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貨幣経済史黒書(連載最終回)

2021-11-07 | 〆貨幣経済史黒書

後記

 本連載では貨幣経済史の暗部を、貨幣にまつわる計40の事件・事変を取り上げて見てきたが、これらの事例は全体のほんの一部であり、取り上げるべき事例はその何倍もあるであろう。いずれにせよ、その最後を飾るのは、物体としての貨幣が姿を消して、電子的にやりとりされる価値に抽象化されてしまう暗号通貨にまつわる事件であった。
 しかし、その項でも指摘したように、暗号通貨の普及は貨幣経済の廃止を意味しておらず、単に物体としての貨幣が取引上姿を消したまでであり、むしろ貨幣が表象する交換価値はしっかりと残存しているのである。
 従って、暗号通貨にまつわる怪事件は、貨幣経済の終焉という意味での「最期」の事件ではない。貨幣経済の終焉は、まさに貨幣という有史以来の交換手段そのものが廃されることを意味しており、それこそが貨幣経済の暗黒から人類が解放される時である。
 実際、近代になって貨幣経済の廃止が構想ないし試行されたことがないわけではなかった。例えば、ロシア10月革命後、ボリシェヴィキの最も急進的な経済理論家らは貨幣経済を廃した純正な共産主義経済システムの構築を構想したが、「革命的現実主義者」が支配的な中、結局のところ、実行に移されることはなかった。
 実際に経済政策として貨幣経済の廃止を断行したのは、1970年代の革命で政権を掌握したカンボジアの共産党過激派(クメール・ルージュ)であった。かれらは原始共産制を夢想し、徹底した農本主義に立って貨幣経済を廃止したうえ、農村共同体を通じた物々交換経済を導入したが、結果は経済的な破局であった。
 有史以来の貨幣経済の廃止を突然断行すれば、大破局を来たすのは当然であり、クメール・ルージュは貨幣経済の暗黒から脱しようとして、かえって別の暗黒を作り出してしまったと言える。よって、この事例は貨幣経済史黒書の一部に含めてもよいものである。
 貨幣経済史の正しい終焉は、周到に準備された全世界レベルでの貨幣廃止のプロセスと、地球規模での共産主義経済への移行プロセスによって保証されるであろう。そのプロセスを述べることは本連載の目的を外れるので、別連載『続・持続可能的経済計画論』に譲る。
 ところで、現代の発達した市場経済では、売主側が定めた価格で商品を購入することが強制される定価制度が定着しており、価格交渉の余地のある真の意味での市場経済は、一部の伝統的なバザールやオークションのような分野に限局されている。
 しかし、真の市場経済は価格交渉の自由を伴うものであるから、定価制度に制約された経済はある種の(自主的な)統制経済であり、真の市場経済とは言えない。定価制度は、あらゆる商品について、そのつど価格交渉をすることの煩雑さと、自由価格制が経済にもたらすある種のアナーキー状態を回避するための(調整的な)計画経済とも言える側面を持っている。
 さらに、定価制度は決められた数量の商品を定められた数量の通貨と交換するという限りでは、ある種の(限定的な)物々交換経済とも言える側面を持っており、実は、貨幣経済の廃止へ向けた(無意識的な)ステップでもあると言える。
 また、従来からのクレジットによる信用取引、さらには近年の暗号通貨などのキャッシュレス化の進行は、それ自体、貨幣経済の廃止ではないにせよ、そのつど現金をやり取りする伝統的な交換取引の煩雑さ・不便さを避けたいという動機から開発されてきた仕組みであり、ここにも、貨幣経済への人類の(部分的な)忌避感が介在していると読み取ることもできる。
 貨幣経済の廃止は、決して無謀な夢想ではなく、現在も進行中である貨幣経済史の中にすでに芽生えかけているとさえ言える。だが、最終的な一歩を踏み出す契機となるのは、やはり地球環境問題であろう。この喫緊の問題を本質的に解決するうえでは、貨幣の獲得に人類が日々狂奔する経済システムを根本から撤廃するほかないからである。

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貨幣経済史黒書(連載第41回)

