ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第28回)

2012-10-26 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(2)エンゲルスからレーニンへ(続き)

離反主義者レーニン
 レーニンやプレハーノフらによって再建されたロシア社会民主労働者党は、基本的にプレハーノフの理論に沿った綱領を採択したが、レーニンの独創的な知性は、ほとんど初めからプレハーノフの教条主義とは相容れなかった。
 彼は党に参加する前年に書いた有名な論文「何をなすべきか」の中で、労働者は自力では労働組合的意識を超え得ないため、その革命的意識は外部の知識人によってもたらさなければならず、労働者の自発的・自然発生的な労働運動の発展を待っているだけであってはならないとする「外部注入論」を展開するとともに、ロシアのような専制下ではとの留保つきで、革命運動は少数精鋭で秘密裡の職業革命家組織によって主導されなければならないとする「陰謀組織論」を提唱している。
 このようなレーニンのエリート主義的な所論はすでにマルクス理論からの離反を示している。たしかにマルクスも自らの理論をプロレタリアートの階級闘争の武器として提供しようと努めた「外部」の知識人ではあったが、彼は労働組合こそがまさに労働者の日常闘争の現場であると同時に、賃労働制廃止へ向けた革命運動の現場でもあるとみなしていたのであった。従って、マルクスにとって労働者の革命的意識は外部から注入されるのではなく、内部から醸成されるべきものである(内部醸成論)。
 それゆえ、プロレタリア階級の解放はプロレタリア階級自身の手で闘い取られなければならないのである。そして、マルクスのような共産主義者たち―「革命家集団」と置き換えてもよい―は、他の労働者党と比べて特殊な党ではなく、特別な原則を掲げて運動を型にはめようとするものでもなく、ただプロレタリア運動の中の最も断固とした推進的部分にして、洞察力を持った集団にすぎないのであった。このことは、専制下であろうと、民主制下であろうと変わりない。
 レーニンはこのように革命家集団が後方から労働者階級を押していくイメージのマルクスの「革命後衛理論」を、逆に前方から引っ張っていくイメージの「革命前衛理論」にすり替えてしまっている。
 またプロレタリア革命に関しても、レーニンはやがて、マルクスが想定していなかった労働者と農民(貧農)との同盟に基づく「労農革命論」を提起し、資本主義が十分に発達し切っていない段階での革命的蜂起の可能性を認めた。これは後年、教条主義的なプレハーノフとも鋭く対立する分岐点となる。
 プレハーノフはカウツキー流の革命待機論者ではなかったけれども、ロシアにおける専制打倒と将来のプロレタリア革命との間に相当の期間を見る―それはむしろマルクスの「革命の孵化理論」に沿うものであった―ことから、結果として待機論に流れる可能性があった。実際、当初レーニンと協力していたプレハーノフはやがてロシアにおける待機論派とも言え、カウツキーによっても支持された社会民主労働者党メンシェヴィキ派へ合流し、レーニンが指導するボリシェヴィキ派とは袂を分かつのである。
 このように、レーニンの理論―レーニン主義―は、マルクスの概念を利用しながらも、とりわけ実践論の領域ではマルクスの理論から離反していくのである。レーニン主義はロシア革命後、レーニンとボリシェヴィキの体制が固まって以降、体制教義の地位を獲得したことで、マルクス主義そのものの正統教義とみなされるようになったが―言わば、ローマ帝国による国教化以降のキリスト教におけるカトリックの地位に匹敵する―、実際のところ、レーニン主義とはマルクス理論に対する離反主義であったのだ。
 レーニンは権力掌握後、ボリシェヴィキに対する厳しい批判者となったカウツキーを「背教者」と名指して非難する論文を発表した。たしかに当時のカウツキーはマルクス主義を離脱しつつあったが、レーニンもまたカウツキーとは違った流儀で「背教者」であったのだ。
 ただ、レーニンがあえて「背教」に出たのは、当時ドイツを中心にマルクス主義が改良主義的穏健化の道をたどっていた現状に満足せず、革命実践に活を入れ直そうとしたためであった。その際、彼はかねて加入したことがなく、その理論に否定的であったナロードニキを一部再評価するのである。そのことは特に農民との同盟を重視する労農革命論に如実に表れているが、陰謀組織論もナロードニキ系過激派組織「土地と自由」の手法にならったものであった。
 こうしたマルクス理論に対するナロードニキ的離反の根底では、資本主義的工業化のめざましい進展の中にあってなお農業国でもあったロシアの現実に直面しつつ、革命と権力獲得を急ぐレーニンの「力への意志」―マルクスには決定的に欠けていたもの―が働いていたはずである。この点で、レーニンはマルクスよりニーチェに近かったと言ってよいかもしれない。

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マルクス/レーニン小伝(連載第27回)

