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近代科学の政治経済史(連載第15回)

2022-07-30 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

機械工学とサービス資本
 機械工学はおよそ機械であればあらゆる種類のものに及ぶ極めて広汎な学術であるが、18世紀産業革命との関わりでは、交通機関、中でも船舶や鉄道の分野でも飛躍的な進歩を促した。これもまた蒸気機関の開発・改良と直結している。
 ただし、蒸気船や蒸気機関車という新たな交通手段の登場自体はおおむね19世紀初頭以降にかかるので、これは18世紀産業革命の仕上げ段階のことであるが、18世紀における蒸気機関の開発・改良なくしては次の世紀の交通革命もなかったことは確かである。
 先行したのは、古代から存在した伝統的長距離輸送手段である船舶の革新、すなわち蒸気船の発明である。これは米国人の発明家ロバート・フルトンの功績であるが、当初画家志望だったフルトンが発明家に転じたのも18世紀後半の渡英経験がきっかけであったので、彼も英国産業革命の申し子の一人である。
 フルトンが開発した最初の実用的な蒸気船は外輪を使用するタイプのもので、河川航行にほぼ特化した船舶であったが、後に同じ米国人発明家ジョン・スティーブンスが外洋航行可能な本格的な蒸気船の開発に成功した。ただし、まだ伝統的な帆船も高速改良されたうえで併存したが、いずれ蒸気船に取って代わる運命であった。
 他方、陸の交通手段としての蒸気機関車の発明は1804年、英国人機械技術者リチャード・トレビシックによるが、これは実用性のない試作品であり、実用的な蒸気機関車の開発は同じ英国人機械技術者ジョージとロバートのスティーブンソン父子による。
 こうして蒸気機関車の発祥地となった英国では、1830年代以降に鉄道網の整備が大きく進展し、世界最初の鉄道大国となるが、このことが高速での長距離物流を可能にし、先行の工業資本の飛躍に寄与したことは当然である。
 そればかりでなく、蒸気船の開発と合わせ、新しい交通手段の開発は運輸という無形サービスを定型的に提供するサービス資本という近代的な資本の形態を誕生させた。鉄道企業や水運(海運)企業がその先駆けである。
 それはまた、鉄道発展期の英国で亡命生活を送ったマルクスが『資本論』で当時の鉄道会社の過酷な労働条件を特記しているように(拙稿)、有形的な製品を生産する工場労働とも異なり、時間に直接拘束される無形的剰余労働の形態をも産み出したのである。

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近代科学の政治経済史(連載第14回)

2022-07-29 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

機械工学と工業資本
 産業学術としての基盤とも言えるのが工学であるが、現代まで永続的な成果を保っているのが、機械工学である。機械工学は主に物理学を応用して機械の設計から製造、運用に至る技術を研究する学術であり、あらゆる産業分野で何らかの機械工学が適用されている。
 18世紀産業革命では、発明家によって種々の画期的機械が考案され、まさに革命的な変化を促したのであるが、それまでの職人技に支えられていた家内工業を解体して、労働力を集約した工場で特定の製品を大量生産するという現代では常識となった生産様式が現れ、工業資本が台頭したのも、機械工学の成果である。
 中でも織機・紡績機と動力機械の発明は、両者あいまって生産様式を激変させる効果を持った。織機・紡績機に関しては、以前に見た特許紛争で悪名高いアークライトの水力紡績機が画期的であった。
 これにより紡績工場で多数の工員を雇い、綿糸を大量生産することを可能としたが、同時に熟練した機織り職人を必要とせず、未熟練労働者を安く使った集約的工場制度を作り出したという点では、まさに「女工哀史」の世界をもたらした原点でもある。
 しかし、水力紡績機は水力を用いるという点では生産速度に問題を残す旧式の機械であったが、蒸気機関の発明に伴い、蒸気を動力とするカートライトの力職機が出ると、生産速度が飛躍的に伸び、生産効率の向上、ひいては生産余剰を生み、資本主義の本質である剰余価値の形成・増大を後押しした。
 その意味で、動力機械の開発は工業資本の形成の下支え的な意義を持った。最初の実用的動力機械は、産業革命前の発明家であるトマス・ニューコメンの蒸気機関であったが、これは効率が悪く、ワットが熱交換機能を持つ復水器を開発したことで、エネルギー効率が向上するとともに、水力に依存しないため、工場は水源から離れていてもよく、立地条件も拡大した。
 蒸気機関はまた、当時最も有力な燃料であった石炭の需要を増大させ、炭鉱開発を促進したが、排水ポンプに蒸気機関を応用することで炭鉱の排水効率が向上したことは石炭の増産を促すというように、経済的にも技術的にも鉱業資本の発達に寄与している。

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近代革命の社会力学(連載第466回)