2021-10-24 | 〆貨幣経済史黒書

File40:暗号通貨事件簿

 貨幣経済の技術的な進歩は、物体としての貨幣を直接に交換する現金取引を廃してクレジットのような信用取引、さらには電子化された貨幣価値をやりとりする仮想通貨取引へと、物体としての貨幣が姿を消すという逆説的な現象を引き起こしている。
 ただし、このことはシステムとしての貨幣経済そのものが廃されたことを意味しておらず、貨幣交換が物体としての貨幣ではなく、電子化された貨幣価値のやりとりという抽象化された形態に変化したことを意味しているにすぎない。
 そのため、硬貨や紙幣のような「現金」と対比する意味で「仮想通貨」という用語が使われてきたが、そうした仮想通貨の普及により、資産の存在形態も電子的に暗号化されるようになったため、近年は「暗号通貨」、さらには暗号通貨で形成された資産という含みで「暗号資産」という総称も登場している。
 暗号資産は晩期資本主義における新たな資産形成の方法として注目されているが、国家による信用と管理の下で発行・流通される現金通貨とは異なり、責任ある発行主体も公的な取引所も存在しない私的通貨に近い暗号通貨には多くのリスクが伴う。
 すなわち、暗号資産が文字通り一瞬にして「消失」したり、現金通貨に比べて追跡が困難で、隠匿しやすい暗号資産を利用した恐喝被害に遭うといった新たな事件が近年、頻発している。
 こうした暗号資産の暗部を浮き彫りにする事件の数々は、現時点では現在進行中の同時代史の範疇に入るため、様々な解説が書籍やウェブ上でもなされているので、詳細はそれらに譲るとして、ここでは暗号資産を象徴する三つの事件に触れておきたい。
 一つは、暗号資産の草創期2014年に日本で起きたマウントゴックス事件である(発生当時の拙稿)。これは当時暗号通貨ビットコインの世界最大級の取引所に成長していたマウントゴックスに預託されていた470億円相当ビットコインが「消失」した事件である。
 運営会社は当初サーバーがハッキング被害に遭ったとしていたが、捜査の結果、事件当時のCEO(フランス国籍)自身による業務上横領であった疑いが浮上、同氏が起訴され、有罪判決を受けることとなった。しかし、判決は横領罪に関しては無罪とし、検察側も控訴せず確定したため(私電磁的記録不正作出・同供用罪に関しては有罪確定)、「消失」の真相は未解明である。
 この事件は、言わば暗号通貨の「銀行」に近い機能も持つ取引所がガバナンスに限界のある私企業によって運営されることの危険性を浮き彫りにしたが、会社の説明にあった外部からのハッキングも技術的にはあり得ることで、まさにそれが明らかになったのが、2018年に発生したコインチェック事件である。
 この事件は暗号通貨NEMを扱う取引所コインチェックからNEM約580億円相当がハッキングにより「消失」した事件である。消失するまで約20分という熟練した窃盗犯並みの早業であった。本件も日本に本拠を置く取引所での事件である。
 こうしたことが起きることは予見されており、行政からもセキュリティー対策が勧告されてきたものの、私設取引所の限界ゆえ、どの程度のセキュリティー対策が採られるかは運営会社の経営姿勢次第という心もとなさである。
 *ちなみに、ハッキングによる暗号資産「消失」の被害額においては、2021年8月、中国に拠点を置く分散型金融プラットフォームのPoly Network(ポリ・ネットワーク)で発生した約6億ドル(660億円相当)の被害が現時点での史上最高額とされる。こうした“新記録”は今後も更新されていくだろう。
 さて、三つ目は暗号資産を利用した恐喝事件として、2017年に世界を揺るがせたWannaCry(ワナクライ)事件である。これはコンピュータをWannaCryと称するマルウェアに感染させ機能停止させたうえ、解除の代償として暗号資産ビットコインでの支払いを要求するという人質(コンピュータ質?)事件にも似た恐喝事件であった。
 これは全世界200近い国のうち150か国20万台を超えるコンピュータを感染させるというまさにグローバルな被害を発生させた事案であり、中でも英国の国営無料医療制度である国民健康サービス(NHS)では、数多くのNHS系医療機関でシステム障害により救急を含む医療行為が提供できなくなるという人道的被害さえも生じた。
 こうしたハッキング事件の常として、捜査技術が犯人もしくは犯行グループの“技能”に追いつかず、ほとんど全容解明に結びつくことはない。
 WannaCry事件では、アメリカ政府が北朝鮮との結びつきが疑われるLazarus Group(ラザルス・グループ)なるハッカー集団の関与を示唆、これまでに数人の北朝鮮国籍ハッカーを所在未特定のまま起訴しているが、北朝鮮は関与を否定しており、現実に刑事裁判がなされる可能性は低いだろう。
 かくして、貨幣なき貨幣経済の時代には伝統的な現金経済時代には想像もされなかったSFさながらの怪事件が起きる。暗号資産事件簿はまだ現在進行中であり、今後さらに新事件が追加されていくであろうが、基本的に貨幣経済「史」を扱う当連載では、新事件は論外の話題となる。

