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近代革命の社会力学(連載第311回)

2021-10-14 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(7)オガデン戦争:ねじれた干渉戦
 一国で大規模な革命が成功すると、その波及を恐れる周辺諸国が反革命武力干渉を試みることは歴史的な法則であるが、1974年エチオピア革命の場合は、隣国ソマリアでも先行して同種の軍主導による革命によりマルクス‐レーニン主義国家が成立していたことは、以前の回で見た。
 こうした場合は、むしろ互恵的な友好善隣関係が成立するほうが自然であるが、両国の場合はそうはならなかった。というのも、独立後のソマリアではかねて汎ソマリ主義のイデオロギーに基づき、エチオピアをはじめ、周辺諸国にまたがるソマリ族居住地域のソマリア編入を目論む動きが隆起していたためである。
 その点、以前の回でも見たとおり、ソマリアのマルクス‐レーニン主義体制は社会主義以上に汎ソマリ主義を前面に押し出す方向に進んだため、むしろエチオピア革命後の「赤色内戦」の混乱に乗じて、エチオピア領内のソマリ族居住地域であるオガデン地方の併合を企てた。
 オガデン地方でも、ソマリ族自身による分離独立運動が立ち上がっており、ソマリア側にはこれを支援するという大義名分が立った。そうした両者の利害の一致により、1977年7月、ソマリア軍はほぼ全軍規模でオガデン地方へ侵攻したのである。
 こうして、隣接する相似的関係にある二つのマルクス‐レーニン主義標榜体制が直接に交戦するという異例の事態に発展した。これにはソマリア・エチオピア双方の後ろ盾となろうとしていたソ連も当惑し、当初は仲介を試みたが、ソマリア側が強硬な態度を崩さず、仲介は失敗した。
 戦争の発端は明らかにソマリア側の侵略にあったため、ソ連としてもソマリアを公然支援することは憚られ、ソマリアへの支援を停止、エチオピア支援に切り替えた。これに伴い、キューバや東ドイツその他の親ソ諸国もエチオピアへの支援に向かった。
 他方、当時は国際社会においても、ともに共産党支配国家であるソ連と中国の対立が深まっていた時期でもあり、対抗上、中国はソマリア側を支援し、また東欧にあってソ連と距離を置くルーマニアの共産党政権もソマリア側支援に回った。
 また、こうした東側陣営の足並みの乱れを見たアメリカをはじめとする西側は親米アラブ諸国も参加する形で、マルクス‐レーニン主義を標榜するソマリアを支援したため(とはいえ、その支援は限定的であった)、オガデン戦争はイデオロギー的にもねじれた代理戦争の性格を帯びた。
 緒戦においては不意を突いて奇襲侵攻したソマリア側が優勢であり、1977年9月以降、ソマリア軍が進撃を続け、オガデンは陥落するかに思われた。しかし、78年に入ると、ソ連の軍事顧問団に加え、1万6千人と最大規模の援軍を派遣していたキューバの助力を得て、エチオピア側が反転攻勢に出る。
 その結果、同年2月以降、ソマリア軍は劣勢に追い込まれ、全軍三分の一近い兵士を失い、空軍は半分が壊滅するという大打撃を受け、3月には撤退した。こうして、ソマリアの大敗により戦闘は終結する(紛争自体は1980年代まで継続)。
 オガデン戦争はエチオピアにとっては隣国からの干渉戦であったが、それは同類国家からの干渉であり、かつ支援国も東西冷戦構造の変化に伴い、東側は股裂きとなり、西側も「敵の敵は味方」の論理によりソマリアのマルクス‐レーニン主義体制を支援するというねじれた干渉戦となった。
 戦争の結果は明暗を分け、大敗し軍の主力を失ったソマリアのバーレ政権は体制維持のため親西側に舵を切り、旧来の氏族政治に戻るが、戦勝したエチオピアでは並行した国内の「赤色内戦」にも勝利したメンギストゥが、キューバ軍の駐留を担保としながら、独裁体制を固めていく。


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