2012-10-25 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(2)エンゲルスからレーニンへ

エンゲルス没後のマルクス主義
 エルフルト綱領によってドイツ社会民主党がマルクス主義政党として再出発して以来、ドイツがマルクス主義のメッカとなる。従って、エンゲルス没後のマルクス主義をリードしていくのはドイツ社民党のイデオローグたちであった。
 しかし、(1)でも触れたように、エルフルト綱領はマルクス主義に立脚しながらもゴータ綱領以来の穏健な改良主義的要素をなお残しており、この要素は党が議会政党としてめざましい成功を収めるにつれて次第に色濃くなっていく。
 そうした傾向を代表するイデオローグがカール・カウツキーとエドゥアルト・ベルンシュタインであった。二人はともに晩年のエンゲルスの薫陶を受けたマルクス主義第二世代のイデオローグであった。
 このうちベルンシュタインはエンゲルスの死後いち早く1899年に主著『社会主義の諸前提と社会民主主義の諸課題』を発表し、マルクスの唯物史観や剰余価値といった基礎理論に始まり、階級闘争やプロレタリアート独裁といった実践論に至るまですべてを総批判するとともに、ドイツ社民党は資本主義の枠内で労働者の生活状態を改善していくことに努力を集中すべきことを説いたのである。
 こうしたベルンシュタインのマルクス主義内部からの公然たるマルクス批判は当然にも波紋を呼び起こし、彼は「背教者」「異端者」呼ばわりされ、彼と彼を支持するグループには「修正主義」のレッテルが貼られることとなった。
 しかし、フェビアン協会など英国の改良主義的な社会主義の影響を受けていたベルンシュタインの所論は、マルクスの批判的経済理論を捨てて、カール・メンガーらの限界効用理論へ転向するものであったから、実質的にみてマルクス理論の単なる「修正」にとどまらない「離脱」を示しており、正確には「離脱主義」と呼ばれるべきものであった。こうして、彼こそは反マルクス主義的・反共主義的な現存社会民主主義の祖でもあった。
 ベルンシュタインは余りに公然と党の改良主義的穏健化路線を称揚しすぎたため非難を浴びたのだったが、当時彼を批判した一人でもあったカウツキーも、マルクス理論を希釈化して穏健化路線に符丁を合わせていく点では同様の基盤を持っていた。
 エンゲルスがやり残した『資本論』第4巻の編者となったチェコ出身のカウツキーはベルンシュタインほど公然とマルクス理論を放棄しなかったとはいえ、プロレタリア革命論については、これを大幅に抽象化して、資本主義が将来必然的に崩壊する寸前の政権移行事務のようなものに限定しようとする。従って、それまでの間、社民党は議会政治の枠内で活動し、革命の時機が訪れるのを待機していればよいとされる限りで(革命待機論)、穏健化路線の支持者となるのである。
 こうしたカウツキーの立場は、ベルンシュタインのように資本主義を積極に受容する右派、あくまでもプロレタリア革命の道を具体的に追求すべきとするローザ・ルクセンブルクらの左派に対して中央派とも呼ばれるが、実質的にはカウツキーのような立場こそ、マルクス理論を穏健主義的に解釈し直す「修正主義」と呼ばれるのが正確であろう。ただし、カウツキーも最終的に、ベルンシュタインの路線が党内に浸透し始めた1910年代には「離脱主義」へ合流していくのである。

革命家レーニン登場
 ドイツのマルクス主義が次第に改良主義的穏健化の道を進んでいく頃、ロシアでは別の動きが始まっていた。元来、ロシアでは1872年にいち早く『資本論』初の外国語訳としてロシア語版の訳者となったニコライ・ダニエリソーン(筆名ニコライ‐オン)、『共産党宣言』のロシア語新版の訳者となったヴェラ・ザスーリチら生前のマルクスとも文通していたナロードニキ系知識人・運動家によってマルクスの紹介がなされていた。
 そうした中で、やはりナロードニキからマルクス主義に転向したゲオルギー・プレハーノフがロシア・マルクス主義の理論指導者として台頭する。プレハーノフの所論はロシアでも1880年代頃から急速に資本主義が勃興し始めた社会変化を反映して、ナロードニキが従前主張してきたような農業国ロシアの特殊性に基づく資本主義を飛び越えた農民革命・農民社会主義ではなく、西欧と同様にマルクス的なプロレタリア革命を通じた社会主義をロシアでも展望することができるとの主張であった。
 その際、彼はまずブルジョワ革命によりロシア帝政が打倒され、自由主義的な「法治国家」が樹立された後、資本主義が高度に発達し、資本主義的諸関係の矛盾が爛熟した時点で、プロレタリア革命により社会主義へ移行するという道筋を描いた点で、マルクス理論を図式化する教条主義的な立場を採っていた。
 こうしたプレハーノフの影響を受けつつ、ロシア・マルクス主義の次世代リーダーとして台頭してくるのが、ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤノフ)であった。ナロードニキを経由せずに初めからマルクス主義者となったロシアにおける最初の世代である彼は、弁護士となり、非合法の政治結社を組織したかどで検挙され、流刑を終えた後、頭角を現した。
 彼は1903年、ブリュッセルでプレハーノフらとともにマルクス主義政党・ロシア社会民主労働者党の再建―最初の党組織は1898年にミンスクで別のグループによって結成されたが、直後に当局の弾圧を受けて事実上解体していた―を主導するのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第26回)