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貨幣経済史黒書(連載第40回)

2021-10-03 | 〆貨幣経済史黒書

File39:パナマ文書/パラダイス文書流出事件

 貨幣経済下では、国家といえども貨幣収入を得て‘生活’しなければならないわけであるが、その最大の‘収入源’となるのが税収であることは言うまでもない。他方、徴税される側にとって、納税は強制献金に近い収益減をもたらすもので、とりわけ納税額が巨額に上る富豪層・法人大企業は租税回避への強い欲求に駆られやすい。
 そこで、古くから合法的に納税額を圧縮する租税回避の法的テクニックが開発され、租税回避に積極的に協力することで産業基盤の弱さを補ってきた小国群がある。中でも、中米の小国は外国企業や個人資産管理会社等を税制上特待するタックスヘイブンまたはパラダイス(税金天国)となって、租税回避行為の舞台を提供してきた。
 そうした長年の慣行とその実態が歴史的なスパンと規模とをもって発覚する事件が、2016年から17年にかけて相次いで起きた。通称パナマ文書(2016年)、パラダイス文書(2017年)と呼ばれる法律事務所等の内部文書が流出し、ドイツの南ドイツ新聞が入手、国際調査報道ジャーナリスト連合と連合加盟報道機関によって共同解析されたものである。
 中米パナマの法律事務所から流出したためパナマ文書と通称される内部文書は、1977年から2015年までに作成された1000万件を超える文書や電子メールなどおよそ2.6テラバイトに上る電子データで、現地で設立された約20万件の法人名や個人名も明記されていた。
 名前の挙がった個人は、世界の首脳級政治家や著名経済人、アスリート、芸能人やかれらの親族など多岐に及び、かれらがタックスヘイブンを利用して租税回避や資金洗浄を行っていた実態が明るみに出た。
 一方、パナマ文書と同様の経緯で解析されたパラダイス文書は、英領バミューダ諸島の法律事務所やシンガポールの法人設立サービス会社等から流出した内部文書で、電子データ容量の点ではパナマ文書より少ないものの、期間的には1950年から2016年というまさに歴史的な長期間に及び、かつ舞台となった国・地域も中米のほか欧州のマルタを含む19に及ぶ総合的な資料―というより史料―であった。
 ここでも、首脳級政治家や著名経済人、アスリート、芸能人やその親族のほか、アップルやナイキといった巨大多国籍企業の名も明記され、多国籍資本による租税回避行為の実態も明らかになった。
 この文書で暴露された手口のうち、資金洗浄は違法行為となる可能性があるが、タックスヘイブンに資産管理会社を設立して資産運用を行うオフショア投資は合法的な節税の手段であり、いわゆる脱税に当たらないということが重要である。
 もっとも、実質的に見れば、ペーパーカンパニーに近い在外会社に資産を移転するのは資産隠しも同然であり、こうした手法が「合法」とされるのは法の抜け穴にすぎないが、法の制定に関わる政治家もしばしば租税回避行為の実践者であるから、法の抜け穴封じに動くことはなく、むしろ内部文書の流出阻止の法的スキームの構築に動くだろう。
 そのため、こうした流出文書によって明るみに出たケースはまさに氷山の一角、ほんの一部でしかない。とはいえ、両文書によって、貨幣経済の極致とも言える現代資本主義社会における致富行為の技術的な手法が生々しい形で明らかにされたことも疑いない。
 とりわけ、多国籍資本は国という政治的な枠組みを超えて活動する経済的アクターであるから、一国での課税に縛られずに活動する。一方で、国際連合のような国際機関には徴税権がないため、多国籍資本全体に一律課税することは不可能である。
 一方、資本主義社会は身分より能力(=金を稼ぐ能力)に基づく社会と喧伝されているわけだが、金を稼ぐ能力に加え、稼いだ金を隠す能力が致富の秘訣であることも明確になった。同時に、名前の挙がった富豪層・大資本の資産額の天文学的数値、また富豪層の暮らしぶりは、まさに現代の貴族―大資本も法人貴族と言える―と呼ぶにふさわしいものである。
 しかも、両文書でしばしば著名人の親族の名が挙がるように、蓄積された資産は能力主義が強調される資本主義社会でも認められている贈与や相続といった能力によらない資産移転制度を通じて親族・子孫にも継承されていくのであるから、富豪層は貴族称号こそ保有しなくとも、経済的な面では世襲貴族も同然の存在である。
 ちなみに、当「黒書」にふさわしい付随的事件として、パナマ文書で名前の挙がった首相側近者を含むマルタの有力政治家の疑惑を拡大的に追及していた同国の女性調査報道ジャーナリスト、ダフネ・カルーアナ・ガリジアは2017年10月、車爆弾により暗殺された。報道に対する報復殺人と見られている。