2022-07-27 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(6)リビア革命

〈6‐4〉ガダーフィ惨殺と国家の分解
 ガダーフィは2011年8月下旬に「戦略的行動」として首都トリポリから逃亡した後、出身地である中部の都市スルトに向かい、支持者を束ねて反転攻勢に出る意図を持っていると見られたため、首都を制圧した評議会軍もスルトへ戦力を投入しつつ、懸賞金をかけてガダーフィの所在探索を行った。
 その結果、10月下旬には評議会軍がスルトの制圧に成功し、市内の排水管内に潜伏していたガダーフィも拘束され、その場で殺害された。公式発表では銃撃戦の末の死亡とされたが、公開された映像には民兵による拷問の様子も写されており、国際法違反と非難された。
 控えめに言っても形式的な裁判さえ経ない超法規的処刑であり、実態は報復殺人に近い惨殺であった。このような前近代的処置は革命に重大な汚点を残し、革命の行く末を暗示させるものであった。いずれにせよ、「アラブの春」全体の中で、打倒された為政者が革命派によって殺害されたのは、革命後に別の事情から殺害されたイエメンのサーレハを除けば、唯一の事例である。
 こうして、体制崩壊に続き、体制の主が殺害されたことで、リビア革命は完了したが、評議会は元来、単一の組織ではなく、反ガダーフィを旗印とする諸部族勢力の当座の連合に近いものであったから、ガダーフィ排除の目的を達すると、たちまちに分裂をきたした。
 分裂の最大の対立軸は部族対立である。ガダーフィ時代はいかなる公職も持たない独裁者の強権をもって部族対立は封印されていたが、その重しが消滅した今、部族対立が息を吹き返してきた。対立を止揚するため、評議会とは別に、宗教指導者や知識人を主体とする社会調停機関として「国民和解のための調停委員会」が創設されたが、充分な効果は上げられなかった。
 さらに、ガダーフィ時代は絶対的体制イデオロギーであったジャマヒリーヤ理論が放棄されると、世俗派とイスラーム派という中東に共通のイデオロギー対立軸が浮上してきた。この対立は、2012年に、リビア独立年の1951年以来、およそ60年ぶりとなる民主的な総選挙で世俗派が第一党となったことで、かえって助長された。
 2014年の正式な議会選挙でも改めて世俗派が圧勝し、全体的な民意の世俗派支持は明らかであったが、この結果に不服のイスラーム勢力は武装蜂起し、首都トリポリを制圧した。このクーデターの結果、世俗派議会・政府は首都から退避し、東部の都市トブルクに移転した。
 こうして、トリポリ拠点のイスラーム派・国民合意政権とトブルク拠点の世俗派・代議院政権とが並立、さらに歴史的に独立志向の強い東部キレナイカには事実上の地方政権が樹立されるなど、リビアは完全に分解を来たしたのであった。こうした革命後の国家分解は氏族対立の激しいソマリアの革命―旧イタリア植民地という点でも共通項がある―と酷似した展開となった。
 こうしたイスラーム圏での国家分解に伴う事象として、リビアにもイスラーム過激派が浸透し活動するなど、無政府状態は助長されていく。その後、国連の仲介を得た国家再統一への努力が続けられ、2021年にようやく統一政府の発足に漕ぎ着けるが、その間の展開は本項の論外となるため、言及しない。

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近代革命の社会力学(連載第465回)

2022-07-26 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(6)リビア革命

〈6‐3〉民衆蜂起から内戦・干渉戦へ
 ガダーフィ時代のリビアでは、最大で国民の20パーセントが保安機関の要員もしくは協力者と推定されたほどの徹底した相互監視システムが敷かれていたにもかかわらず、リビアに連続革命が波及するのにさほど時間を要しなかった。
 2011年にはアフリカ大陸最長の42年に及んでいた抑圧的な長期体制に対する国民の不満と怨嗟は、そうした稠密な社会統制システムを作動させないほどに鬱積していたということを示している。
 リビアで民衆蜂起の最初の狼煙が上がったのは、2011年2月15日(以下、日付は2011年)、東部ベンガジにおいてであった。ベンガジは近代リビアが成立する以前の三つの自治地域の一つキレナイカの「首都」であり、元来、独立志向が強いうえに、ガダーフィの属する部族とは別の部族が割拠するところで、ガダーフィ体制のアキレス腱とも言える場所であった。
 ベンガジ蜂起の契機は政治犯釈放要求にあったため、当局は要求に応じて譲歩しつつ、抗議デモに対しては治安部隊を動員して弾圧する両面作戦を展開した。しかし、これは裏目となり、2月21日には首都トリポリにも抗議デモが波及したが、政権はこれに対しても徹底した武力鎮圧で臨んだ。
 弾圧による死傷者が増加し、国際的な批判も高まると、政権の司法書記(法相)ムスタファー・ムハンマド・アブドゥルジャリールが政権を離脱したうえ、2月27日にベンガジにて国民暫定評議会(以下、評議会)を組織した。
 これはガダーフィ体制崩壊を見越して、臨時の革命政権として機能することを目指した組織であり、設立時点では未然革命における並行権力の関係にあったが、この時点ですでに東部地域は反体制派によって制圧されており、さらに首都トリポリを除く他地域でも反体制派が蜂起し、政権の支配が及ばなくなっていた。
 これほど短期間で体制が崩壊危機に瀕したのは、近代リビアが元来、三地域の合同として成立し、多部族割拠の伝統を残す不安定な構造を持っていたことに加え、ガダーフィ自身、軍の出身でありながらクーデターや反乱を恐れて軍の強化を行わなかったためであった。
 3月に入ると、評議会のもとに反ガダーフィ派が結集し、首都進撃を窺う段階に至り、革命の成功は時間の問題かと思われたが、評議会側の軍はおおむね部族単位での民兵組織の寄せ集めであり、統一的な作戦遂行能力に限界がある一方、追い詰められたガダーフィ側も出身部族の忠実な精鋭部隊をまとめ、反攻の機を窺う状況にあった。
 こうして膠着状態に陥り、事実上の内戦状態となる中、西側諸国がガダーフィ追い落としのため、干渉の手を伸ばす。特にいち早く評議会を承認していたフランスが音頭を取り、3月17日に国連安保理でリビア攻撃を認める決議が採択されたことを受け、米英も加わった多国籍軍によるリビア空爆作戦が開始された。
 しかし、こうした西側の干渉も十分な効果を上げず、多国籍軍内部でも足並みが乱れる中、交渉を模索する動きもあったが不調に終わり、最終的には評議会軍によるトリポリ進撃作戦が決め手となった。
 欧米の特殊部隊や民間軍務会社の支援も囁かれた軍事作戦は8月下旬から本格化し、同月24日までに降伏したガダーフィの子息らを拘束したが、ガダーフィ本人は取り逃がした。しかし、ガダーフィは「戦略的行動」と称して首都から逃亡しており、同月末には評議会側のトリポリ制圧は完了した。
 こうして、42年に及んだガダーフィ体制は内戦・干渉戦の末に崩壊したが、これは革命の成功の始まりではなく、失敗の始まりとなる。この後、10月のガダーフィの拘束・惨殺をはさみ、リビアは国家の分解へと向かうからである。