2012-10-18 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

マルクス=レーニン主義の理論で武装した共産党は、社会の発展の総合的な展望及びソヴィエト人民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利のためのかれらの闘争に計画的かつ科学的に根拠のある性格を付与する。
―ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法第6条第2項


(1)「マルクス主義」の創始

エンゲルスの役割
 人間としてのマルクスは死んだが、その後間もなく彼は「復活」した。まるでイエス・キリストのように。
 このようなマルクス理論の擬似宗教化の流れを作り出したのが、いわゆる「マルクス主義」という新思潮であった。そしてその創始者の座に就いたのが、マルクスよりも12年ほど長生した盟友エンゲルスであった。「マルクス主義」はしばしば誤解されるように、マルクス本人が創始したのではなく、エンゲルスによって創始されたと言って過言でない。
 エンゲルスはすでにマルクスの生前からマルクス理論を「科学的社会主義」と規定しつつ、その宣伝者としての役割を果たし始めていた。その成果が『反デューリング論』とその要約版『空想から科学へ』である。
 マルクス死後のエンゲルスは、まずマルクスの遺稿の整理・編集を軸にしながら、「科学的社会主義」すなわちマルクス主義の普及と体系化にも独自の貢献をしている。
 このうち遺稿の整理・編集に関しては、何と言っても未完のままとなっていた『資本論』第2巻及び第3巻を公刊したエンゲルスの功績は大きい。これによってマルクス主義の聖典『資本論』が今日あるような三巻本に仕上がったのである。
 ただ、このエンゲルス編の第2巻・第3巻の内容が果たしてマルクスの真意に沿ったものかどうかについては議論があり、元来マルクスの未確定草稿を使用しているため、エンゲルス自身の解釈を交えた編集の手が加わっていることは間違いないであろう。そういう点でも、後世になってイエスの言葉とされるもの―イエスは「草稿」さえも残さなかったが―を編集して作成された聖書と似た関係にある。
 マルクス主義の体系化に関しては、先に挙げた『反デューリング論』がその最初の試みであり、今日でも「科学的社会主義の百科全書」と評されるドグマティックな著作であるが、より独自性の強い別著『自然の弁証法』は未完ではあるものの、唯物弁証法を自然科学にまで拡大適用していこうとするエンゲルスの野心作であった。
 しかしマルクス自身は弁証法をそこまで拡大的にはとらえていなかったし、エンゲルスが試論的に定式化した(a)量から質への転化(b)対立物の統一(c)否定の否定という弁証法三法則もマルクス自身のものではないが、エンゲルスの言説はマルクスの終生にわたる盟友としての彼の権威によってマルクス主義の正統教義として信じられるようになった。
 一方、マルクス主義の普及に関しては、エンゲルスによるマルクスの遺稿の選択的な出版活動が即「布教」の意義を担っていたが、彼はさらに各国労働運動に対しても、マルクス主義の立場から支援と助言を精力的に行った。
 特に、1891年にはビスマルク体制下の弾圧の中を生き延びたドイツ社会主義労働者党がドイツ社会民主党と党名変更するのに伴い、かつてマルクスが痛烈に批判したゴータ綱領に代わる新綱領を起草するに当たって助言を与え、マルクス理論に沿った綱領(エルフルト綱領)を完成させる手助けをした。この新綱領にはなお穏健な改良主義的要素が残されてはいたが、これによってようやくマルクスの故国ドイツにもマルクス主義政党が誕生することとなったのである。
 こうしてエンゲルスは、キリスト教における第一使徒ペテロとパウロ、さらには後の聖書編纂者の役割をも一人で兼ねる多面的な役割を果たした末、1895年8月、喉頭癌のため死去した(享年74歳)。彼の遺骨は遺言により、ドーヴァー海峡に散骨された。

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続・終わりの始まり

2012-10-17 | 時評

14日まで東京で開催されたTMF・世銀年次総会は、48年ぶりに東京で開催されたことに意義があるのではなく、その意義は戦後資本主義の守護神である両機関が重大な曲がり角にあることを示した点にある。

思えば48年前の東京総会は、TMF・世銀本来の役割であった戦後復興の大きな成果の一つとして、資本主義的高度成長期にあった「新興国」日本で開かれたことに象徴的意義があった。

その後、いわゆるニクソン・ショックでブレトン・ウッズ体制としてのTMF・世銀は終焉し、1970年代以降、今度は新自由主義の国際司令塔として新装された両機関がフル稼働してきたが、それも2008年大不況後、打ち続く経済危機を解決できず、終焉した。

