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旧ソ連憲法評注(連載第21回)

2014-10-31 | 〆ソヴィエト憲法評注

第十三章 選挙制度

 ソヴィエトは、選挙制によっていた。本章ではソヴィエト選挙に関する通則がまとめられている。

第九十五条

すべての人民代議員ソヴィエトの代議員の選挙は、普通、平等および直接選挙権にもとづき、秘密投票により行なわれる。

 民主的な選挙原則である普通・平等・直接・秘密の四原則が定められている。

第九十六条

1 代議員の選挙は普通選挙である。すなわち十八才以上のすべてのソ連市民は、選挙権および被選挙権をもつ。ただし法律の定め手続きにより精神病者と認められた者をのぞく。

2 ソ連最高会議代議員には、二十一歳以上のソ連市民が選挙される。

 普通選挙制の原則を具体化する規定であるが、第一項但し書きで、単に精神病者というだけで公民権を否定しているのは、大きな問題であった。これは精神病者に対する差別であると同時に、反体制者を「精神病者」と診断して、本条に基づき公民権を剥奪するという医療的な装いをまとった政治的抑圧が常態化していたからである。

第九十七条

代議員の選挙は平等選挙である。すなわちそれぞれの選挙人が一票をもち、すべての選挙人は平等な基礎で選挙に参加する。

 平等選挙原則の鉄則である一人一票制を定めている。これは、定数不均衡是正の根拠ともなる先進的な規定であった。

第九十八条

代議員の選挙は直接選挙である。すなわち代議員は、市民により直接に選挙される。

 直接選挙原則の具体化であるが、内容は乏しい。

第九十九条

代議員選挙の投票は秘密投票である。選挙人の意思表示にたいする支配は許されない。

 第二文は自由投票原則の具体化であるが、次条で共産党とその傘下団体が候補者指名権を掌握する仕組みであったため、ソヴィエト選挙の実態は所属団体ごとの動員選挙であり、本条は形骸化されていた。

第百条

1 代議員候補者を指名する権利は、ソヴィエト連邦共産党、労働組合および全連邦レーニン共産主義青年同盟の諸組織、協同組合その他の社会団体、労働集団ならびに部隊ごとの軍勤務員集会がもつ。

2 ソ連市民および社会団体は、代議員候補者の政治的、実務的および個人的素質の自由で全面的な討議ならびに集会、出版物、テレビジョンおよびラジオによる選挙運動の権利を保障される。

3 人民代議員ソヴィエトの選挙の実施にともなう費用は、国家が負担する。

 第三項で選挙公営制を採りつつ、第一項で代議員候補者の指名権を共産党及びその傘下団体に掌握させるのは、まさしく共産党支配体制の表れであった。このことにより、ソヴィエト選挙は出来レースとなり、候補者間の実質的な競争性は存在しなかった。第二項で保障される選挙運動の自由も、党主導の「やらせ」の域を出ないものであった。

第百一条

1 人民代議員ソヴィエトの代議員の選挙は、選挙区単位で行なわれる。

2 ソ連市民は、原則として三つ以上の人民代議員ソヴィエトに選挙されない。

3 人民代議員ソヴィエトの選挙の実施手続きは、ソヴィエト連邦、連邦構成共和国および自治共和国の法律が定める。

 前条で、代議員候補者指名は共産党とその傘下団体が行なうため、ソヴィエトは実態として一種の職能代表制でありながら、選挙自体はブルジョワ議会制と同様の選挙区制を採っていた。そのため、選挙過程の形骸化はいっそう助長されたであろう。
 第二項は、反対解釈すれば、二つ以内のソヴィエト代議員を兼務できるということを意味する。これは第八十九条で示されていたとおり、ソヴィエトは連邦から町村まで統一的な体系を成す制度であったため、ブルジョワ議会制のような国会・地方議会議員の兼職禁止の制約は原則としてなかったが、負担過多を避けるため、兼務を二つ以内に制限したものである。

第百二条

1 選挙人は、その代議員に訓令をあたえる。

2 当該人民代議員ソヴィエトは、選挙人の訓令を審理し、経済的、社会的発展計画の作成および予算の編成のとき、これらを考慮し、訓令の遂行を組織し、その実現にかんする情報を市民にあたえる。

 議員が選挙人に拘束されない自由委任制を採るブルジョワ議会制とは異なり、ソヴィエト制は命令委任制を採っていた。これは、先に見たように、ソヴィエト制が実態として職能代表制であったことに相応している。後に見るように、訓令違反の代議員はリコールすることもできた。

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旧ソ連憲法評注(連載第20回)

2014-10-30 | 〆ソヴィエト憲法評注

第四編 人民代議員ソヴィエトおよびその選挙手続き

 本編では、ソヴィエト連邦の国名の由来でもある中核的な制度ソヴィエトに関する通則がまとめられている。ソヴィエトはブルジョワ政治体制の議会制と似るが、単なる立法機関にとどまらない人民権力の基盤となる中核機関である。「評議会制」と訳されることも多いが、ここでは「会議制」と訳すことにしたい。

第十二章 人民代議員ソヴィエトの体系およびその活動原則

 本章は、連邦から町村に至るまで、各レベルごとに重層的に設置される人民代議員ソヴィエトの概要が示されている。

第八十九条

人民代議員ソヴィエト、すなわちソ連最高会議、連邦構成共和国最高会議、自治共和国最高会議、地方及び州の人民代議員ソヴィエト、自治州および自治管区の人民代議員ソヴィエト、ならびに地区、市、市内の街区、町および村の人民代議員ソヴィエトは、国家権力機関の統一的な体系を構成する

 ブルジョワ的な議会制のように、中央の国会と各レベルの地方議会が別立てとされるのではなく、会議制では、連邦から町村に至る各レベルのソヴィエトが体系的に構成される。

第九十条

1 ソ連最高会議、連邦構成共和国最高会議および自治共和国最高会議の任期は五年である。

2 地方人民代議員ソヴィエトの任期は二年半である。

3 人民代議員ソヴィエトの選挙は、当該ソヴィエトの任期満了の二か月以前に公示される。

 ソヴィエト代議員の任期に関する規定である。地方ソヴィエト代議員の任期は、連邦及び構成共和国の半分であった。

第九十一条

1 それぞれの人民代議員ソヴィエトの管轄に属する特に重要な問題は、その会期において審理され、解決される。

2 人民代議員ソヴィエトは、常任委員会を選出し、執行処分機関および自分にたいし報告義務をもつ他の機関を設ける

 第二項にあるように、ソヴィエトは執行処分機関その他の下部機関を設けることができる点で、単なる立法機関を超えていた。

第九十二条

1 人民代議員ソヴィエトは、国家的監督と企業、コルホーズ、施設および団体における勤労者による社会的監督を結合させる人民的監督機関を組織する。

2 人民的監督機関は、国家的な計画および課題の遂行を監督し、国家的規律の違反、地方割拠主義および業務にたいする役所的取組みの現象、ずさんな管理、むだづかい、仕事の渋滞ならびに官僚主義とたたかい、国家機構の仕事の改善を促進する。

