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近代革命の社会力学(連載第350回)

2021-12-20 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(6)イスラーム共和制の樹立まで
 1979年イラン革命は純度の高い民衆革命として遂行されたとはいえ、党派性が皆無であったわけではない。革命運動の精神的支柱であったホメイニーを取り巻く革命運動の党派を大別すれば、大きく親ホメイニー派と反ホメイニー派とに分かれる。
 ホメイニー支持派は革命運動の主流派で、それはホメイニー自身を含むイスラーム教シーア派教義を重視するシーア派原理主義者と、臨時政府から革命政権の初代首相となったバーザルガーンに代表されるリベラルなイスラーム主義者に分かれていた。
 親ホメイニー派は、革命直後の1979年2月にイスラーム共和党を結党し、これ以降は同党が革命与党となるため、党派性が増していくが、同党は最終的に1987年には解散され、過渡的な役割しか果たさず、以後のイスラーム共和制では政党政治は根付かなかった。
 他方、反ホメイニー派は、主に左派であるが、これにも、革命前から武装活動を活発化させていたモジャーヘディーネ・ハルグのような左派イスラム主義系と、歴史の古いトゥーデ党のようなマルクス主義系とがあった。
 これらの反ホメイニー派も共和革命の過程にはそれぞれの立場で参加したが、革命後はホメイニーを中心とする革命政権には参加することなく、1980年代以降、非合法化されていき、イスラーム共和制に対する敵対勢力となった。
 ホメイニーを軸に形成された革命政権は、当然ながらホメイニー支持派が優位であり、当初は内外の警戒を抑制するためにも、政権実務の前面にリベラルなイスラーム主義者が立ち、原理主義者は背後からイデオロギー面を掌握していた。
 1979年10月に国民投票をもって制定された新たな憲法が、シーア派最高指導者を元首とするイスラーム法学者(≒聖職者)による統治という神権制の要素と西欧的な選挙に基づく大統領共和制の混合憲法となったのも、ホメイニー支持両派の折衷の産物だったからにほかならない。
 しかし、革命政権が安定化するにつれ、ホメイニーを高く奉じる原理主義派の勢力が優位になる。そうした中で、旧帝政派要人に対する革命裁判による大量処刑やその他の反革命派に対する弾圧が並行して拡大されていき、あたかもフランス革命期のロベスピエールによる恐怖政治を思わせる状況が現れた。
 一方では、モハンマド・レザー廃皇帝の亡命をアメリカが受け入れたことへの反発が大衆の間で高まったことを背景に、反米感情が沸騰し、79年11月には、ホメイニーを信奉する急進的な学生グループがアメリカ大使館に乱入し、大使館員を人質に取って立てこもるという前代未聞の国際事件が発生した。
 この占拠事件は解決まで一年以上を要する国際問題となり、事件の早期解決に失敗したカーター大統領の再選失敗とレーガン共和党政権への交代をもたらすなど、アメリカ政治にも直接の影響を及ぼすこととなった。
 イランにおいても、この事件は転機となり、事態の収拾に難渋したバーザルガーン首相の辞任を結果した。リベラル派代表者の下野は同派にとっては打撃であったが、1980年の大統領選挙でバーザルガーン政権の財務相を務めたアボルハサン・バニサドルが初代大統領に当選したことで、リベラル派が勢力を維持した。
 60年代から反帝政運動の活動家だったバニサドルは聖職者ではないが、ホメイニーからも信頼されていた俗人で、リベラル派と原理主義派をつなぐ存在として期待されたが、原理主義派が優勢な国会との協調関係を築けず、大使館占拠事件でもアメリカに対する融和的姿勢が批判を受け、1981年6月、国会による弾劾罷免決議を経て、大統領の地位を追われ、最終的には亡命者となった。
 バニサドルの放逐はイラン革命の大きな転機となり、後任に俗人ながら反米強硬派のモハンマド・アリー・ラジャーイー首相が就いたことで、原理主義派の優位性が高まった。しかし、ラジャーイー大統領は反政府活動を活発化させていたモジャーヘディーネ・ハルグによって在任16日にして暗殺された。
 この後、ホメイニーの門弟にして側近でもあった聖職者アリー・ハメネイが第3代大統領に選出されたことで、ホメイニーを中心とする原理主義派の権力が確立されることになる。


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