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近代革命の社会力学(連載第464回)

2022-07-25 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(6)リビア革命

〈6‐1〉「無職者」独裁体制の特異性
 チュニジア革命を端緒とする連続民衆革命は、エジプトからいったんアラビア半島のイエメンに飛び火した後、再び北アフリカに戻って、リビアで革命を惹起した。
 1969年の社会主義革命以後のリビアは、革命指導者であったムアンマル・ガダーフィ(カダフィ)の独異的な政治理論にのっとり、標榜上はジャマヒリーヤ(人民共同体)を基本とする直接民主主義政体であるとされていた(拙稿)。しかし、この政体の実態はその理論とは乖離したガダーフィの個人崇拝的独裁政にほかならなかった。
 ガダーフィは革命10周年の1979年には一切の公職を退き、名誉称号としての「革命指導者」を冠するのみで、30歳代にして表向き「引退」したが、これはまさに表向きのことで、その後も2011年の革命まで彼が事実上の独裁者であることは公然の秘密であった。
 2011年革命前のリビアは、何らの公職にも就かない「無職者」が一国を直接に独裁支配する〝直接独裁主義〟とも言うべき世界にも類例を見ない特異な体制が30年以上にわたり継続するという状況にあった。
 しかし、そうした特異な体制下にあっても、豊富な石油収益に支えられ、教育や福祉の制度が整備され、革命前年の2010年のリビアは国際連合が用いる人間開発指数においてアフリカ諸国で最も高い水準にあり、相対的な豊かさと安定を享受していたことも事実である。
 とはいえ、石油収入に依存した経済構造のゆえに、失業率は高く、低所得層も多い中、国内企業の多くをガダーフィ一族が所有・支配しており、「無職」であるはずのガダーフィ本人も内外に巨額資産を蓄積し、豪奢な生活を享受するなど、他のアフリカ諸国でも見られた国庫私物化の窃盗政治の兆候が色濃く表れていた。
 一方、独裁体制下の人権状況は最悪レベルで、恒常的な検閲・報道統制と秘密警察による社会監視に加え、反体制派に対する公開処刑など前近代的な蹂躙も見られた。

〈6‐2〉政治経済「改革」とその挫折
 こうして、1969年革命以来、アフリカでも最長の40年に及ぶ長期体制が続く中、安定の中にも閉塞感が見え始めると、革命40周年を前にした2008年、ガダーフィは石油収益の国民への直接的分配を標榜する大胆な政治経済改革に乗り出した。
 これは経済的な面における「直接民主主義」の導入とも言える新提案であったが、その障害となる官僚的行政機構の解体、すなわち国防と保安、社会戦略事業を実施する官庁を除き全政府機関を廃止するという大胆な提案にまで踏み込んだ。
 これはある種のアナーキズムの提案であり、持論であるジャマヒリーヤ理論の集大成を試みたものとも言えるが、ガダーフィ自身やその一族の利権には切り込まない「改革」であり、それはむしろ体制維持のための民衆慰撫策とも取れるものであった。
 この新提案に対し、議決機関である基礎人民会議はほぼ否定的で、2009年の投票で大半が改革の実施を遅らせるべきことを決議した。その理由として、「改革」の実施により深刻なインフレーションや資本逃避が発生する恐れありという技術的な理由が挙げられていたが、実際は官僚機構側からの拒絶反応であった。
 ともあれ、事実上の個人崇拝独裁体制にあって形骸化していた人民会議がガダーフィに逆らうのは異例であり、「改革」の挫折は、革命二年前に当たるこの時点でガダーフィの威信が揺らぎ始めていたことを示す兆候とも言えた。

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比較:影の警察国家(連載第64回)

2022-07-24 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐2‐2:出入国在留管理庁の準警察化

 出入国在留管理庁(以下、在管庁)は、2019年に、法務省入国管理局を独立させて法務省外局として再編した官庁であり、その主任務は名称通り、出入国在留管理にある。公式英語名称をImmigration Services Agency(移民庁)としているが、実態は日本語名称通り、出入国管理にも権限が及ぶ。
 その点では、アメリカの合衆国税関・入国警備庁と合衆国移民・関税執行庁の二つの機関の権限のうち、税関係を除いた部分を併せ持つスーパー法執行機関である。
 長く法務省内部部局であったものをあえて独立させた経緯として、近年、日本の労働人口の減少に伴い、外国人労働者の受け入れが拡大されてきたことに鑑み、在留外国人管理を強化する目的がある。
 そのため、機関名として出入国管理に在留管理が付加されたことは偶然ではなく、むしろこうした在留外国人管理、すなわち在留外国人の監視、とりわけいわゆる不法滞在外国人の摘発強化に重点が置かれている。
 その点、主に合法滞在外国人の動静を政治的な観点から監視する公安警察の一部としての外事警察とは任務の重点が異なるが、相乗的な部分もあり、在管庁の新設は、広い意味での外事警察の拡大を意味している。
 ここには、外国人の受け入れはあくまでも労働力の補充にすぎず、真の意味で移民を認める開放的な多様性政策を志向するのではなく、むしろ治安維持の観点から外国人管理を強化しようとする警察国家的視点がにじみ出ている。
 もっとも、在管庁は強制捜査権を持つ法執行機関ではないから、法的な意味での警察機関ではなく、機能的な警察機関である。ただし、在管庁に所属する入国警備官は警察官に近い階級を持ち、国家公務員法上は「警察職員」の扱いを受けるので、在管庁は準警察機関と言っても差し支えない実態を持つ。
 その一方で、在管庁は不法滞在者を収容する入国者収容所も所管しており、ある種の監獄の運営にも当たるが、ここでは旧入国管理局の時代から被収容者の不当な長期収容、虐待や放置による死傷事案が絶えず、人権上重大な問題が存在している。これは、日本における影の警察国家を象徴する部分の一つである。