 ソヴィエトの権限として特に重要なのは、この監督権(監察権)であった。これは人民主権原理の表れでもあり、ソヴィエトには言わばオンブズマンのような役割も期待されていた。第二項では人民的監督機関の仕事が非常に具体的に列挙されているが、ここに監察対象として掲げられているのは、巨大な官僚国家と化していた当時のソ連で起きていた弊害現象であった。それを憲法にわざわざ列挙しなければならないほど問題は深刻化していたものと考えられる。

第九十三条

人民代議員ソヴィエトは、直接にまたはその設置する機関をとおして、国家建設、経済建設および社会的、文化的建設のすべての部門を指導し、決定を採択し、その執行を保障し、決定の実施にたいする監督を行なう。

 本条は総指導監督機関としてのソヴィエトの権限を明示した規定であるが、実際上は共産党が指導政党の地位にあったため、ソヴィエトもまた共産党の指導下にあり、結果として、ソヴィエトは共産党の道具として象徴的な存在と化していた。

第九十四条

1 人民代議員ソヴィエトの活動は、問題の集団的、自由で実務的な討議および解決、公開、執行処分機関およびソヴィエトの設置する機関のソヴィエトおよび住民にたいする定期的報告ならびにソヴィエトの仕事への市民の広範な参加にもとづいて、行なわれる。

2 人民代議員ソヴィエトおよびその設置する機関は、その仕事および採択した決定についての情報を、体系的に住民にあたえる。

 ソヴィエトは市民の参加と報告というフィードバックを通じて住民との直接的なつながりも期待されていた点では、議会制より民主的な面もあったはずであるが、実際上は、共産党独裁により、こうした機能も形骸化していたと考えられる。

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晩期資本論(連載第9回)

2014-10-23 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(3)

商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と情熱が発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。

 マルクスは価値尺度と流通に続く貨幣の第三の機能となる蓄積の機能について、こう述べて、「貨幣は蓄積貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。」とまとめている。すなわち、商品流通が貨幣蓄積を生む。また「商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。」とも指摘されるように、貨幣は社会的な権力として、金権政治の源泉ともなる。

金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためには、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。

 流通の拡大から貨幣蓄蔵が生じるが、貨幣蓄蔵を効果的に行なうためには、貨幣が徒に流出することを避ける必要があり、そのため、「勤勉と節約と貪欲とが彼(貨幣蓄蔵者)の主徳をなすのであり、たくさん売って少なく買うことが彼の経済学の全体をなすのである。」誰もが経験的に知っているように、勤勉と節約と貪欲は効果的な貨幣蓄蔵の秘訣である。
 ここでマルクスは勤勉をプロテスタンティズムなどの特定の宗教倫理と結びつけず、商品流通の拡大が生み出す貨幣蓄蔵者の行動原理として導き出そうとしていることが注目されるが、蓄蔵者像が定型的にとらえられており、蓄積行為に対するより立ち入った行動科学的な分析に及んでいないのは、時代的制約であろう。

蓄積貨幣貯水池は流通する貨幣の流出流入の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。

 貨幣蓄積は「貯蓄」として、マルクスの巧みな比喩によれば「貨幣貯水池」を形成するが、この貯蓄がまた購買手段や投資に充てられることで市中の貨幣流通が調節されることがあるのは、巨大な貯蓄を擁する晩期資本主義社会でははっきりと観察できる。

独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョワ社会の進歩につれてなくなるが、反対に支払手段の準備という形では貨幣蓄蔵はこの社会の進歩ととともに増大する。

 ブルジョワ社会を消費社会と置き換えてみれば、消費社会における蓄蔵とは蓄蔵のための蓄蔵ではなく、消費手段としての貯蓄という性格が強まるので、貨幣の消費=支払手段としての意義が大きくなる。このように、支払手段としての貨幣の機能が発達し、機構化していくと、価値尺度機能と流通機能との間の矛盾齟齬から、「貨幣恐慌」のような通貨危機が生じやすくなることも指摘されている。

世界市場ではじめて貨幣は、十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。

 貨幣は国内市場を飛び出して、世界市場にも流入する。このことは、世界貿易が発達した晩期資本主義にあっては、もはや常識となっている。マルクスはそうした「世界貨幣」―今日でいう国際通貨―に至ると、貨幣は「貴金属の元来の地金形態に逆もどりする。」と論じているが、これは持論である労働価値説を再確認する補説であろう。しかし、脱金本位制下の現代では、地金取引ではなく、為替という抽象的な通貨取引を通じて世界貨幣=国際通貨が動いていることも、周知のとおりである。

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晩期資本論(連載第8回)

2014-10-22 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(2)

流通は絶えず貨幣を発汗している。

 流通手段としての貨幣の第二の機能をウィットに富んだ比喩で表現している。発汗が人体にとって体温調節に不可欠な作用であるのと同様、貨幣交換は市場経済の需給調節に不可欠な作用である。貨幣なくして流通なしである。
 しかしながら、マルクスがこの比喩的な命題を通じて主張しているのは、むしろ流通なくして貨幣なしという逆の側面である。この命題のすぐ後に続けて、「どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。」と述べるのはそのためである。理由はいたって簡単で、「別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。」からである。
 ここでばかげたものと切り捨てられているのは、J・B・セーのいわゆる「販路法則」である。すなわち「生産物の販売は同時に生産物の購買であるから、生産物の総供給と総需要は恒等的に等しく、従って全般的な過剰生産は生じない」とする古典的命題である。
 生産した商品が必ず購買されるとは限らないことは、ネット上で市民が自由に自作製品を直売できるようになった時代には誰でもすぐに経験できることであるから、セー命題の誤謬は明らかであるが、この抽象命題は形を変えて新自由主義にも取り込まれているため、晩期資本主義社会は過剰生産への危機感が希薄化している。

それぞれの期間に流通手段として機能する貨幣の総量は、一方では、流通する商品世界の価格総額によって、他方では、商品世界の対立的な流通過程の流れの緩急によって、規定されているのである。

 貨幣に関するもう一つの古典命題として、「貨幣数量を増大させれば、比例的に物価上昇、貨幣価値の低下をもたらす(その逆も)」とする貨幣数量説があるが、マルクスはこの命題も明確に否定する。より直接には、「商品価格は流通手段の量に規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定されるという幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいり、そこで雑多な商品群の一可除部分と山をなす金属の一可除部分と交換されるのだという、ばかげた仮説に根ざしているのである。」とされる。
 ところが、貨幣数量説も新自由主義にしっかり取り込まれているので、インフレやデフレ退治に通貨供給の増減調節で臨むという単純な対策が幅を利かせている(新自由主義の正体は、実のところ、マルクスによって克服されたはずの古典的経済ドグマの焼き直しである)。
 ただ、マルクスの貨幣数量説批判も、古典的な金本位制を前提しつつ、金本位制下では物価が安定するという俗論を批判する文脈でのものであり、現代の脱金本位制下での議論に直接妥当するものではなくなっているが、商品価値も貨幣価値も、究極的には貨幣の第一の価値尺度機能に依存する不安定なものであるとする点は、普遍的な意義を持つ。一方で、マルクスは次のようにも補足する。

いろいろな要因の変動が互いに相殺されて、これらの要因の絶え間ない不安定にもかかわらず、実現されるべき商品価格の総額が変わらず、したがってまた流通貨幣量も変わらないことがありうる。

