であったと言える。

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