「世界経済の成長は減速し、著しい不確実性と下振れリスクが残る」というIMFC声明は、その敗北宣言に等しい。要するに、資本主義の未来は不確実と認めたのだ。欧米・日本経済はもちろん、頼みの新興国経済も危ういということだ。 

これをどう読むかが問題である。資本主義の正当性を絶対視するエコノミストなら、あくまでも資本主義ではおなじみの景気変動のちょっと厄介な亜種にすぎず、日はまた昇るとのたまうだろう。こういうラテン気質の楽観主義こそ、多くの人を惹きつける資本主義の魅力かもしれない。

しかし、それほど楽観的にはなれないコミュニストであれば、資本主義の守護神自身が資本主義の終わりの始まりを事実上公式に認めたと読むだろう。

2008年大不況は政府による巨額の公的資金注入というなりふり構わぬ延命措置によって当面乗り切れたが、今度は新たに政府の財政破綻という問題を抱え込んだ。分裂危機にある政府債務問題の震源地・欧州連合をノーベル平和賞で景気づけても、状況に大きな変化はあるまい。 

経済成長のためには財政危機の解決が必須であり、財政危機の解決のためには税収増につながる経済成長が必須である。こうした解けない連立方程式に直面したことで、資本主義は終わりの始まりをすみやかに進んでいる。

そうした意味で、今年のTMF・世銀総会は、昨年8月の拙稿『終わりの始まり』に公式のお墨付きを与えてくれたものと評することができる―もちろん、楽観主義的に資本主義の力強い再生を信じることも自由であるが。

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マルクス/レーニン小伝(連載第25回)

2012-10-11 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(6)最後の日々

第一インターの解散
 バクーニン派除名を決議した第一インター1872年ハーグ大会は、総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これは第一インターの事実上の終焉を意味していたが、果たして76年のフィラデルフィア大会はインターの正式な解散を決議した。64年の結成からわずか12年での幕切れであった。
 こうして第一インターの短命さは、その後何度か結成し直された労働インターナショナル組織の短命さの先例ともなった。このことはマルクスが重視した国際労働運動の困難さ、特にそのセクト主義的分裂傾向を止揚することの難しさを示すものでもあった。第一インターの失敗は一方で、マルクスの理論がいまだ各国労働運動の間に浸透しておらず、マルクス支持派が十分な勢力を持っていないことも証明した。
 それにつけても、晩年のマルクスが最も力を込めて取り組んだ革命実践が第一インターの活動であったから、その挫折はマルクスに重くのしかかった。振り返れば、若き日の共産主義者同盟の活動以来、マルクスが関わった革命実践の中で長続きしたものは一つもなかった。改めて革命実践の難しさをかみしめつつ、彼は老境に入っていくのである。
 すでに長年の貧困の中で骨身を削るような研究に苦労の多い実践も重ね、マルクスの健康状態は悪化し始めており、長生は望めそうになかった。

最後の経済学研究
 健康悪化の中でもマルクスが最後まで決して歩みを止めようとしなかったのが、経済学研究であった。彼は『資本論』第1巻の続巻の公刊を目指して鋭意草稿を執筆していたが、1870年代からは特にロシア農村の研究に取り組み始めていた。
 マルクスが注目していたのは、ロシア農村共同体(ミール)に残る伝統的な農民の土地共有慣習であった。彼はロシアの知人などを通じてロシアの土地制度に関する公式統計や刊行物を取り寄せて読解を進め、エンゲルスによれば「(『資本論』第3巻の)地代に関する篇では第1部(第1巻)の工業賃労働の所で英国が演じたのと同じ役割をロシアが演ずるはずであった」が、マルクスの健康状態がそれを許さなかったのである。
 それでもマルクスはこの頃、まだ資本主義の発達が遅れていたロシアにおける農民革命の可能性を視野に入れるようになっていた。そうすることによって、彼は当時のロシアに台頭していたミールを土台とする農民社会主義を目指すナロードニキ派の思想に図らずも接近しつつあったのである。実際、マルクスは、ナロードニキ分派に属し、後年ロシア初のマルクス主義政党・社会民主労働者党メンシェヴィキ派に転じた女性活動家ヴェラ・ザスーリチと文通していた。ちなみに彼女は82年に出た『共産党宣言』ロシア語新版の訳者ともなった。
 マルクスとエンゲルスはこのザスーリチ訳『共産党宣言』に寄せた序文の中で、「ロシア革命が西欧におけるプロレタリア革命への合図となり、その結果両者が互いに補い合うならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点として役立ち得る」とするロシア革命テーゼを仮定的な形で提出するに至った。
 ただし、マルクスはロシアの土地共有制が政府によって上から解体され消滅する可能性も考慮していた。実際、マルクスの死後、ほどなくしてロシアはその方向に進み、資本主義の急速な発達を見たのであるが、なお農業を主軸とする農業国である現実に変わりはなかった。ロシアのこうした微妙さが、後にマルクス主義の革命家レーニンの特殊な革命戦略「労農革命論」を導き出すことになる。
 マルクスがもう少し長生し、実際にロシア農村研究を完成させていれば、彼のロシア革命論もさらに進展したかもしれないが、それはかなわなかったのである。