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貨幣経済史黒書(連載第39回)

2021-08-22 | 〆貨幣経済史黒書

File38:欧州債務危機とキプロス・ショック他

 貨幣経済下では、国家も国民を構成する個人や法人企業と同様、一個の経済人格として貨幣取引をしなければ活動できないが、借財もその一つである。その結果、国家もまさに個人と同様に借金を負い、それが返済不能になるという危機的事態に直面することがある。これが債務危機である。
 ただ、債務危機と言うと、従来は先進国に対する膨大な累積債務を抱えた途上国が返済不能に陥るという、まさに多額の負債を抱え、返済不能に陥った個人と同様の事態が想起され、実際、そうした事例は南米諸国などでしばしば発生している。
 ところが、2010年代に発生した欧州債務危機は、一般には先進国とみなされてきた欧州諸国で連鎖的に債務危機が発生し、世界に余波が及んだため、衝撃を与えた。欧州でこのような危機が生じたのは、実のところ国債(ソヴリン債)が原因であった。その意味では、先進国的債務危機とも言える。
 発端となったのは、ギリシャにおいて国家会計の粉飾決算というまさに企業不正のような事案が2009年の政権交代に伴い発覚したことにあった。これにより、ギリシャ国債の格付けが切り下げられたことで、その価値が暴落した。当時、ギリシャ国債は海外金融機関が大半を保有していたため、その暴落は世界の株価やユーロの為替の下落に直結した。
 このギリシャ国債危機はギリシャ一国で終わらず、当時それぞれの要因から財政赤字を抱えていたポルトガル(P)、アイルランド(I)、イタリア(I)、スペイン(S)にも波及し―ギリシャ(G)を加えた五か国の頭文字を取り、侮蔑的な意味合いでPIIGS諸国と呼ばれた―、さらにギリシャと強い結びつきを持つ同じくギリシャ系の島国キプロス(南キプロス)にも波及し、欧州全域の金融危機に発展したのである。
 中でも特異な経緯を辿ったのは、キプロスである。観光以外に収入源のないこの地中海の小国は金融立国としての発展を目指した結果、当時の同国の銀行資産はGDPの約8倍、預金残高は同じく約4倍にも達しており、金融機関が肥大化していた。
 そこへ経済的な結びつきの強いギリシャからの金融危機の余波が直撃したため、キプロスの銀行に多額の不良債権が発生し、経営危機に陥ることとなった。支援を求めたキプロスに対し、ユーロ圏側は2013年、キプロスの全預金に最大9.9%の課税を導入する条件での支援を決めた。
 これは実質上、キプロスの銀行預金者に一律10パーセント近い預金削減を強いるに等しい内容のため、パニックに陥った預金者が銀行に殺到、ATMの準備金がショートする羽目になった。この大混乱を解決するため、最終的に、大手二行の整理に加え、10万ユーロ超の大口預金者に絞って破綻処理費用を負担させる修正案で合意し、事態を収拾したのであった。
 このように、キプロスでは、金融危機に際して銀行預金の一方的削減など金融機関の利用者や受益者に負担を強制するベイル‐イン(bail-in)と呼ばれるショック療法的な新手法が初めて適用されたことで、キプロス・ショックと呼ばれるようになった。
 ところで、国債と言えば、日本も膨大な国債の債務を負っている国として名高いが、日本国債は伝統的に日本国内での保有率が高く、海外金融機関の保有率は10パーセントに満たない。しかし、償還期限が一年内の割引国債である国庫短期証券を加えると10パーセント超となっており、予断を許さない。
 日本国債はある種の鎖国状態を保つことで破綻を先送りできる仕組みではあるが、国債で財政を補う借金経営を永遠に続けていれば、いずれは返済不能に陥ることは個人と同じである。
 その点、現今のパンデミックに対応する経済対策により赤字国債の発行が増え、財政赤字が拡大していることを懸念し、大手格付け会社が昨年、日本国債の将来見通しを引き下げる動きを見せた。エコノミストらは格付けそのものは引き下げられていないとして楽観しているようであるが、果たしてどうか。