1‐2‐3:法務省矯正局と「刑務警察」

 法務省系の警察組織としては、これまでに見た公安調査庁、出入国在留管理庁に加え、法務省矯正局がある。その点で、日本の法務省はその名称どおりの単なる法制官庁ではなく、治安官庁の性格を併せ持つ。
 矯正局は全国の刑務所や少年刑務所、拘置所といった刑事施設の管理に当たる法務省内部部局であるが、ここに所属する通称刑務官(看守)は刑事施設内限定で強制捜査権を持つ特別司法警察職員の資格が与えられる。そのため、矯正局は「刑務警察」としての機能を持つが、日本の刑務官はフランスの行刑看守要員団のような形で包括的な集団化はされていない。
 ただし、2019年には、刑務所や拘置所、少年院などの矯正施設において、暴動、逃走、災害等の緊急の対応が必要となる「非常事態」が発生した場合に、迅速かつ的確に対処するための警備部隊として、矯正局長直轄の特別機動警備隊が東京拘置所に常設された。
 矯正局が矯正庁のような形で外局化されるかどうかは微妙であるが、少年法改定を含めた厳罰化政策の進展により刑務所人口が増大していけば、刑事施設の管理強化のため外局化される可能性もあろう。

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国葬考

2022-07-23 | 時評

政府が安倍元首相の「国葬」を打ち出したことで、その是非をめぐる論争が激しくなっている。しかし、安倍氏が国葬に値するかどうかを議論しても不毛である。支持者にとって安倍氏は最後に国葬に付された吉田茂に匹敵する偉人なのであろうし、反対者にとっては安倍こそ日本社会を引き裂いた元凶とされているからである。そうした人物観の対立がそのまま論争に投影されているにすぎない。

国葬そのものは世界の多くの国で元首や元首級の人物あるいは国民的英雄のような私人に対してすら行われることもある代表的な国家儀礼であるから、安倍国葬も海外では奇異とは思われないだろう。

とはいえ、国葬という古めかしい制度が55年ぶりに持ち出されてきたことで、当惑と反発が広がっているのだろう。たしかに、吉田国葬を最後に一例も国葬が存在しない以上、慣例として確立されておらず、むしろ総理大臣経験者でも国葬には付さない慣例を破って、なぜ国葬を復活させるかの説明を政府において尽くす必要はある。

また、国葬が弔意の強制とならないためにも、学校その他の社会団体に対して、国葬当日に弔意を表明するよう政府が公式にも非公式にも指示・要請するようなことはないということを確約する必要がある。

日本でもかつて国葬は国葬令に基づくれっきとした国家儀礼であったが、戦後の1947年に廃止されている。その理由は定かでないが、戦後憲法の政教分離原則との抵触が考慮されたらしい。もっとも、国葬を無宗教で執行するなら憲法違反とならない可能性もあり、決定的理由とも言えない。

そもそも国葬とは「国家的功績」が認められた特定の国民を国家の費用により葬儀に付する特権的な葬礼であり、法の下の平等の精神にもとる古色蒼然たる制度である。それは元来、〝崩御〟した君主を送る葬礼が君主以外にも拡大されたもので、法の下の平等を基調とする現代には相応しくない風習と言える。

とはいえ、為政者のような公人の場合、親族が主宰する私的な葬儀とは別に、公的な葬儀を営むことはあってもよいだろう。安倍氏にもそうした「公葬」を執り行うことにまで反対する人はそう多くないだろう。

もし、安倍氏に「公葬」を執り行うとすれば、何と言っても長く総裁を務めた自由民主党に、一貫した連立相手の公明党、そして今や裏与党と言ってもよい与党浸透団体・日本会議の三者による合同葬が最もふさわしい(取り沙汰されている統一教会改名団体も、ゆかりがあるなら名を連ねてはいかがだろう)。

それにしても、国葬が持ち出されたうえは、その続編として、霊廟や神社の建立提案もあり得るのではないかとさえ、冗談抜きで想定したくなるような空気である。それについて容喙するつもりはないが、「安倍霊廟/神社」の建立はもはや政府でなく、支持者有志の手と金で行わなければならない。あるいは、かねてより改憲派が敵視する政教分離原則を廃棄した改憲後に政府が行うか、である。

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近代革命の社会力学(連載第463回)