 したがって、「いくらか長い期間を考察すれば、外観から予想されるよりもずっと不変的な、それぞれの国で流通する貨幣量の平均水準が見いだされるのであり」、また周期的な恐慌や突発的な通貨危機にもかかわらず、「外観から予想されるよりもずっとわずかな、この平均水準からの偏差が見いだされるのである。」とも指摘される。
 このような長期的な平準化傾向が資本主義経済の持続性の強さの秘訣の一つであり、こうした一見アナーキーな資本主義市場における「見えざる手」による事後調整のメカニズムを説明しているとも言える。

流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。

 流通手段としての貨幣は、金属そのものの使用価値に着目された商品ではなく、交換の媒介手段にすぎないから、定型的に鋳造された有形物であることが望ましい。そうした貨幣鋳造は、通常は国家権力に委ねられる(通貨高権)。

商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代えられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。

 貨幣は商品価値の表象手段でしかないとすれば、流通過程では貨幣という有形物そのものも必要なく、貨幣の単に象徴的な存在だけでも足りる。この定理の延長に、キャッシュカードや電子マネーのような無形的・数量的な貨幣価値だけを表象するキャッシュレス手段も生まれてくる。

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晩期資本論(連載第7回)

2014-10-21 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(1)

 マルクスは資本主義において貨幣の果たす役割を重視しており、『資本論』第一巻のかなりの頁数を専ら貨幣論に充てているが、これはまだマネタリスト的知見が確立されていなかった当時としては斬新な経済理論であった。彼は、貨幣の持つ機能を価値尺度・流通手段・蓄積の三つに大別しつつ、それらを持論の労働価値説で統一的に説明しようとする。

簡単にするために、本書ではどこまでも金を貨幣商品として前提する。

 その具体的意味は、「貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の各商品の量で表現される。」ということである。例えば、ガム一個=100円という定式は、100円硬貨の鋳造に必要な労働時間とガム一個の生産に必要な労働時間が等しいことを示していることになる。そのような等値の奇妙さは明らかであろう。これは優秀な理論家の犯しやすい理論倒れというものである。
 晩期資本主義における貨幣は投資商品としての重要性を高め、通貨自体を売買するFXのような投資行為も盛んであるが、そのような意味において貨幣を象徴する金を「貨幣商品」と呼ぶことならできなくはない。

価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。

 上述の定式から導かれる貨幣の尺度機能論である。より詳しく言えば、「すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自の一商品で計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自の一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである」。
 マルクスは持論の労働価値説を貨幣交換にまで及ぼすことで、結果的にマネタリスト的な特質を示すが、この定式は労働生産物とは言えない物品や無形的なサービス商品が増大した現代資本主義下の貨幣交換の仕組みを説明し切れない。
 ただ、貨幣が価値尺度として機能していることはたしかであり、その機能は貨幣経済が高度化した晩期資本主義ではよりいっそう強くなり、絵画が典型的であるように、芸術作品のような文化的創造物までが貨幣価値で評価される。

価格と価値量との不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性のやみくもに作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。

 例えば、絵画の商品価値は画家が製作に費やした労働時間で決定されるのではないから、「画伯」を冠される一流画家の作品なら、短時間で製作された小品でも、高額な商品価値を持つというように、絵画は価格と価値量の不一致の好例である。
 用心深いマルクスは、ここで前に持ち出した価格形態という概念を使用し、現実の商品価格が労働価値量とは合致しないことの補足説明を試みている。その理由を、マルクスは資本主義市場経済のアナーキーな性質に求めようとしている。そこから、「ある物は、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。」として、労働生産物ではない―マルクスによれば商品ではない―未開墾地のようなモノも価格をもって売買され得ることを説明する。
 おそらく、この説明のほうが実際の市場経済におけるランダムな価格決定の仕組みを上手く説明しているであろう。だが、このように価値形態とは別に価格形態を持ち出して原則的な説明をすりかえてしまうのは、労働価値説の実質的な放棄と言わざるを得ない。
 実際のところ、商品の価格形態は、まさに貨幣交換を一つの原則として確立した資本主義生産様式の文化的な記号のようなものである。この点、マルクスも「価格表現は、数学上のある種の量のように、想像的なものになる。」と述べているとおりである。おそらく、こうした経済人類学的な説明のほうが貨幣の尺度機能を適切に説明できるであろうし、実際、貨幣経済が廃止された未来社会の経済人類学者たちならそのように分析するに違いない。

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「左派ブロック」のすすめ

2014-10-20 | 時評

地元市の地方選挙が始まった。全国的にはほとんど注目されない選挙だが、当市が特異なのは、自民党と共産党が相乗りで現職市長を支えてきた点である。国政では「自共対決」を強調していながら・・・という批判が地元でも聞かれる。

ただ、地方政治では国政ほどに党派対立が存在しないのはどの自治体でも共通傾向であるので、地方で自共相乗りが起きること自体に不思議はない。実際、現在の日本共産党はすでに共産主義革命を放棄し、共産主義の実現を遠い未来の理想として事実上棚上げしているから、自民党とすら部分的に相乗りすることに障害はない。

そうであれば、もう一つの左派政党である社会民主党とは合併すら可能ではないかと思えるのだが、そこには党派性の壁が立ちはだかり、両党の歴史の違いや、棚上げとはいえなお共産主義を放棄していない共産党と、資本主義との共存を前提とする社民党の理念の相違から、合併は望み薄である。

しかし、選挙協力(特に選挙区)と選挙後の統一会派結成というレベルでの緩やかな社共連携なら、十分可能な状況にあり、このような「左派ブロック」はむしろ緊急に必要でもある。

現在の日本政治は自民党はもちろん、当面二大政党の座を滑り落ちた民主党や「第三極」を称する諸政党も含めて、総体として右に動き、左の座標がますます狭くなっている。飛行機にたとえれば、左翼をほぼ失い、右翼だけで飛行するようなもので、墜落は必至である。

左派の政権獲得は望めなくとも、真の第三極としての「左派ブロック」の構築は墜落防止のためにも必要なことである。しかし、その程度の緩やかな連携ですら、現実には困難な状況にある。嗚呼、党派政治の狭量さよ!

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もう一つのW辞任は?

2014-10-20 | 時評

公選法や政治資金規正法違反の疑いを持たれた安倍改造内閣の目玉女性大臣二人がわずか一月で同時辞任という異例の結末となったが、まだ二人残っている。いずれも差別主義的な政党、団体の幹部と写真に納まっていた面々だ。

政治と金(品)の問題はもちろん重要だが、差別主義との関わりもそれと同等かそれ以上に重要だ。うちわや観劇で辞任なら、ネオナチや在特もW辞任に値する。

だが、そうはなりそうにない。写真の大臣たちのほうは、まさに安倍政権の極右的体質を思想的にも映し出す核心人事だからだ。辞任した二人は比較的右派色が薄い面々であったから、深読みすれば、右派の策動で不祥事を暴露され、内閣を追い出されたと見られなくもない。

それが穿ち過ぎとしても、結果として写真の二人は騒動の陰に隠れて、すっかり忘れられかけている。野党やメディアも、うちわを追及するのと同じくらいのエネルギーをもって、ネオナチや在特も追及すべきだが、こちらは専ら外国メディアからの追及にどとまっている点に、差別天国日本の深刻な認識不足がある。

もし「思想の自由」を持ち出すなら、大きな間違いだ。差別思想は、現代の地球的意識水準では、思想の自由の対象外である。自由は無制限ではない、自由と放縦を履き違えるな―。保守主義者はこの科白が好きなはずだ。差別問題にはまさにこの理が妥当する。