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貨幣経済史黒書(連載第38回)

2020-09-20 | 〆貨幣経済史黒書

File37:投資の陥穽事件簿

 “Money begets money.”(貨幣は貨幣を産む)とも言われるように、貨幣は利殖によって殖やすことが可能である。利殖を目的とする投資という行為は、融資と並び、貨幣経済において古くから重要な機能を果たしている。しかし、そこには大小様々な罠が潜んでもいる。
 中でも、俗に「ねずみ講」(無限連鎖講)と呼ばれる利殖スキームは、その俗称のとおり、会員組織を立ち上げ、金銭を支払って加入した人が、さらに二人以上の加入者を紹介し、その結果、出費額を超える金銭を後で配当金として受け取ることを繰り返すことで、多産のねずみの如くに利殖していく仕組みである。
 まさしく貨幣が貨幣を産むこのようなスキームが原理どおりに運用されていくなら、無限に会員が増殖することにより、配当金も累積していくはずであるが、会員が無限に増えることはそもそもあり得ず、いずれかの時点で破綻し、会員組織を立ち上げた原初会員あるいはグループだけが配当金を懐に入れる結果となる。
 このような利殖スキームの発祥地は、やはり貨幣経済の王国アメリカと見られ、ピラミッド状の会員組織の形態から、かの国では「ピラミッド・スキーム」と呼ばれている。
 このようなスキームはある種の投資詐欺であり、大がかりな組織が破綻したときには、社会問題となる。その点、日本では1970年代の天下一家の会事件が最大規模である。1980年に破綻したこの事件では、被害者数100万人超、被害額2000億円近くに上り、無限連鎖講を禁ずる法律が制定される契機ともなった。
 創立者の内村健一は所得税法違反で有罪判決を受けたが、詐欺罪に問われることはなく、総額でも70億円余りにとどまった配当の完了は破綻から25年を経た2005年まで要している。
 さらに、ねずみ講が政治的な騒擾をさえ招いた異例として、1997年に破綻した東欧アルバニアにおけるねずみ講事件がある。この時代のアルバニアは革命により社会主義体制から資本主義体制へと急激に移行する過程で、事実上政府黙認のねずみ講会社が多数現れた。
 それは武器の密輸等の闇取引による利益を配当原資とし、地下経済ともリンクした大がかりなねずみ講スキームであり、国民の三人に一人が参加するという国民総ぐるみのねずみ講という異例の狂奔が発生した。
 しかし、このような国民総ねずみ講は、当然ながら数年で破綻し、多くの国民が被害を被った。これを契機に、政府のねずみ講加担に怒った市民の抗議行動が暴動に発展し、治安部隊との衝突で数千人の死者を出す事態となった。
 日本とアルバニアという時代も場所も離れた二つのねずみ講事件は、いずれも資本主義経済の発展期ないし創成期におけるマネー・ブームを背景に、庶民が少額の手元資金を元手に利殖しようという欲望を募らせたことに付け込まれたという点で共通性がある。
 ねずみ講はピラミッド状の階層的な会員システムによって運用されるが、これに対して、会員システムによらず個別に募集した出資金を運用せずに、新規の出資者から集めた資金を在来の出資者に配当金として回すようなスキームもある。これは、繁栄の1920年代アメリカでこうしたスキームによる詐欺を働いたチャールズ・ポンジにちなんで、「ポンジ・スキーム」と呼ばれる。
 しかし、ポンジを超えるポンジ・スキームで長年にわたり詐欺を働いていた人物が、バーナード・マドフである。NASDAQの創設に寄与し、NASDAQ会長を務めたこともあるこの人物は、1960年代から投資運用会社を経営し、著名人や内外の有力金融機関をさえ顧客に抱えていたが、その内実は10%を上回る高利回りを謳って投資家から資金を集めながら、実際には市場で運用せずに投資家への配当に回すだけの典型的なポンジ・スキームであった。
 この事件は、サブプライム危機、リーマンショックの際に、顧客から出資金の償還を請求されたことで発覚したのであるが、被害金額は650億ドル(約7兆4000億円)とも言われ、米国史上最大規模の詐欺事件に数えられている。
 これらの事件はその規模の大きさゆえに名を残しているが、より小規模な投資詐欺事件は枚挙にいとまがない。そして、すべてに共通するのは、被害額の弁償はほとんど、あるいは一部しかなされないということである。なぜなら、各スキームが破綻した時には、運営者の手持資金も底をついているからである。