2022-07-22 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(5)イエメン革命

〈5‐2〉緩慢な革命過程
 2011年のイエメン革命も、エジプトと同様、チュニジア革命からの直接的な波及事象とみなしてよいものである。こうした自然発生的な民衆革命の常として、どの時点を革命の開始時とみなすかは難しいが、イエメンでは2011年1月18日の首都サナア大学の学生によるデモが端緒と見られる。
 しかし、その後の展開はチュニジアとエジプトとは異なり、収束するまでに一年以上を要する緩慢な経過を辿った。そのような展開となった要因として、サーレハ大統領の政権固執意思が強固であったことに加え、南部の再分離運動や部族対立が複合的に絡み、国家の分裂危機が生じたためである。
 当初、サーレハは2011年2月の段階で2013年の次期大統領選に立候補せず引退することを公約して慰撫を図ったが、これはエジプト革命時にムバーラク大統領が見せたのと同様の延命策であり、こうした術策に対してはエジプトと同様、即時辞職を求める民衆が反発し、かえってデモは拡大した。
 ここまでの展開はエジプトと同様であるが、イエメンでは南部で南イエメンの再分離を求める運動が立ち上がり、南部の最大都市アデンでも反体制デモが誘発され、北部のデモと共振する形でデモが全土に拡大された。
 これに対し、サーレハ側は即時辞職は拒否しつつ、年内の辞職を表明し、譲歩を見せたが、民衆は承服せず、治安部隊との衝突による死傷者が増加した。ここで湾岸協力会議が仲介役として登場するも交渉は進捗せず、調停は失敗したため、主要国首脳会議が介入し、大統領の早期退任と平和的政権移行を声明する国際的関心事にまで至った。
 それでも政権に固執するサーレハの意思は変わらない中、反政府側ではイエメン伝統の部族対立も絡み、2011年6月には大統領府が反政府系部族勢力の武力攻撃を受けて、サーレハ大統領が負傷する事態となったことも、革命過程を一層複雑化した。
 こうして内戦の様相を帯びる中、ここで再び、湾岸協力会議が調停に乗り出し、大統領権限の移譲や訴追免除、年内の退任、挙国一致政府の形成などを盛り込んだ調停案が成立し、ようやく収束に向かった。
 この調停案に基づき、明けて2012年2月に実施された大統領選挙では旧南イエメン軍出身のハーディ副大統領が単一の候補として立候補、当選した。ハーディは南イエメン出身とはいえ、サーレハ政権の内部者であり、革命としては不完全であったが、これによりひとまず革命は収束した。

〈5‐3〉南北再分裂と持続的内戦への転化
 ハーディ政権の発足は、しかし、革命の成功には程遠い新展開を招いた。南部出身のハーディ政権には北部の伝統的なシーア派が反発していたところへ、復権の野望を持つサーレハがシーア派の有力武装勢力アンサール・アッラー(通称フーシ派)と連携したこと―2017年に絶縁した直後、暗殺―が、新展開の動因となる。
 アンサール・アッラーは元来、2004年にサーレハ政権から指導者の殺害を含む大規模な弾圧を受けて以来、軍事化傾向を強め、反サーレハの立場で革命にも一役買ったが、湾岸協力会議やアメリカを後ろ盾とするハーディ新政権とは対立関係に陥り、2014年9月に首都サナアに進軍、翌1月にはハーディ大統領を辞任表明に追い込み、2月に政権を掌握した。
 アンサール・アッラーはイマームの神権統治を理想とするが、当面は最高革命委員会(2016年以降、最高政治評議会)を指導機関とする暫定政権を発足させた。これは半イスラーム革命とも言える事象であり、背後にはシーア派枢軸のイランの支援があると見られている。
 こうした「フーシ革命」に対して、2015年3月以降、ハーディ政権を支持するサウジアラビアを中心とするスンナ派諸国の有志連合が空爆作戦でフーシ政権の殲滅を開始し、内戦が本格化するとともに、民間人の犠牲者も増大していった。
 その後、2015年7月、復権を目指すハーディ派が暫定首都とする南部の中心都市アデンを奪還し―2018年以降、アデンはハーディ派を離脱した南部分離独立派が占領―、北部をフーシ政権が実効支配する状況となった。
 結果として、再びイエメンは南北分裂に陥った。現時点でも大量の国内難民が飢餓に直面する凄惨な内戦が持続するが、サウジアラビアやアラブ首長国連邦、イランなど周辺諸国の利害も絡み、解決の糸口は見えない状況である。その点で、イエメン革命は「アラブの春」の最も無残な失敗例となった。

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近代革命の社会力学(連載第462回)

2022-07-21 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(5)イエメン革命

〈5‐1〉統一イエメンと選挙制独裁
 イエメンは1990年の統一以前は北イエメンと南イエメンとに分かれていたが、両体制の分断は同時代の東西ドイツや南北朝鮮のような冷戦時代の明瞭なイデオロギー対立ではなく、アラブ社会主義(北)とマルクス‐レーニン主義(南)という社会主義内部の対立関係を反映しているにすぎず、共に親ソ連派であった。
 そうしたことから、南イエメンが支配政党内の権力闘争に起因する内戦を契機に崩壊危機に瀕すると(拙稿)、北イエメンが主導する形で、以前から模索されていながら双方の反対勢力による妨害のため実現していなかった南北統一のプロセスが急速に進んだ。
 このプロセスを導いたのが、1978年以来北イエメン大統領の座にあったアリー・アブドッラー・サーレハであった。彼は70年末の北イエメンの政治混乱を収拾し(拙稿)、出自の軍部を権力基盤としつつ、翼賛政党・人民総会議を通じた全体主義的な独裁体制を敷いていた。
 統一のプロセス自体は平和的に履行されたものの、当初は統一イエメン大統領にサーレハが横滑りし、副大統領に旧南イエメンの最高実力者であったアリー・サーリム・アル‐ベイド社会党書記長が就くという形で、南北の力関係を反映した体制となった。
 この非対称な関係性は、南部に分布する油田の利権も絡み、1994年に旧南イエメン派による武装蜂起と内戦を招いたが、サーレハ政権はこれを鎮圧し、再度の分断危機を乗り切った。前年の総選挙でも、統一後引き続きサーレハの翼賛政党であった人民総会議が圧勝しており、統一イエメンのサーレハ支配体制は固まった。
 この後、サーレハは統一後初となる直接選挙による1999年大統領選で圧勝、続く2006年大統領選でも勝利した。サーレハの体制は他のアラブ諸国とは異なり、選挙に基づく独裁体制(選挙制独裁)という21世紀に増加した新しいタイプの独裁体制であり、いちおう「民意」に支えられているため、その権力は強固に見えた。
 しかし、イエメンは産油量が周辺諸国に比べ圧倒的に少なく、石油収益に依存した経済発展が見込めないことや、未だ封建的な部族社会の慣習が残存していることもあり、アラブ世界でも最貧レベルの生活水準は容易に改善されなかった。
 そうしたところへ、サーレハが自身の名を冠した巨大モスクの建造などの個人崇拝に走ったり、大統領任期の延長による事実上の終身大統領制への道を画策していたこと、子息を軍精鋭の共和国防衛隊司令官に登用し、権力世襲の構えも見せていたことなどが、国民の間に来る革命へのマグマとなる反感を醸成していった。