実際、反ナチ法や差別禁止法が存在する欧州諸国であれば、政治家とネオナチ団体や差別団体との関わりの態様によっては、法令違反に問われる可能性もあるところである。差別天国ならではの法令の欠如という理由だけで免責されるべきではない。

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アメリカ憲法瞥見(連載第12回)

2014-10-18 | 〆アメリカ憲法瞥見

修正第一三条

1 奴隷制および本人の意に反する苦役は、適正な手続を経て有罪とされた当事者に対する刑罰の場合を除き、合衆国内またはその管轄に服するいかなる地においても、存在してはならない。

2 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。

 本条はリンカーン大統領による奴隷解放宣言を受けて1865年に制定された修正条項であり、まさに奴隷制の禁止を定めている。日本国憲法にも影響し、類似の規定が見える。
 なお、本条と以下で瞥見する諸条項はいずれも公民権に関わる規定群であり、最初の10か条の権利条項の追加条項とも言えるので、順不同となるが、ここでまとめて瞥見する。

修正第一四条

1 合衆国内で生まれまたは合衆国に帰化し、かつ、合衆国の管轄に服する者は、合衆国の市民であり、かつ、その居住する州の市民である。いかなる州も、合衆国市民の特権または免除を制約する法律を制定し、または実施してはならない。いかなる州も、法の適正な過程によらずに、何人からもその生命、自由または財産を奪ってはならない。いかなる州も、その管轄内にある者に対し法の平等な保護を否定してはならない。

2 代議院議員は、各々の州の人口に比例して各州の間に配分される。各々の州の人口は、納税義務のないインディアンを除き、すべての者を算入する。但し、合衆国大統領および副大統領の選挙人の選出に際して、または、連邦代議院議員、各州の行政府および司法府の官吏もしくは州の立法府の議員の選挙に際して、年齢二一歳に達し、かつ、合衆国市民である州の男子住民が、反乱またはその他の犯罪に参加したこと以外の理由で、投票の権利を奪われ、またはかかる権利をなんらかの形で制約されている場合には、その州の代議院議員の基礎数は、かかる男子市民の数がその州の年齢二一歳以上の男子市民の総数に占める割合に比例して、減じられるものとする。

3 連邦議会の議員、合衆国の公務員、州議会の議員、または州の行政府もしくは司法府の官職にある者として、合衆国憲法を支持する旨の宣誓をしながら、その後合衆国に対する暴動または反乱に加わり、または合衆国の敵に援助もしくは便宜を与えた者は、連邦議会の元老院および代議院の議員、大統領および副大統領の選挙人、文官、武官を問わず合衆国または各州の官職に就くことはできない。但し、連邦議会は、各々の院の三分の二の投票によって、かかる資格障害を除去することができる。

4 法律により授権された合衆国の公の債務の効力は、暴動または反乱の鎮圧のための軍務に対する恩給および賜金の支払いのために負担された債務を含めて、これを争うことはできない。但し、合衆国およびいかなる州も、合衆国に対する暴動もしくは反乱を援助するために負担された債務もしくは義務につき、または奴隷の喪失もしくは解放を理由とする請求につき、これを引き受けまたは支払いを行ってはならない。かかる債務、義務または請求は、すべて違法かつ無効とされなければならない。

5 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項の規定を実施する権限を有する。

 本条は様々な内容を寄せ集めたアメリカ的な憲法規定であるが、全体を通じてやはり前条と同様に、奴隷解放を受けた修正条項である。特に、第一項は平等な市民権の保障とともに、改めて平等な適正手続保障を規定している。
 第二項は、納税義務のないインディアンを除くすべての州民を下院議員の比例配分の基礎となる人口に算入するよう、自由人以外の奴隷を五分の三の端数として算定していた憲法第一条第二項第三号を修正したものである。第四号でも、奴隷喪失や解放に伴う金銭的な債務の引き受け、支払いを合衆国及び州に禁じている。
 なお、第三号は内戦や対外戦争に際して合衆国に敵対した公務員の公務就任権の剥奪とその解除について定めている。

修正第一五条

1 合衆国またはいかなる州も、人種、肌の色、または前に隷属状態にあったことを理由として、 合衆国市民の投票権を奪い、または制限してはならない。

2 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。

 本条までの三か条が奴隷制廃止に伴う修正条項であるが、人種を主な理由とした選挙権差別を禁ずる本条は、公民権法の憲法的基盤である。しかし、当時は南部を中心に人頭税の支払いなどを新たな条件とした公民権差別は続き、人種差別的な選挙人登録制度を禁ずる連邦での本格的な公民権法の制定は、本条制定(1870年)からおよそ一世紀後の1964年のことであった。

修正第一九条

1 合衆国またはいかなる州も、性を理由として合衆国市民の投票権を奪い、または制限してはならない。

2 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。

 人種に続き、性を理由とする選挙権差別を禁ずる本条は、女性参政権の憲法的根拠である。1920年の制定であった。

修正第二四条

1 合衆国またはいかなる州も、大統領もしくは副大統領の予備選挙その他の選挙、大統領もしくは副大統領の選挙人の選挙、または連邦議会の元老院議員もしくは代議院議員の選挙において合衆国市民が投票する権利を、人頭税その他の税を支払っていないことを理由にして奪い、またはこれを制限してはならない。

2 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。

 本条は納税による選挙権差別を禁ずるものであり、人頭税の支払いができない黒人貧困層や納税義務を負わないインディアン部族が選挙から排除されないように配慮したものである。これをもって、ようやく米国における普通選挙制が確立された。1964年公民権法制定の同年に成立した修正条項である。

修正第二六条

1 合衆国またはいかなる州も、年齢を理由として、年齢一八歳以上の合衆国市民の投票権を奪い、または制限してはならない。

2 連邦議会は、適切な立法により、この修正条項を実施する権限を有する。

 選挙年齢を18歳に引き下げた修正である。米国では成人年齢は州ごとに異なるが、本条はそうした成人年齢とは切り離して、選挙年齢を全米で統一して18歳に定めたものである。選挙年齢に下限を設定すること自体は合理性を持つが、年齢による制限を合理的な限度まで緩和したものと言える。1971年に制定された公民権関連では最新の修正条項である。

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アメリカ憲法瞥見(連載第11回)

2014-10-17 | 〆アメリカ憲法瞥見

修正条項

 米憲法は厳格な硬性憲法であり、改正は容易でなく、全面改正は事実上不可能であることから、必要に応じて原条項を追加または修正する条項を後から増補することで実質的な改憲を積み重ねるという便宜的な方法を採ってきた。そうした増補は1791年から始まり、最新は1992年まで計27の修正条項が積み重ねられている。
 本稿では、体系性を欠く27条項を順番に見ていくのではなく、権利条項、公民権条項、選挙/議会関係、大統領、財政の関連項目ごとに分けて、順不同に見ていくこととしたい。

修正第一条

連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。

 修正条項のうち、最も早い1791年に増補された最初の10か条は特に「権利条項」と呼ばれ、立法・行政・司法の統治機構の規定が中心となる憲法本文ではほぼ除外されていた基本的人権に関わる条項を増補したものである。言わば、アメリカ版人権宣言である。
 その筆頭になる本条は、信教の自由、表現の自由、集会の自由、請願権をまとめて保障する条項である。信教の自由は政教分離を含んでいる。請願権を自由権と結び付けてとらえている点に独自性がある。