失意と死
 もはや衰えを隠せなくなっていたマルクスの心身に最後のとどめを刺したのは、妻と長女の相次ぐ死であった。
 まず1881年12月、妻イェニーが肝臓癌のため死去した(享年67歳)。これだけでもマルクスには打撃であったが、続いて83年1月にはフランスの社会主義者シャルル・ロンゲの妻となっていた長女ジェニーが死去。これでマルクスは6人中4人の子に先立たれたことになる。
 こうして失意の底に沈んだマルクスは長女の死から間もない1883年3月14日、ロンドンの自宅で生涯を閉じたのである。享年64歳。死因は妻イェニーと同じ肝臓癌であった。同月17日の埋葬式には、エンゲルスをはじめ約20人の近しい人たちが参列するだけの簡素なものであった。
 エンゲルスは弔辞の中で、マルクスを「現代最大の思想家」と称えたが、実際のところ生前のマルクスは晩年になってようやく知る人ぞ知るという程度のマージナルな存在にすぎず、エンゲルスの賛辞には誇張が含まれている。何よりもおよそ30年の亡命生活を送り、そこに骨も埋めた英国において、彼は影響力を持っていなかった。
 マルクスの死の翌年に結成され、シドニーとベアトリスのウェッブ夫妻を理論的支柱とし、後に議会政治の枠内で大成功を収める英国労働党の前身組織の一つともなったフェビアン協会は、マルクスとは無縁の穏健な改良主義的社会主義の団体であった。
 ところで、ここに面白い偶然が二つある。一つは、マルクスの生没年はロシア農奴制の批判者であったロシアの文豪トゥルゲーネフと全く同じであったこと。もう一つはマルクスの没年1883年には、やがて20世紀の資本主義経済学の泰斗となるジョン・メイナード・ケインズが同じ英国で生誕していることである。後にマルクス理論から離脱していったいわゆる「修正主義者」たちがマルクスに代わってすがるのが、このケインズなのであった。

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科学と賞

2012-10-10 | 時評

毎年、ノーベル賞の季節になると不可解に思うことがある。それは日本人科学者が受賞すると、「日本人」という属性を強調してまるで国家的行事のように大騒ぎすることである。反面、外国人の受賞者については、それが日本人受賞者との共同受賞であってもほとんど関心を払われない。思うに、こうした場合、科学的関心よりも「日本の誇り」といったナショナルな感情が先行しているのだ。

しかし、ノーベル賞は国が受賞対象となるのではなく、受賞対象はあくまでも科学者個人であるから、受賞者の国籍や民族籍は無関係である。それは、すぐれた科学的研究成果が人類普遍的な共有財産であることを考えれば、当然のことであろう。

その点では、今年のノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥氏のiPS細胞研究などは典型的に普遍性の高いものであるだけに、氏が日本人であることは重要な問題ではない。

従って、「日本という国が受賞した」という氏のコメントは疑問である。この発話は謙遜とも受け取れるし、またiPS細胞研究に破格の研究予算がついて事実上の国家的プロジェクトとなっている現状を表したものかもしれないが、本来学問は国家から自由に行われるべきものであるから、日本という国家が受賞したのではなく、あくまでも山中氏個人が受賞されたのである。

さらに、科学的研究成果が人類普遍的な共有財産であるということは研究のプロセスについても言えることであり、すべての科学研究には土台となった先行研究がある。山中氏の研究では、共同受賞した英国人研究者ジョン・ガードン氏の半世紀前に遡る基礎研究が土台である。そういう意味では、科学賞は科学者個人に対する栄冠というよりは、―時に受賞対象から外れる―先行研究者も含めた顕彰である。

科学研究がそういうものであるなら、科学にそもそも賞は必要なのかも疑問となってくる。受賞はなくとも、貴重な研究成果はあまたあるだろうからである。

ただ、科学賞には研究者の研究意欲を刺激する意義はあるかもしれない。しかしそれも行き過ぎて受賞のための競争的な研究に走れば、データ捏造のような不正行為に手を染める研究者も出てくる。

科学賞の意義はゼロでないとしても、あまりに賞を過大視することは科学研究を歪める恐れもあり、まして受賞を国家的行事のようにとらえることは科学の本質に反する本末転倒である。

[追記]
山中氏の受賞直後、別の日本人研究者がiPS細胞を使った世界初の心臓移植手術に成功したとするスクープ報道がなされたが、その内容が虚偽である可能性が明らかとなった。この見事な勇み足は、またしても「日本人」という属性に目を奪われ、研究内容の信憑性には二次的関心しか示さない主観的なナショナリズムのなせる業と言える。