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近代革命の社会力学(連載第461回)

2022-07-19 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(4)エジプト革命

〈4‐2〉チュニジア民衆革命の波及
 2011年エジプト革命は、近隣での革命が直接に波及してくる連続革命の典型的な事例であった。エジプトのムバーラク政権も軍人出自大統領の権威主義的な長期体制であって、チュニジアのベン・アリ政権との共通点が少なくなかったことも、革命の波及を助長しただろう。
 実際、エジプトでも、チュニジアのベン・アリ政権が崩壊した1月14日以降、抗議行動が始まり、チュ二ジア革命の端緒と同様に抗議の焼身自殺が相次ぐなど、類似の情勢が発現するが、野党の対抗力はチュニジア同様弱かったため、当初は2008年に結成された4月6日運動のような青年運動が主導した。
 これに対するムバーラク政権は、青年運動が駆使するインターネット通信の遮断や集会禁止措置などの強硬策で応じたが、1月25日の大規模なデモを阻止することはできなかった。29日にはムバーラクがテレビ演説で全閣僚の解任や経済改革の約束とともに、9月に予定される大統領選挙への立候補を取りやめることを公約したが、当面の辞職は拒否した。
 こうした政権居座りに反発した民衆は2月以降、さらに抗議行動を継続するが、老獪なムバーラクも元来弱体な野党を取り込み、与野党共同の憲法改正協議機関の設置を約束するなど、時間稼ぎをして抗議行動の懐柔を図っていた。
 こうした政権の巧妙な延命策のため、エジプトでの革命の経緯は、チュニジアとは相当異なるものとなった。大統領の退陣拒否の姿勢は強かったが、2月11日に全国で最大規模の100万人が参加するデモが発生すると、ついに辞職し、軍に全権を移譲する旨を副大統領を通じて発表した。

〈4‐3〉軍の政権掌握から民政移管まで
 こうして、ムバーラクは大統領を辞職したものの、国内にはとどまっており、ムバーラク政権の権力基盤でもあった軍に政権を移譲したことは、海外亡命・刑事訴追に追い込まれたチュニジアのベン・アリの二の舞を避けるためのムバーラクの巧妙な自衛策とも言え、革命としては失敗の部類のはずであった。
 ところが、民衆の間では大統領の辞職をもって「革命の成功」ととらえる認識が強く、2月18日には「革命勝利集会」が開催された。しかし、政権を掌握した軍最高評議会は憲法の停止と議会の解散を宣言し、半年以内の憲法改正国民投票と新憲法下での大統領及び議会の各選挙が実施されるまで評議会が政権を保持するとして、軍事政権を正当化した。
 とはいえ、軍事政権は政治犯の釈放や非合法野党の合法化を進め、3月には大統領任期の縮小を軸とする憲法修正案を国民投票で可決させるなど、最小限度の改革には踏み込んだ。しかし、治安情勢などを理由に民政移管が遅滞することに対し、民政移管要求デモが相次いだ。
 結局、明けて2012年1月にようやく議会選挙が実施され、イスラーム主義の新党・自由公正党が第一党に躍進する結果となるとともに、大統領選挙では6月の決選投票で同じく自由公正党のムハンマド・ムルシーが当選した。
 こうして、2011年エジプト革命は、軍政をはさんでイスラーム主義政権の成立というエジプト現代史上の転換点を迎えることとなった。ある意味では革命的結末とも言えるが、1952年共和革命以来、政治的な影響力を保つ世俗主義的な軍部と世俗主義勢力にとっては苦い事態であったことが、間もなく軍事クーデターによる反転の伏線となる。

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近代革命の社会力学(連載第460回)

2022-07-18 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(4)エジプト革命

〈4‐1〉ムバーラク体制の安定と閉塞
 エジプトでは、1981年10月にサーダート大統領が閲兵中、イスラーム主義者の兵士によって暗殺された後、副大統領だったホスニ・ムバーラクが大統領に昇格し、速やかにサーダート政権を継承した。
 ムバラクは、世代的にはナーセルやサーダートに次ぐ革命第二世代に当たり、1952年共和革命時にはまだ若手の空軍士官に過ぎなかったが、ナーセル政権末期に若くして空軍参謀総長に就任、1973年第四次中東戦争では空軍総司令官として勝利を導く立役者となり、翌年、副大統領に抜擢された。
 こうした経歴からも、ムバーラクはサーダート子飼いであり、その路線を継承することは予定されていたと言えるが、サーダート暗殺がイスラーム過激者組織に所属する兵士によって実行されたことに鑑み、大統領就任直後から非常事態宣言を発動し、これを解除せず常態化することで、政治的な抑圧体制を強化した。
 その間、形式上は複数政党制によりながらも、サーダート時代に翼賛政党として結成された国民民主党が常に絶対多数を獲得しつつ、大統領選挙は議会によって単独の大統領候補に指名されたムバーラクへの信任投票に矮小化する非民主的な方式で多選を重ね、エジプト現代史上最長期政権を継続した。
 このような技術的に仕組まれた政治的安定のもと、外交上は親西側路線を基調に、イスラエルは引き続き承認しつつも距離を置くバランス策で、国内の反イスラエル派に譲歩するという巧みな政策を展開した。
 経済的には、サーダート政権下で開始されていた経済自由化政策を推進し、外貨導入による経済成長にも成功していたが、そうした中東版新自由主義政策は必然の結果として経済的な格差拡大を招くとともに、長期政権下でムバーラクとその親族・取り巻きの不正蓄財や汚職を亢進させていった。
 革命勃発時の2011年には31年目に入っていたムバーラク体制は安定しながらも、政治的抑圧と経済的不平等が亢進した閉塞状況に陥っていたうえに、80歳を越えたムバーラクの健康不安も重なり、揺らぎも見え始めていた。