修正第二条

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、侵してはならない。

 権利条項にこうした武器所持の権利が規定されているのは、「自助/自救社会」アメリカならではのことである。ただ、本条は文字どおりにとれば、民兵組織の権利を規定しており、個人の武器所持の権利とは異なるようにも読めるが、連邦最高裁判所は本条をもって個人の武器所持の権利を保障するものと解釈しているため、銃器の厳格な規制を阻む要因となっている。

修正第三条

平時においては、所有者の承諾なしに、何人の家屋にも兵士を宿営させてはならない。戦時においても、法律の定める方法による場合を除き、同様とする。

 軍隊の民家強制宿営を禁止する本条は、軍隊の基地と兵舎の制度が整備されていなかった18世紀ならではの規定である。

修正第四条

国民が、不合理な捜索および押収または抑留から身体、家屋、書類および所持品の安全を保障される権利は、これを侵してはならない。いかなる令状も、宣誓または宣誓に代る確約にもとづいて、相当な理由が示され、かつ、捜索する場所および抑留する人または押収する物品が個別に明示されていない限り、これを発給してはならない。

 本条から修正第八条までは広い意味でのデュー・プロセスに関わる規定が続く。権利条項が最も力点を置いている箇所であり、米憲法の真髄ともなっている。日本国憲法にも影響を与え、類似の条項がある。
 筆頭の本条は、デュー・プロセスの中でも最も重要な捜索押収と身柄拘束を令状規制下に置くいわゆる令状主義の原則を定めている。 

修正第五条

何人も、大陪審による告発または正式起訴によるのでなければ、死刑を科しうる罪その他の破廉恥罪につき公訴を提起されることはない。但し、陸海軍内で発生した事件、または、戦争もしくは公共の危機に際し現に軍務に従事する民兵団の中で発生した事件については、この限りでない。何人も、同一の犯罪について、重ねて生命または身体の危険にさらされることはない。何人も、刑事事件において、自己に不利な証人となることを強制されない。何人も、法の適正な過程によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。何人も、正当な補償なしに、私有財産を公共の用のために収用されることはない。

 本条がデュー・プロセス条項の中核である。具体的な内容は、重大犯罪における大陪審による訴追、二重の危険の禁止、自己負罪拒否、適正手続保障、公共収用における補償である。

修正第六条

すべての刑事上の訴追において、被告人は、犯罪が行われた州の陪審であって、あらかじめ法律で定めた地区の公平な陪審による迅速かつ公開の裁判を受ける権利を有する。被告人は、訴追の性質と理由について告知を受け、自己に不利な証人との対質を求め、自己に有利な証人を得るために強制的手続きを利用し、かつ、自己の防禦のために弁護人の援助を受ける権利を有する。

 本条は、刑事裁判における被告人の権利を保障している。具体的な内容は、陪審裁判を受ける権利、迅速な公開裁判を受ける権利、訴追内容に関して告知を受ける権利、証人の対質・喚問権、弁護権である。

修正第七条

コモン・ロー上の訴訟において、訴額が二〇ドルを超えるときは、陪審による裁判を受ける権利は維持される。陪審が認定した事実は、コモン・ロー上の準則による場合を除き、合衆国のいかなる裁判所もこれを再び審議してはならない。

 本条は一定以上の訴額の民事訴訟についても、陪審裁判を受ける権利を保障し、陪審の認定に原則的な拘束力を与えている。

修正第八条

過大な額の保釈金を要求し、過大な罰金を科し、または残酷で異常な刑罰を科してはならない。

 過大な保釈金、罰金、残酷異常な刑罰を禁ずる本条は、要するに行き過ぎた正義を防止する条項で、これも広い意味でデュー・プロセスに関わる規定である。

修正第九条

この憲法の中に特定の権利を列挙したことをもって、国民の保有する他の権利を否定し、または軽視したものと解釈してはならない。

 本条は、増補された権利条項でも代表的な権利を簡単に列挙したのみであるので、憲法に規定のない権利は憲法上保障されないという狭い解釈を排除する注意条項である。

修正第一〇条

この憲法が合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される。

 本条は州の権限留保についても併せて規定しているため、純粋の権利条項ではないが、合衆国が明確に持たない権限は州ないし国民に留保されるという広い意味での権利条項であり、「小さな政府」を基調とするアメリカ型連邦制のあり方を反映している。

修正第一一条

合衆国の司法権は、合衆国の一州に対して、他州の市民または外国の市民もしくは臣民が提起したコモン・ロー上またはエクイティ上のいかなる訴訟にも及ぶものと解釈されてはならない。

 本条は合衆国司法権の及ぶ対象から「合衆国の一州に対して、他州の市民または外国の市民もしくは臣民が提起したコモン・ロー上またはエクイティ上のいかなる訴訟」をも排除するものであり、直接には憲法第三条第二項を修正する規定である。
 通常本条は権利条項に含めないが、州の権限を尊重し、連邦の権限を限定する点では、前条の趣旨ともつながる規定である。なお、1795年に制定された本条までが18世紀中に成立した修正条項である。

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英国労働党史(連載最終回)

2014-10-15 | 〆英国労働党史

結語

 ブレア政権を継いだブラウン政権は、ちょうどかつてサッチャー政権を継いだメイジャー政権のようなものであった。熱気の中で始まった先行長期政権との比較から、必要以上に過小評価され、首相の指導力不足が指摘された。
 ブラウン政権に代わって初の総選挙となった2010年総選挙では、ブレアを立てた13年前の労働党と同様、若く新鮮イメージのデーヴィッド・キャメロンを党首に立てた保守党が勝利し、政権を奪還した。
 こうして「第三の道」は正式に終幕した。同時に、それは労働党史上最長の二代13年に及んだ与党生活の終わりであった。この「第三の道」時代は好況続きであったことも、歴史的な長期政権を可能とした追い風であったが、そうした風も2008年の世界大不況でやんでいた。
 ここでもう一度振り返ると、英国労働党はマルクス主義諸政党や共産党とは一線を画した英国独自の社会主義的な労働者階級政党として結党されるも、柔軟な党運営により、旧来の自由党に取って代わり、保守党に対抗する議会政党として議会政治に深く根を張った。その間、党は浮沈を繰り返しながらも資本主義の修正を試み、最終的には資本主義と完全に共存する第二の自由党として再生された。
 結果的に、第三極として現在は保守党と連立を組む自由民主党との差も相対化している。米国ほどではないが、「第三の道」以降、労働党が中道に寄ることで、英国政治のスペクトラムも狭まり、共産党を押しのけて労働党が埋めてきた左派の領域が空白になっている。10年総選挙で、小選挙区制の難関を突破して環境政党・緑の党が初めて1議席を獲得したのも、そうした左派の空白を埋めようとする小さな動きとも取れる。
 かつて労働党が自由党に取って代わったように、緑の党が労働党に取って代わるのか、それとも「英国の謎」を解き放って遅ればせながら英国でも共産党が台頭してくるのか、まだはっきりと見通せない。
 それは「第三の道」を終えた労働党が今後どこへ行くのかにもよるが、これもまだ未知数である。さしあたり、ブラウン党首を継いだのは1969年生まれという若手のエド・ミリバンドである。彼はやはり労働党の若手有力議員であった兄のデーヴィッドとともに著名なマルクス主義政治学者ラルフ・ミリバンドを父に持つが、マルクス主義者ではない。
 ブラウン内閣で外務大臣を歴任したブレア派の兄と党首選で争ったミリバンドは、「第三の道」からは距離を置こうとしているように見える。彼は「前分配政策」という理念の支持者を公言する。それは税や社会給付による公正な分配以前の段階で、政府が平等性を確保しなければならないという理念であり、伝統的な党内左派の福祉国家理念からも離脱しようとしているとも言えるが、その内容は曖昧で実質に欠けるところがある。
 スコットランド独立問題の背後に潜む地域間格差や、宗教テロの温床となる移民社会との格差などの問題が表面化する中、労働党は「第三の道」の復刻か、左派への原点回帰かの岐路に立っている。(了)