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「サイバー冤罪」の恐怖

2012-10-08 | 時評

他人によって遠隔操作されたパソコンで爆破や殺人予告等の書き込みをしたとして、二人の男性が相次いで誤認逮捕された事件は、「サイバー犯罪」ならぬ「サイバー冤罪」というパソコン・ユーザーであれば誰でも巻き込まれ得る新たな冤罪の登場を示した。

この場合、誤認逮捕された人のパソコン内に送信記録自体は残されていた以上、捜査当局が当該パソコン所有者が犯人だと誤認してもやむを得ない事情があったと言えないこともない。

しかし、近年他人のパソコンを乗っ取るタイプのコンピュータ・ウィルスの存在は公知の事実となっており、パソコンを利用したサイバー犯罪の捜査ではその可能性を常に考慮しなければならないはずである。

従って、パソコン内に送信記録が残されていても、パソコン所有者を直ちに犯人と決めつけず、第三者が犯人である可能性が残されていないか、無罪方向の証拠を収集・検討する反面捜査が実行される必要がある。

こうした反面捜査は無罪推定原則から派生し、一般的にすべての犯罪捜査に妥当することであり、「サイバー犯罪」に限定される特殊な捜査手法ではない。

従来、日本の捜査機関はこうした反面捜査の習慣も問題意識も希薄で、一度目星を付けた人物についてはむしろ「有罪推定」に立って立件へ向けて流していくことを習慣化してきた。「サイバー冤罪」はそうした日頃の習慣の延長上で発生したことである。

せめて任意捜査の原則を尊重し、まずは被疑者に任意の捜査協力を求めつつ、慎重に調べを進めていけば、逮捕起訴に至る前に冤罪が晴れた可能性がある。

デジタル社会では他人に身に覚えのない犯罪を転嫁する偽装工作も技術的にたやすいという事実を、捜査機関がサイバー冤罪を「適正捜査」と正当化する口実に利用することを許してはならない。繰り返せば、「サイバー冤罪」はパソコン・ユーザーであれば誰でも巻き込まれ得る恐ろしい事態だからである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第24回)

2012-10-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり(続き)

「ゴータ綱領批判」をめぐって
 
ドイツ社労党綱領を批判したマルクスの論文「ゴータ綱領批判」は、ほとんど逐条的な形式で細かな字句の使い方に至るまで立ち入って綱領文言を「添削」しているが、それに付随する形で『共産党宣言』でもほとんど空欄とされていた共産主義の定義やその内実について初めてかなり具体的に開陳している点で重要な文献である。
 それによると、資本主義社会からプロレタリア革命・プロレタリアの革命的独裁の時期を経て到達する共産主義社会とは「生産手段の共有を基礎とする協同組合的な社会」と定義づけられる。しかも、この共産主義社会は「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(低次共産主義社会)と「それ自身の基礎の上に発達した共産主義社会」(高次共産主義社会)の二段階に整理されている。
 このうち「経済的にも、道徳的にも、精神的にも、この共産主義社会が生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ付着させている」と形容される低次共産主義社会では、なおブルジョワ的な等価交換原理が残存するものの、商品交換は廃され、各人は賃労働で得た賃金で商品を購入するのではなく、自らの労働量(労働時間)に相当する量の物資―そこから社会共同目的に供出される分が控除される―を取得することができる。例えば8時間労働をした労働者Wは、資本主義社会におけるように8時間労働で得た賃金の範囲内で商品Cを購買するのでなく、同等の8時間労働に相当する量の物品G(t8)―以下、当該物品の労働時間量をこのように表記する―を取得するのである。
 こうした等労働量交換の仕組みを担保するための手段として、マルクスは一定量の労働を給付したことを証する「労働証明書」なる一種の有価証券の制度を提唱している。それによると、例えば先の例で、労働者Wは8時間労働分の労働証明書の発行を受け、これと引き換えに消費財G(t8)を取得する。従って、8時間労働分の労働証明書では10時間労働に相当する消費財G(t10)は―それを分割できない限り―取得できないことになる。
 このような低次共産主義の段階ではすでに階級格差は廃されているが、個人の能力や既婚・単身の別や子どもの有無・人数などによる格差はなお残される。しかしそうした権利内容の不平等は、マルクスによれば「長い産みの苦しみの後に資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない」のである。
 それでは「共産主義社会のより高い段階」である発達した共産主義社会(高次共産主義社会)とはどういうものか。これについては、マルクスのいつになく美文調の文学的表現をそのまま引用してみよう。
「すなわち、分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなった後で、諸個人の全面的な発達に伴い、かれらの生産諸力も増大し、協同組合的富のあらゆる源泉がいっそう溢れ出るほど湧き出るようになった後で、―そのとき初めて、ブルジョワ的権利の狭い限界が完全に乗り越えられ、そして社会はその旗に次のように書き記すことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」
 このような共産主義の最高段階に達すると、低次共産主義社会における等労働量交換も廃され、人々は各自の能力に応じて労働し、かつ各自の必要に応じて消費することができるようになるのである。言い換えれば、それは労働(生産)と消費(分配)とが完全に分離された社会にほかならない。
 なお、マルクスはあえて明言しないが、共産主義社会では貨幣制度(正確には商品‐貨幣交換)も廃されることが暗黙の前提とされている。
 このようなマルクスの「二段階共産主義」テーゼをいかに受け止めるべきかは、なかなか難しい問題である。実はマルクスが提唱する低次共産主義社会における「労働証明書」とはロバート・オーウェンの「労働貨幣」にヒントを得たものであるし、高次共産主義社会の標語「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」も、マルクスがパリ遊学時代に交流を持ったフランスの初期共産主義者カベーのユートピア小説『イカリア旅行記』から採られている。
 しかし、オーウェンやカベーは、つとに『共産党宣言』の中で「空想的社会主義(共産主義)」として却下されていたはずのものであった。そしてエンゲルスによれば、マルクスは唯物史観と剰余価値の「発見」を通じて「空想から科学へ」到達していたはずであった。すると、マルクスは晩年に至って、今度は「科学から空想へ」逆戻りしてしまったのであろうか━。
 また、『ドイツ・イデオロギー』では共産主義は創出されるべき一つの状態とかあるべき一つの理想ではなく、現実的な運動であると言明されていたはずであるのに、「ゴータ綱領批判」のマルクスは共産主義社会を創出されるべき状態またはあるべき理想として描き出そうとしてはいないだろうか━。
 こうした揚げ足取り的な疑問はさておくとしても、等労働量交換原理を基礎として労働証明書で消費が規律される低次共産主義社会と労働と消費とが完全に分離される高次共産主義社会とでは、単に低次・高次という程度問題を超えた基本原理の相違があり、その間には新たな社会革命を必要とするのではないだろうか━。
 また、そもそも『共産党宣言』でも提示されていた生産手段が国有化される過渡期の状態から「協同組合的な社会」である共産主義社会への移行―それは国家論としてみれば政治国家から経済国家への転換に対応する―はいかにして可能なのであろうか━。
 このように数々の疑問が浮かぶわけであるが、マルクスをして「ゴータ綱領批判」の中で付随的な形ではあれ、従来の自説に抵触しかねないような共産主義テーゼを吐露せしめたものは、ラサール主義によって弛緩させられたドイツ社労党とその綱領に対する失望と憤懣とであっただろうことは、想像に難くない。

