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近代革命の社会力学(連載追補7)

2022-12-18 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(6)共産主義運動の台頭
 ネパールの近現代史で興味深いことは、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、立憲革命→民主化革命→共和革命と三段階に及んだ革命の過程で共産主義運動が台頭し、多岐にわたる分派活動から伸長した毛沢東主義派と政府軍との内戦を経て、最終的な共和革命により毛派が議会政治の枠組み内で政権党にまで至った運動力学である(拙稿)。
 その端緒となったのは、1949年における共産党の結党である。この初期共産党は元来、当時の野党勢力の中心にあったネパール国民会議のプシュパ・ラール・シュレシュタが中心となって創立された。
 シュレシュタの結党動機は国民会議内部の権力闘争や当時のラナ宰相家独裁体制との妥協的な姿勢に幻滅したことにあったと見られるが、初期共産党はインドのカルカッタで結党された小さな亡命政党に過ぎなかった。
 しかし、シュレシュタはマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』やレーニン、毛沢東の基本文献の翻訳紹介を積極的に行い、イデオロギー的な面でネパールに共産主義運動を根付かせる最初の播種の役割を果たした。
 そうした中で、国民会議を中心とした反専制運動が沸騰すると、ネパール共産党は他の左派系諸派と連合して統一民主戦線を結成し、1951年の立憲革命にも参加した。とはいえ、国民会議に比べれば、立憲革命への寄与は限定的であった。
 革命後の新政権にも共産党が参加することはなく、1952年1月に国民会議強硬派のクンワル・インドラジット・シンハが武装蜂起し、共産党を含む挙国一致内閣の成立を要求したことを契機に、共産党も連座して非合法化された。
 その後、1956年、共産党は立憲君主制を容認することで非合法化を解除され、1959年総選挙では初の議席を獲得するも、1960年のマヘンドラ国王による反革命的な非常措置の発動により、他党とともに再び非合法化されるなど、紆余曲折を辿る。
 翌1962年、共産党は復刻した専制王制への対応をめぐって分裂し、多様な指導者に率いられた分派が多数形成されるが、それによって共産主義運動総体が低迷することなく、1990年の民主化革命へ向けて離合集散しながら運動が継続されていくのであった。
 ネパールの共産主義運動はインドの分派的な共産主義運動の影響を多分に受けていたが、建国時から共和制が確立されていたインドの国政レベルでは少数党派の域を出なかったインドの共産党諸派とは異なり、ネパールでは半封建的な専制王制への抵抗において共産主義諸派が総体として重要な位置を占め続けた点で、社会力学に相違があったと言える。


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