[追記]
2015年総選挙の結果、労働党は20以上議席を減らし、ミリバンド党首は辞任した。敗因は、労働党の伝統的地盤であるスコットランドで台頭してきたスコットランド民族党(スコット党)に議席の大半を奪われたことにあった。代わってスコット党は議席を大きく伸ばし、保守・労働に次ぐ第三党に躍進した。スコットランド地盤を半永久的に失った労働党にとっては万年野党か、イデオロギー的には近いスコット党との共闘かの選択を迫られることになろう(詳しくは拙稿参照)。その場合、「第三の道」復刻か、原点回帰かという点に関して言えば、伝統的左派路線に近いスコット党はブレア主義には否定的と見られ、「第三の道」復刻路線は非共闘・万年野党化―あるいは保守党との大連立―の道となるのではないだろうか。

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英国労働党史(連載第11回)

2014-10-14 | 〆英国労働党史

第5章 「第三の道」と復活

3:ブレア時代(1)
 1994年に労働党党首に就任し、結党理念から大改造したブレアの下で最初の選挙となった1997年総選挙は、こうした「再生労働党」を有権者の審判に委ねる選挙となった。対戦相手は前回選挙と同じ、メイジャー保守党であった。
 前回選挙でも保守党は議席を減らしていたが、冴えない印象のメイジャー首相は不人気であり、対照的に弁舌鋭く、さわやかイメージの若いブレア人気もあり、保守党敗北が予測された。結果は、想定を超える労働党の圧勝であった。労働党は空前の418議席を獲得したのに対し、保守党はわずか165議席の惨敗で、スコットランドとウェールズでは全議席を喪失するありさまであった。
 こうした圧勝の熱気の中でスタートしたブレア政権は、これまた労働党史上最長の10年に及ぶことになるが、それは大きく前半期と後半期とに分けることができる。
 ブレア政権は党内左派の視点では右派的と一元的に断じられることが多いが、仔細に見れば前半期のブレア政権の施策は保革二面性を備えていた。保守的側面は、労組抑圧や民営化といったサッチャー「革命」の枠組みを全否定せず、継承した点である。特に教育や医療の分野では市場・競争原理をサッチャー‐メイジャー時代より拡大した面もあり、左派の批判にさらされた。
 一方、革新的な側面としては、大陸的な最低賃金制度の導入や、労働者の権利強化などの左派路線にも沿う一連の社会経済改革がある。また名誉職化していた上院(貴族院)議員の世襲貴族議席を削減し、一代貴族中心に再編した上院改革や、連合王国を構成するスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの自治権を強化するなどの民主的な改革も革新的な面である。
 こうした保革二面性は労働党の伝統的支持基盤である労働者階級やスコットランドなど周縁地の地盤をつなぎとめながらも、かねて「サッチャリズム」の支持者であった中産階級にも食い込むというブレアの党再生戦略とも符合するものであった。
 21世紀最初の英国総選挙となった2001年の選挙は、こうしたブレア政権一期目の成果を問う審判となったが、結果は5議席減らしたものの、ほぼ現状維持での勝利であった。この選挙では投票率が初の普通選挙年とされる1918年以来最低を記録したが、それも「第三の道」に対する有権者の暗黙の支持と言えた。

4:ブレア時代(2)
 ブレア政権の右派的な性格が増すのは、イラク戦争をはさんだ後半期である。ブレア政権の軍事政策は、労働党伝統の平和主義ではなく、好戦的だったサッチャー政権と似ており、01年の9・11事件に基因する「テロとの戦い」でも、当時のブッシュ米政権と歩調を合わせ、参戦している。
 最も論議を招き、党内左派からも非難を浴びたのが、03年のイラク戦争への参加であった。米国への無条件的な支持に突き進むブレア首相に反発する閣僚や準閣僚らが相次いで辞任し、政権の分裂が表面化する中、ブレアは批判を顧みずイラク参戦に突き進んだ。
 周知のように、イラク戦争では開戦の大義名分とされたイラクによる大量破壊兵器保持の事実がなかったことが事後に判明したことから、ブレア首相に対する左派や戦没兵士遺族らからの批判は強まり、退任後に参戦過程での情報操作疑惑を独立調査委員会からも問われることになった。
 イラク戦争参戦批判は05年総選挙結果にも影を落としている。ブレア政権下で二度目となるこの選挙で、労働党は依然300議席の大台を維持して勝利したものの、50議席近く減らしている。
 治安政策でも後半期のブレア政権では保守政権並みの右派色が強まった。元来、ブレア政権の治安政策は保守的な「法と秩序」政策に近いもので、警察権限の強化やテロ犯罪に対する取締りを強化する反テロリズム法制定などが一期目から進められていたが、総選挙直後の05年7月に起きたロンドン同時爆破事件は、こうした傾向をいっそう強めた。
 テロ事件を受けて議会に提出された新たな反テロリズム法をめぐっては、テロリズムを讃美することを可罰的とし、テロ容疑者を最大で90日間勾留できるとする独裁国家さながらの当初法案が人権上の観点から党内外で厳しい批判を浴びたため、下院でも否決され、大幅に修正のうえ成立した。
 ブレア政権にとって下院での法案否決は、97年の政権発足以来、初めてのことであり、イラク戦争以後のブレア政権が身内の与党内でも支持基盤を弱めた証拠とみなされた。
 実際、ブレア首相は06年には早期退陣の意向を表明し、三度目の選挙を待たず、政権発足10年の節目となる07年に退任した。後任にはブレア内閣で一貫して財務大臣を務めてきたゴードン・ブラウンが就き、ブレア政権は終幕した。

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英国労働党史(連載第10回)