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近代科学の政治経済史(連載第13回)

2022-07-17 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

産業学術としての工学
 産業革命を促進した発明はアカデミズムではなく、職人階級出自の発明家たちの経験的な実学的知見に発したものであったが、一方で、各種産業技術の理論的な基礎を成す実践科学としての工学が勃興してきたのもまた、産業革命渦中の英国においてであった。
 そうした産業学術としての工学の草分けと言えるのが、ジョン・スミートンである。もっとも、スミートンも初めからアカデミズムに身を置いたわけではなく、元は科学的な測定器具や航海器具の発明からキャリアをスタートさせており、発明家と言える人物である。
 しかし、スミートンは他の発明家のように起業して資本家となる道は行かず、理論家となった。彼が創始した学術はcivil engineeringと呼ばれるが、これは日本語では「土木工学」が定訳となっている。
 しかし、スミートンがcivil engineerという新語を創案した際に念頭に置いていたのは、軍の工兵(military engineer)との対比であったから、civil engineerは土木技術者に限らず、非軍事的な民生分野の技術者全般であり、その名詞形であるcivil engineeringも本来は「民生工学」と訳すべきものであったろう。
 従って、スミートンの専門分野は土木工学に限らず、各種の機械工学にも及んでいたのであるが、重要なことは、彼が1753年に王立協会フェローに選出されたことである。王立協会はニュートン会長時代以来、理論科学に偏っていたが、スミートンを受け入れたことで、実用科学としての工学もアカデミズムから認知されたのであった。
 また、スミートン自身、1771年に民生技術者協会(Society of Civil Engineers)を結成、この組織は彼の死後、1818年に民生工学会(Institution of Civil Engineers)と改称し、工学分野の学会として今日まで存続している。
 こうした専門学会組織の誕生は、工学が単なる経験のみの実学にとどまらず、実用的な学術として社会的に認知され、発展する社会的基盤を与えられたことを意味している。
 スミートン自身、工学者として、理論のみならず技術者としても橋や水路などの土木開発、揚水機や水車、風車の開発、さらには法廷での専門家証人など、産業学術としての実践的な工学の発展に大きな足跡を残している。
 また、同時代には、産業革命の中心地の一つでもあったバーミンガムで、多分野の科学者や資本家らが集まって情報交換をし合うルナー・ソサエティ(月光協会)なる非公式のサロン風会合がもたれ、スミートンも貢献しているが、これは最も初期の産学連携の形態とも言える。

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近代革命の社会力学(連載第459回)

2022-07-15 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(3)チュニジア革命

〈3‐2〉民衆革命への急転
 1987年の政変で権力を掌握したベン・アリは前任者同様の長期政権を維持していたが、野党は断片化され、対抗力を持たなかった。その間、政権と最も対決したのは人権活動家で革命後に暫定大統領となるモンセフ・マルズーキであったが、彼が2001年に結成した新党・共和国のための会議は翌年活動禁止となり、マルズーキもフランス亡命を余儀なくされた。
 こうして、ベン・アリ政権には隙がないかに見える中、政権が24年目に入る2010年末に民衆革命が突発する。民衆蜂起を端緒とする民衆革命は、巷での些細な事件が導火線となることが少なくないが、2010年チュニジア革命はその代表例となった。
 その端緒は2010年12月、中部の地方都市で青果露天商の青年が無許可で路上販売したとして、商品と商売道具の秤を没収されたうえに、秤の返還を求めると担当者から公然賄賂を要求されたことに抗議して、焼身自殺を図った事件であった。
 この事件が現場の動画とともにインターネットを通じて拡散したうえ、青年が治療の甲斐なく年初に死亡すると、事件に抗議するデモが中部都市を中心に自然発生し、1月中旬以降は、それまで比較的平穏だった首都チュニスにも抗議行動が拡大、暴動を含む騒乱状態となった。
 これに対し、政権側は治安部隊を投入して武力鎮圧を図るという定番対策で応じたが、この過程で300人以上が死亡、2000人以上が負傷する流血事態となった。鎮静化を急ぐベン・アリは2014年予定の大統領選挙に立候補せず引退することを公約するも、これはなお政権に固執することを意味しており、民衆はかえって反発した。
 そのため、2011年1月14日には最大規模のデモに発展する中、ベン・アリは軍に鎮圧命令を発したが、軍はこれを拒否し、かえって辞職要求を突き付けたことから、政権継続を断念し、サウジアラビアへ亡命した。こうして、ベン・アリ政権はあっけなく崩壊したが、発端となった露天商青年の死からわずか10日での急展開であった。

〈3‐3〉革命の中和的収斂
 こうした自然発生的な民衆革命では革命後の政権の受け皿を欠くことが多いが、チュニジア革命でも同様で、革命後最初の暫定政権は憲法評議会が憲法規定に基づき指名した与党系の下院議長を暫定大統領とし、ベン・アリ政権の首相が横滑りするという不完全なものであった。
 とはいえ、この暫定政権は野党を含めた挙国一致政権となり、支配政党・立憲民主連合の解散と非合法政党の解禁、全政治犯の釈放、ベン・アリ前大統領の刑事訴追などの措置を矢継ぎ早に講じた。
 そのうえで、2011年10月には制憲議会選挙が挙行されたが、ここでは解禁されたばかりのイスラーム主義政党・覚醒運動が比較第一党に躍進するという事態となった。このように「アラブの春」がそれまで抑圧されていたイスラーム主義勢力の伸長を結果する現象は他国でも程度差はあれ生じており、後に改めて総覧する。
 結局、覚醒運動とそれに続く共和国のための会議、従来からの合法野党であった社会民主主義系の労働と自由のための民主フォーラムの三党連立の新政権が構成され、新たな暫定大統領に共和国のための会議を率いたマルズーキが選出された。
 この連立政権は2014年の新憲法制定までの暫定であり、実際、同年1月に新憲法が制定され、それに基づく総選挙及び大統領選挙が実施された結果、解散した旧支配政党・立憲民主連合から派生した世俗主義政党・チュニジアの呼びかけが第一党となり、大統領にも同党創設者で88歳の古参政治家ベジ・カイドセブシが当選した。
 以後、革命の結果、民主的な憲法のもとで旧立憲民主連合からの派生政党が政権党に納まり、革命が中和的に収斂していったことから、チュニジアの革命は他国のように内戦を惹起しなかった限りで「成功」を収めたと言えるが、それは揺り戻しへの危険を内包する収斂の仕方でもあった。

