ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第384回)

2022-02-22 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐2〉革命への蠕動
 東ドイツはソ連の最も忠実な衛星同盟国であったとはいえ、反体制運動の歴史は古い。最も早いところでは1953年6月、まさに東ドイツを誕生させた張本人であるソ連の独裁者スターリンの死を契機として、首都東ベルリンで大規模な民衆蜂起が発生した。
 この蜂起は元来、ソ連式社会主義労働の特徴であったノルマによる出来高制(ノルマ未達成者の賃下げ)に反発した建設労働者のストライキに端を発したものであるが、一日で数万人が参加する抗議行動に進展し、反体制側は時の指導部の総退陣を要求するなど革命化する予兆が見られた。
 これに危機感を抱いたソ連が東ドイツ駐留軍を動員して武力鎮圧に乗り出したため、蜂起はわずか一日で収束したが、この一件は1956年のポーランド・ポズナニ蜂起やハンガリー動乱など、後続する同様の事態の先駆けともなった。
 しかし、この後、東ドイツ当局は秘密警察網による厳しい社会統制を徹底するようになるため、東ドイツにおける反体制運動は長く閉塞し、代わって、東西ベルリンの境界線を越えて西ドイツに脱出する市民が増加していく。
 このような脱国自体は反体制運動というより個人的な亡命行為であったが、亡命抑止策として「ベルリンの壁」が構築されて以降は、警備隊による銃殺の危険を冒しての越境は単純な亡命とは異なる意味を持ち、直接的な反体制運動が厳しく抑圧される中での消極的な不服従の特殊な一形態となった。しかし、このような冒険的な不服従には限界があり、革命には程遠い。
 そうした中、一つの転機は、1982年にライプツィヒのニコライ教会で始まった「平和の祈り」であった。これは当時、アメリカの反共主義レーガン政権の登場により再び冷戦が「雪解け」から再活性化に転じる中、東西両陣営による中距離核ミサイル配備に対する控えめな抗議集会として始まったものであった。
 SED体制は無神論を標榜していたが、憲法上は信仰の自由を保障しており、教会に対する直接的な弾圧は差し控えていたことから、教会はある種の聖域となっており、毎週月曜日に開催された平和集会は次第に体制に不満を持つ青年層を惹きつけ、平和集会を超えた政治集会へと発展していくのであった。
 こうした平和集会の政治化を察知した当局は秘密警察を使って抑圧を企てるも、街頭集会とは異なり、教会での集会に対しては有効な抑圧手段が取れずにいたところ、革命前年の1988年頃になると、集会参加者は1000人規模に増大していた。これは革命への蠕動と言える最初の明瞭な動向と言えた。
 1989年に入ると、より大胆になった参加者は教会を出て、街頭でも「沈黙の行進」を展開するようになる。こうした非暴力の抗議運動は東ドイツ革命における一つのエートスとして定着し、他諸国における一連の革命に対しても影響を及ぼすところとなる。


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