2014-10-13 | 〆英国労働党史

第5章 「第三の道」と復活

1:苦節18年
 1979年総選挙でサッチャー保守党に敗れた労働党は、その後、総選挙では三連敗と野党生活が続くが、97年総選挙でようやく政権を奪還するまでの苦節18年は、党史上「荒野の時代」と呼ばれている。
 この間、またもや左右両派の党内抗争が勃発した。しかし党内では依然左派が優勢であり、一部右派は81年に離党して新党・社会民主党を結成した。これは労働党史上初の明確な分裂であった。
 この新党は名称こそ社会民主党を名乗るが、マルクス主義政党に沿革を持つドイツや北欧諸国の同名左派政党とは異なり、リベラル保守の自由党とも相当程度重なる中道政党であった。事実、両党は83年総選挙では共同マニフェストの下に選挙戦を展開し、88年に至り合併した(89年以降、自由民主党として現在に至る)。
 一方、労働党では80年に党首に就任した左派マイケル・フットの下、83年総選挙では銀行国有化や福祉増税、一方的核廃絶など左派色の濃厚なマニフェストを提示して原点回帰戦略を取ったが、結果は世論調査などで予見されていたとおりの惨敗であり、サッチャー保守(反)革命を持続させただけであった。
 この敗北を受けて辞任したフットの後任には、ニール・キノックが就いた。キノックも左派の出身であったが、より現実主義的であった彼は左派色を薄める方向に出た。しかしキノック指導下でも党勢回復は進まず、87年、92年と総選挙では連敗し、結果的に9年間に及んだキノックの野党党首在任は英国史上最長記録となった。
 このようにキノック時代は冴えない印象であるが、キノック時代に労働党の左派色が漸次薄められていったという点では、彼こそ90年代末以降の「第三の道」を準備したとも言える。

2:ブレアの登場
 キノック党首の下では最後の総選挙となった92年総選挙は、保守党側も11年にわたって首相を務めたサッチャーが90年に退任し、ジョン・メイジャー首相に交代して初めての選挙であった。メイジャーは「鉄の女」サッチャーとは異なり、いささか陰の薄い首相であり、労働党にとっては巻き返しのチャンスであったが、この時も労働党は議席をある程度取り戻したものの、政権奪回には届かなかった。
 より大胆な党再生戦略が必要とされていた時に現れたのが、トニー・ブレアであった。ブレアは保守党員で弁護士の父を持ち、自身も弁護士であった。彼はフット党首の時代に労働党国会議員となり、早くから将来のリーダー候補として注目されていたところ、キノックの後継になったジョン・スミス党首急死を受けた94年の党首選で当選し、初の戦後生まれの労働党リーダーとなった。
 ブレアの党再生戦略は、それまでの労働党主流とは一線を画し、党の支持基盤を保守党支持の中産階級にも食い込ませるというものであった。そのために、彼は1918年以来の歴史を持つ党規約第4条の削除を主導した。同条は生産・分配・交換手段の共有化をテーゼとする社会主義的な条項であり、従来の労働党の半社会主義政策の根拠ともなる党のバックボーンであった。党内右派はこの条項の削除を悲願としていたが、左派が優勢な時代には実現できなかった。
 しかし、野党暮らしの長期化という党の危機に直面して、もはや第4条削除に強硬に反対する勢力はなかった。ブレアはこの条項を「社会民主主義」に置き換えた。これによって、英国労働党は独自の社会主義政党から大陸型の社民主義政党に転換したとも言える。またブレア指導部は党の伝統的な最大支持基盤である労組の党大会における投票権を制約し、個人の一般党員の投票権を拡大することで、党の労組依存構造の転換も図った。
 こうした労働党の中道政党化を目指すブレアの党改革は―言わば労働党の旧自由党化―「第三の道」と称されるようになるが、伝統的な図式で言えば、明らかに右派的な傾向を持つ反動化路線でもあった。
 ブレアは従来であれば党内左派の妨害によって実現不能であった党是に触れる「改革」を大きな抵抗にも直面せず3年ほどでやってのけたが、このことは当時の労働党がそれほどに危機的状態にあったことの証しでもある。

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旧ソ連憲法評注(連載第19回)

2014-10-11 | 〆ソヴィエト憲法評注

第十章 自治ソヴィエト社会主義共和国

 自治共和国制度は多民族国家ソ連に特有の民族自治制度であり、ソ連解体後は、ロシアをはじめとする旧ソ連諸国に引き継がれている。

第八十二条

1 自治共和国は、連邦構成共和国の一部分である。

2 自治共和国は、ソヴィエト連邦および連邦構成共和国の権利の範囲外で、その管轄に属する問題を自主的に解決する。

3 自治共和国は、ソ連憲法および連邦構成共和国憲法に適合し、自治共和国の特殊性を考慮した自分の憲法をもつ。

 本条にあるとおり、自治共和国は独自の憲法を持ち、15の連邦構成共和国の内部に設定される少数民族主体の自治体であった。

第八十三条

1 自治共和国は、ソヴィエト連邦および連邦構成共和国の国家権力および行政の最高諸機関をとおして、ソヴィエト連邦および連邦構成共和国のそれぞれの管轄に属する問題の解決に当たる。

2 自治共和国は、その領土における総合的な経済的、社会的発展を保障し、その領土におけるソヴィエト連邦および連邦構成共和国の権限の行使に協力し、ソ連および連邦構成共和国の国家権力及び行政の最高諸機関の決定を実施する。

3 自治共和国は、その管轄に属する問題について、連邦または共和国(連邦構成共和国)に属する企業、施設および団体の活動を調整し、監督する

 本条は自治共和国の権限規定であるが、これは連邦構成共和国に関する第七十七条に相当するもので、自治共和国は自治体といいながら、ソ連および自治共和国が内包される連邦構成共和国の名代の役割を負わされた。

第八十四条

自治共和国の領土は、その同意がなければ変更されない。

 自治共和国の領土の保障規定である。連邦構成共和国と異なり、包摂自治体のため、国境線の概念はなかった。

第八十五条

・・省略・・

 自治共和国はソ連全土に存在したわけではなく、77年憲法制定当時は連邦構成共和国のうち、ロシア、ウズベク、グルジア、アゼルバイジャンの4共和国内にしか設定されておらず、本条にその名称が列挙されていた。

第十一章 自治州および自治管区

 自治州及び自治管区は、自治共和国よりも権限の限られた小さな民族自治体であった。

第八十六条

自治州は連邦構成共和国または地方の一部分である。自治州にかんする法律は、自治州人民代議員ソヴィエトの提案にもとづき、連邦構成共和国最高会議が採択する。

 自治州は独自の立法機関を持たなかったため、それが属する連邦構成共和国の最高会議が委託により、代行立法していた。

第八十七条

・・省略・・

 77年憲法制定当時自治州が設定されていたのは、ロシア、グルジア、アゼルバイジャン、タジクの4共和国であり、本条にその名称が列挙されていた。

第八十八条

自治管区は、地方または州の一部分である。自治管区にかんする法律は、連邦構成共和国最高会議が採択する。

 自治管区は自治州よりも権限の限られた小さな民族自治単位であり、立法はあげて連邦構成共和国最高会議が行なっていた。

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旧ソ連憲法評注(連載第18回)

2014-10-10 | 〆ソヴィエト憲法評注

第九章 連邦構成ソヴィエト社会主義共和国

 前章に続いて、本章では連邦を構成する共和国の定義と権限が規定されている。

第七十六条

1 連邦構成共和国は、他のソヴィエト共和国とともにソヴィエト社会主義共和国連邦に統合された主権的ソヴィエト社会主義国家である。

2 連邦構成共和国は、ソ連憲法第七十三条にのべられた範囲の外において、その領土で国家権力を自主的に行使する。

3 連邦構成共和国は、ソ連憲法に適合し、共和国の特殊性を考慮した自分の憲法をもつ。

 連邦構成共和国は、ソ連邦に統合されながらも、独自の憲法を持ち、連邦管轄事項以外の事項については、自国領土で国家権力を行使する、それ自体も一個のソヴィエト社会主義国家であるとされる。表面上は、通常の連邦国家の州よりも強力な自治権が保障されているように見えるが、後で明かされるように、実態はそうでなかった。