フランス労働者党との積極的関わり
 ドイツ社労党との関わりが批判的なものであった反面、マルクスがより積極的な関わりを持ったのは故国ドイツよりもフランスの労働者政党のほうであった。
 フランスでは、先述したように、1871年にパリ・コミューンが敗北した後、コミューン関係者に対する大量処刑・投獄が行われ、革命運動は一気に再び冬の時代に入っていた。しかし、第三共和政は75年に憲法を制定した後、コミューン関係者を大赦するなど抑圧を緩和する姿勢を示したことから、フランスでも労働者政党を結成する動きが生じた。その最初の試みは、当時のフランスにおける数少ないマルクス理論の紹介者であったジュール・ゲードとマルクスの次女ラウラの夫でもあったポール・ラファルグを中心に結成されたフランス労働者党であった。
 マルクスとエンゲルスはラファルグを通じて党綱領の作成に関して相談を受けたことから、80年5月、ロンドンにマルクス、エンゲルスとラファルグ、ゲードが集まって党綱領の起草について協議したのであった。
 その際、マルクスが口述したものをゲードが筆記した綱領前文では、プロレタリアートの解放は生産手段の集団所有によってのみ可能であること、そしてそのような集団所有は一つの確固とした政党に組織されたプロレタリア階級の革命的な行動を通じてのみ立ち現れること、同時にプロレタリア階級は普通選挙への参加を通じて当面の要求を実現することも必要であることなどが明記された。
 前文に続いて、マルクスとエンゲルスの見解も反映しつつ当面の最小限要求事項を掲げる「政治綱領」と「経済綱領」とを含む綱領は、80年11月の党全国大会で一部修正のうえ採択された。
 こうして正式に発足したフランス労働者党はマルクス理論に依拠した初の近代的政党であった。しかしマルクスは間もなく、自身の理論を教条的に理解するゲードやラファルグとも関係が悪化していくのであった。この時吐露されたマルクスの有名な言明が、「もし彼らの政治がマルクス主義を代表しているなら、私自身は決してマルクス主義者ではない」であった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第23回)

