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近代革命の社会力学(連載第269回)

2021-07-26 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐1〉南北イエメンの分断
 本節にいう南北イエメンとは、1990年の統一まで分断的に存続したイエメンにおける二つの国家の通称に沿った包括表記であるが、両イエメンの厳密な地理的関係としては、「東西イエメン」としたほうが正確である。しかし、ここでは通称に従い、「南北イエメン」あるいは「北イエメン」「南イエメン」と表記する。
 総体としてアラビア半島の南部を占めるイエメンでは、9世紀末という古い時代にイスラーム少数派シーア派に属するザイド派の教義を奉じる勢力が教主イマームを君主として推戴するラシード朝が成立して以来、諸部族が割拠する北部の有力王朝として存続し、北部をシーア派の拠点とした。
 しかし、周辺国の支配を目まぐるしく受けた後、19世紀前半、かつて16世紀にいったんはイエメンを支配下に置きながら駆逐されていたオスマン帝国が1849年にイエメン北部を再占領し、以後、イエメン北部は周辺地域と同様にオスマン帝国領となった。
 一方、イエメン南部は古来、アラブ人とは異なる言語と文化を持つ民族の割拠するところであったが、この地域も次第にアラブ人の移住により、イスラーム化されていった。この地域に興亡したイスラーム首長国はイスラーム正統派のスンナ派を奉じたが、北部のラシード朝のような王朝は形成されず、部族ごとの小首長国が林立する状態が続いた。
 そうした状況下、1839年にはインド洋と紅海をつなぐ紅海への出入り口を確保したい大英帝国にとって枢要とみなされたイエメン南部の港湾都市アデンをイギリスが占領し、アデン入植地を設定した。さらに、1872年以降、アデンを除いた周辺のイエメン南部を切り取り、小首長国を包括したアデン保護領を成立させた。
 このようにして、イエメン北部はオスマン領、南部は英領という分断された植民地状態が成立したのが19世紀の状況であり、この分断支配がその後の南北イエメンの土台を形成する。
 この分断支配において、オスマン帝国領の北イエメンではオスマン帝国の支配密度は高くなく、シーア派のラシード朝の権威は保存された分、中世以来の封建的部族主義の伝統も根強く残された。
 その後、北イエメンでは、第一次世界大戦後の1918年、敗戦したオスマン帝国からラシード朝が独立を達成し、改めてイエメン王国として歩み始めたが、保守的な王朝下での近代化の遅滞は20世紀後半における共和革命の引き金ともなった。
 他方、イギリス領となった南イエメンでは1937年、イギリスがそれまで形式上英領インドの一部に組み込まれていたアデン入植地をインドから分離して改めて独立のアデン植民地として再編すると、アデンでは近代的な港湾都市としての開発が進み、イエメンで最も先端的な都市に発展した。
 このように、南北イエメンでは一足先に独立を果たした北イエメンの封建的なイマーム支配体制と、20世紀後半期までイギリス支配が続く中、アデンを中心に近代的開発の先鞭がつけられた南イエメンの社会経済的な不均等が拡大する中で、ともに1960年代のアラブ連続社会主義革命の時代に直面するのである。


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