第七十七条

1 連邦構成共和国は、ソヴィエト連邦の管轄に属する問題の解決に参加し、ソ連最高会議、ソ連最高会議幹部会、ソ連政府およびソヴィエト連邦の他の機関に参加する。

2 連邦構成共和国は、その領土におけるソヴィエト連邦の権限の行使に協力し、ソ連の国家権力および行政の最高諸機関の決定を実施する。

3 連邦構成共和国は、その管轄に属する問題について、連邦に属する企業、施設および団体の活動を調整し、監督する。

 連邦構成共和国は、ソ連全体に関わる問題の解決に連邦諸機関を通じて参加する一方で、連邦の協力機関として、連邦の名代も務めさせられた。どちらといえば、後者の役割が主であった。

第七十八条

連邦構成共和国の領土は、その同意がなければ変更されない。連邦構成共和国間の国境線は、当該共和国の合意により変更され、この合意はソヴィエト連邦の承認を必要とする。

 連邦構成共和国の領土及び国境線に関する保障規定である。

第七十九条

連邦構成共和国は、その地方、州、管区および地区への区分を決定し、行政区画のその他の問題を解決する

 連邦構成共和国は、それぞれ四段階の地方行政単位を持つことができた。

第八十条

連邦構成共和国は、外国と交渉し、条約をむすび、外交代表および領事代表を交換し、国際組織の活動に参加する権利をもつ。

 この条文だけ読めば、連邦構成共和国には独立国並みの自主外交権が備わっているかのようであるが、第七十三条第十号で「連邦構成共和国と諸外国および国際組織との関係の統一的手続きの制定および調整」が連邦管轄となっていること、次条で連邦構成共和国がソ連邦の保護国扱いとなっていることから、実際上、外交はソ連邦が一元的に行なっていた。

第八十一条

連邦構成共和国の主権的権利は、ソヴィエト連邦の保護をうける。

 最後に、冒頭第七十六条では「主権的ソヴィエト社会主義国家」と規定された連邦構成共和国が、実はソ連邦の保護国として主権制限されていることが種明かしされて、第八章は閉じられる。

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旧ソ連憲法評注(連載第17回)

2014-10-09 | 〆ソヴィエト憲法評注

第三編 ソ連の民族的国家構造

 ソ連憲法第三編から第七編までは、統治機構に関する長大な条文群が並ぶ。筆頭の第三編では、連邦体制の全体像が定められている。ソ連の連邦体制はアメリカのような州の連合ではなく、多民族国家の現実に合わせ、それ自身の内部に自治共和国や自治州などを蔵する民族共和国の連合―共和国連邦―という特殊な構制を採っていた。第三編では、そうした「民族的国家構造」の仕組みが示されている。

第八章 連邦国家ソ連

 第三編冒頭の第八章では、ソ連の中核を成す連邦の定義と権限が規定されている。

第七十条

1 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、社会主義的連邦制の原則にもとづき、諸民族の自由な自決および同権のソヴィエト社会主義共和国の自由意志による統合の結果、結成された統一的な連邦的多民族国家である。

2 ソ連は、ソヴィエト人民の国家的統一を体現し、共産主義の共同建設のために、すべての民族および小民族を団結させる。

 連邦制の宣言条項であるが、第一項では民族自決と対等な連邦形成が強調されている。しかし、実際は、バルト三国のように強制併合によって編入された共和国を含んでおり、本条項は多分にしてプロパガンダ条項であった。
 第二項ではソヴィエト人民の国家的統一と共産主義建設のための民族的団結が宣言され、第一項と第二項には齟齬がある。実際の連邦運営に当たっては、第二項が指示する統合性が優先されていたことは明白であった。

第七十一条

ソヴィエト社会主義共和国連邦に、次のものが統合される。

・・省略・・

 本条は、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国を筆頭に、ソ連邦を構成する15の共和国名のリストとなっていた。

第七十二条

各連邦構成共和国には、ソ連から自由に脱退する権利がのこされる。

 第七十条で「自由意志による統合」が謳われていた手前、構成共和国の自由な脱退権が認められていたわけだが、形式的なもので、実際、ソ連が存在していた間に本条に基づいて脱退した共和国はなかった。

第七十三条

ソヴィエト社会主義共和国連邦の国家権力および行政の最高の諸機関によって代表されるソ連の管轄には、次のことが属する。

一 新共和国のソ連への加入。連邦構成共和国の一部分として新しい自治共和国および自治州をつくることの承認
二 ソ連の国境線の決定および連邦構成共和国間の境界線の変更の承認
三 共和国および地方の国家権力および行政の諸機関の組織および活動の一般原則の制定
四 ソ連の全領土における法令による規則の統一の保障ならびにソヴィエト連邦および連邦構成共和国の法令の原則の制定
五 統一的社会経済政策の実施。国の経済の指導。科学、技術の進歩の基本方向および天然資源の合理的利用と保護の一般的措置の決定。ソ連の経済的、社会的発展国家計画の作成および承認ならびにその遂行報告の承認
六 統一的なソ連国家予算の作成および承認、その執行報告の承認、統一的な貨幣制度および信用制度の指導、ソ連の国家予算の編成にあてられる租税その他の財源の制定ならびに価格および労働報酬の分野の政策の決定
七 連邦所属の国民経済部門、企業統合体および企業の指導。連邦的・共和国的所属の部門の一般的指導
八 平和および戦争の問題、主権の防衛、ソ連の国境線および領土の保護、防衛の組織ならびにソ連軍の指導
九 国家的安全の保障
十 国際関係においてソ連を代表すること、ソ連と諸外国および国際組織との交渉、連邦構成共和国と諸外国および国際組織との関係の統一的手続きの制定および調整ならびに国家独占にもとづく貿易およびその他の種類の対外経済活動
十一 ソ連憲法の遵守の監督および連邦構成共和国憲法がソ連憲法に適合することの保障
十二 全連邦的意義をもつその他の問題の解決

 連邦の権限を列挙した規定である。連邦国家では必須となる条項であるが、アメリカ憲法の対応条文と比較すると、アメリカ憲法では連邦議会の権限として列挙していたのに対し、ソ連憲法では行政的な権限として列挙している点に大きな違いがある。
 内容的にも、アメリカ憲法が連邦の権限を極力防衛を中心とした消極的なものに限定する分権型連邦制を採るのに対し、ソ連では第十二号の包括条項に見られるように、連邦権限は経済指導を含む広範な領域にわたっており、中央集権性の強い連邦制であることが特徴である。

第七十四条

ソ連の法律は、すべての連邦構成共和国の領土で同じ効力をもつ。連邦構成共和国の法律が全連邦的法律と抵触したときは、ソ連の法律が効力をもつ。

 連邦制では当然の確認的な法令効力規定である。

第七十五条

1 ソヴィエト社会主義共和国連邦の領土は単一であり、連邦構成共和国の領土をふくむ。

2 ソ連の主権は、その全領土におよぶ。

 これも連邦国家では当然の領土規定であるが、連邦領土の単一性と包括性を再確認しており、ここにも統合性を優先する発想が見え隠れする。

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