2012-10-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり

マルクスと政党
 マルクスの晩年になると、ようやくヨーロッパ各国で議会制が発達してくるのに照応して近代的な政党組織・運動も活発化し始める。それに伴い、労働者階級も政党作りを模索するようになった。マルクスの故国ドイツでも1869年には中部の都市アイゼナハで社会民主労働者党(アイゼナハ派)が結成される。この党は、ラサールによって63年に結成されていたドイツ労働者総同盟から分裂してできたものであった。
 しかし、マルクスはこの党の結成にも運営にも直接関わることはなかった。それは単に彼自身は労働者でなかった、というよりなれなかった―彼は長く寄稿し、ほぼ唯一の収入源としていた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』が南北戦争渦中で南部の奴隷制諸州への妥協的姿勢を強めたことから61年、同紙への寄稿を打ち切り、翌年にはある鉄道事務所に就職しようとしたが、マルクスによれば「悪筆」が原因で不採用となった―ということ以上に、マルクスが党派的活動には相当慎重な見解を持っていたことによるであろう。
 マルクスは若き日に『共産党宣言』を高らかに発したにもかかわらず、終生自ら共産党を結成しようとはしなかったし、その種の政党に加入しようともしなかった。逆説的ではあるが、マルクスにとって「共産党」は存在しない。このことは、まさに『共産党宣言』の中でも、「共産党」という語は表題で使われているだけで、本文では複数形の「共産主義者(たち)」という語が専ら用いられていることに表れている。
 マルクスによれば、共産主義者は他の労働者党に比べて特殊な党でもなければ、特殊な原則を掲げてプロレタリア運動を型にはめようとするものでもなく、他のプロレタリア党からはただ二つの点で区別されるにすぎない。
 その一つは「プロレタリアの種々の国民的闘争において、国籍とは無関係な、プロレタリア階級全体の共通利益を強調し、貫徹する」こと(国際性)、今一つは「プロレタリア階級とブルジョワ階級の間の闘争が経過する種々の発展段階において常に運動全体の利益を代表する」こと(総代表性)である。
 このような「区別」からすれば、共産主義者の役割は「実践上は全諸国の労働者党の中で最も断固とした、常に推進的な部分」であること、「理論上はプロレタリア階級の他の集団にましてプロレタリア運動の条件、進行及び一般的結果を洞察する力量」を持つことにあるものとされる。
 従って、共産主義者マルクスにとっても、自ら共産主義政党を結成したり、それに加入したりすることよりも、諸国の労働運動を代表する国際労働運動に関わりつつ、各国労働運動を推進し、洞察する仕事のほうが優先順位が高いことになる。そのために、マルクスと労働者諸政党との関わりは間接的で、時として批判的なものとさえならざるを得なかったのである。

ドイツ社労党との批判的関わり
 マルクスの政党との関わりが最も特徴的な形で現れたのが、故国ドイツの労働者政党との関わりである。先述したように、ドイツでは1869年に社会民主労働者党が結成された後も、このアイゼナハ派とまだ優勢なラサール派の対立がしばらく続いたが、やがてラサール派の勢力が弱まった75年に両派合同の機運が生じ、改めて社会主義労働者党が結成された。
 この新党の綱領はその発祥地の名を取って「ゴータ綱領」と呼ばれたが、それはラサール派との合同という政治的成果を優先したため、まさにラサールの思想を強く反映した穏健な内容に仕上がっていた。そのため、これに目を通したマルクスは大いに不満であり、早速に批判論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」を執筆した。この論文は生前には公刊されなかったが、エンゲルスがマルクス死後の91年になって公表したものである。
 この論文はゴータ綱領の批判的分析を通して、今は亡きラサール―彼は64年、一女性をめぐって決闘死を遂げていた―の思想と対決する意義をも持っていた。
 1825年生まれでマルクスより一回り年下のラサールはベルリン大学出身の労働運動家で、やはりヘーゲル哲学に傾倒した一人であった。しかし彼の場合、マルクスとは違ってヘーゲル右派的立場から観念的歴史観に基づいて強力な国家を理想化していたため、当然にもプロレタリア革命には反対であり、ストライキなど労働者の経済闘争さえも否定したのである。
 代わって彼が提唱したのは、労働者の生活改善の手段としての国庫補助による生産協同組合という構想であった。そのため、彼は「アメとムチ」政策の鉄拳宰相ビスマルクにすら接近していく。こうしてラサールは今日ではむしろ主流を成しているとも言える保守的な右派労働運動の祖と言うべき人物でもあった。
 同時にラサールはまた、「平均的労賃は生命の維持と生殖のために一国民において習慣的に必要とされる不可欠の生計費に常に限定される」とする有名な「賃金鉄則」や、「労働者は労働の全収益を取得すべきである」とする労働収益論のような誤った、もしくはあいまいな命題を引っさげた「理論家」でもあった。
 生前のラサールはマルクスとも交流し、あの『政治経済学批判』の公刊に際しては出版社探しの労を取ってくれた「恩人」でもあったから、マルクスもラサール生前には彼を公然批判することを避けていたふしもあるが、ラサール死して十余年、なおドイツ労働界に残るラサールの影響を除去することは、まさに諸国の労働運動の中で最も断固たる推進的部分にして、他のプロレタリア集団にもまして強力な洞察力を持つべき共産主義者としての自らの使命と認識したことが、「全く唾棄すべき、また党の士気を阻喪させる綱領」(マルクス)に対する徹底批判の動機となったものであろう。

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