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近代革命の社会力学(連載第458回)

2022-07-14 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(3)チュニジア革命

〈3‐1〉ポスト・ブルギバ改革の限界
 「アラブの春」の端緒となり、結果的にも唯一の成功例と目されるチュニジアは、革命を遡ること23年前の1987年にも大きな政変を経験している。この年、1956年の独立以来、チュニジアを率いてきたブルギバ大統領が無血クーデターで失権したのであった。
 クーデターを主導したのは、ブルギバ自身が首相に起用したベン・アリであった。ベン・アリは独立運動闘士を経て独立後の職業軍人となり、軍の要職を経て政界に転じ、ブルギバの評価を得て事実上の後継者に上り詰めた人物である。
 すでに80歳を越え、医学的に大統領職の継続は困難とされたブルギバは、後継予定者に裏切られる形で引退に追い込まれることとなった。代わって新大統領に就任したベン・アリは87年11月7日に声明を発し、一連の改革を打ち出した。
 この「11月7日宣言」に基づき、ベン・アリ政権は市民的自由の拡大や政治犯の釈放などの自由化を推進するとともに、88年にはブルギバ時代の一党支配政党であった立憲社会党を立憲民主連合と改称し、社会主義色を払拭した。
 このようにベン・アリ政権は30年以上に及んだブルギバ体制の刷新を図る姿勢を示したとはいえ、その改革は一定限度内での自由化にとどまり、形式的な選挙を通じた一党支配制に根本的なメスを入れるものではなかった。
 そのため、政権党・立憲民主連合は旧立憲社会党のように全議席を独占することはなくなったとはいえ、常に絶対多数を掌握し、大統領選挙ではベン・アリが圧勝・多選を重ねることが定着し、ベン・アリ政権は表紙を変えただけのブルギバ体制の継続とも言えた。
 とはいえ、中・東欧の連続革命、ソ連邦解体革命に先立つタイミングで一定の体制内改革を打ち出したことは、90年代を通じてベン・アリ政権が安定的に継続していくことを保証したが、政権の長期化に伴い、当初の自由化改革も後退していった。
 一方、経済面ではベン・アリ政権の民営化政策により民間セクターの発展が刺激されたことで資本主義的経済成長が促され、チュニジアではアラブ世界では相対的に豊かな生活水準が保障されていたが、若年層の高失業率や蔓延する汚職への不満は鬱積していた。

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近代革命の社会力学(連載第457回)

2022-07-12 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(2)アラブ社会主義体制の転向あるいは変質
 アラブ連続民衆革命における中核5か国は、1952年のエジプト共和革命を初動として、アラブ連続社会主義革命、さらにその派生型としてのバアス党革命によって、1960年代にかけて順次社会主義体制が樹立された諸国であった。
 これらのアラブ社会主義体制はしかし、1970年代以降になると、それぞれの仕方で転向ないし変質を始める。初動となったエジプトの場合、共和革命の指導者ナーセル大統領の1970年の急死が一大転機となる。
 ナーセルの死を受けて、副大統領から政権を継いだサーダートは共和革命時から行動を共にした盟友ながらナーセルの路線を大きく修正し、事実上これを没却していった。
 すなわち社会主義政策を転換し、資本主義市場経済に適応化する経済改革を志向するとともに、反米・反イスラエル政策をも転換、アメリカの仲介により、アラブ世界で最初にイスラエルを承認するキャンプデービッド合意の当事者となった。
 これ以降、1981年のサーダート暗殺を受け副大統領から昇格したムバーラク大統領の約30年に及ぶ長期政権下でも、サーダートによる転向路線は基本的に継承されていった。
 一方、アラブ社会主義全体の指導者でもあったナーセルの急死は、エジプト以外のアラブ社会主義諸国にも波及的な影響を及ぼすことになる。カリスマ的人物の病死という自然現象が地政学的な変動要因となった例である。
 連続社会主義革命の中で社会主義化したチュニジアとリビアの場合、チュニジアでは独立以来の指導者ブルギバ自ら1970年代以降に社会主義政策を撤回したうえで長期政権を維持、リビアでは独特の直接民主主義理論を掲げる最高指導者ガダーフィによる事実上の個人崇拝型長期独裁への変質が生じた。
 バアス党革命により独自の社会主義体制となったシリアでも、1970年に党内クーデターで政権を掌握したアサドは「革命の矯正」として社会主義を緩和する政策を追求するとともに、個人崇拝型独裁を強化し、長期政権を固めた。
 イエメンは、南北分断国家という特殊状況の中、1978年に北イエメンの大統領に就いたサーレハが80年代以降、社会主義色を薄めて独裁体制を固めつつ、冷戦終結後の90年には南北イエメンの統一を導き、改めて統一イエメン大統領として長期政権を継続した。
 こうしたアラブ社会主義体制の転向あるいは変質は、いずれもナーセル没後の状況下で「現実主義」の力学から生じており、その過程で社会主義的なイデオロギーは後退または消失するとともに、安定を優先するワンマン体制が現前してきたものと言える。

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