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貨幣経済史黒書(連載第37回)

2020-06-14 | 〆貨幣経済史黒書

File36: 豊田商事事件―金地金投資の陥穽

 現物としての金(地金)は、古から人類が珍重してきた希少金属であり、その歴史は貨幣より古い。かつては、貨幣価値自体、中央銀行が発行する金地金との交換を保証された兌換紙幣を通じて金に裏付けされる金本位制が通貨制度の基本だったこともあるが、ニクソンショックを契機に金本位制が廃されて以降、貨幣と金の関係性は分離された。
 それでも、金は株式市況と連動せず、株価下落局面でも強いとされることや、万一貨幣資産を失っても、金の現物自体に高い価値があることなどから、リスク分散資産として今なお人々を惹きつけてやまない。そうした性質から、金はある意味、貨幣以上に物神崇拝的な対象となりやすい資産である。
 しかし、まさにそこに陥穽が潜んでいる。そのことを痛感させられる事例が、1985年に日本で発覚した豊田商事事件であった。時は日本が80年代バブル経済の狂奔期に突入する直前である。
 大きな背景事情として、高度成長期を通じて国民の所得が増大し、特に退職高齢者に余剰資産が生じる中、変動リスクの高い証券投資よりも、金地金投資への関心が高まり、1980年代初頭頃より、金の輸入量が増大していた。そうした中、横行する私設の金先物市場を規制するべく、商品先物取引全般を政府公認市場に限局する法改正がなされた。
 そのような法令上の規制強化を逆手に取る形で現れたのが、件の豊田商事である。この企業のスキームは、いたって単純であった。すなわち、顧客とはまず手順どおりに金地金の売買契約を結んだうえ、現物は顧客に引き渡さず会社が預かり、「純金ファミリー契約証券」なる証券を代金と引き替えに渡すというものである。
 このような契約が正常に履行される限り、顧客は盗難危険のある金地金を自宅等に保管する必要がなくなるというメリットもある。ところが、豊田商事は現物の金など全く保有しておらず、ただ購入代金を徴収して無価値な紙片にすぎない「証券」を渡していただけであった。
 このようなスキームは明らかに組織的な詐欺であるが、不思議なことに、この単純さがかえって信頼感を生み、最終的に破綻するまでのわずか数年間で、全国の数万人から総額2000億円近くを詐取することに成功していた。しかし、破産管財人チームの厳格な回収作業にもかかわらず、回収できた資金は一部で、大半は消失していた。
 そうした巨額の不明金に加え、豊田商事の創業者・永野一男が報道陣の詰めかける中、被害者の元上司を名乗る人物らによって自宅で刺殺されるという異常な幕引きとなったことでも、当時耳目を集めた事件である。被害人員・被害額の大きさにもかかわらず、誰も詐欺罪で立件されなかったことから、政界や裏社会等に黒幕が伏在するとの疑惑もくすぶり続けた事件でもある。
 そうした裏事情の探索はともかくとして、この事件は金の現物投資に潜む陥穽を象徴している。金を頂点として、和牛、ゴルフ会員権その他様々な現物投資を偽装するいわゆる「現物まがい商法」は、豊田商事事件以降、バブル経済が崩壊した後も跡を絶たない。
 複雑な金融商品と異なり、現物投資の単純さと一見した手堅さが詐欺被害を生むのであるが、金をはじめ、高価な現物はそもそも入手し難いゆえに高価であるという経済法則からすれば、高価な現物資産は所有者自身が盗難リスクを負担して自ら保管するか、信頼できる機関に寄託することで、安全性が保たれるものである。その点では、貨幣資産と変わらないと言える。

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貨幣経済史黒書(連載第36回)

2020-06-07 | 〆貨幣経済史黒書

File35:ジンバブウェの天文学的インフレ

 大恐慌や大不況、感染症パンデミック等が勃発するつど、有価証券資産は価値下落を免れないが、現金資産なら価値は一定であり、何はともあれ、やはり現金資産を多く持つほど安全である―。これは、とりあえず正論である。「とりあえず」というのは、物価と通貨価値ともにひとまず安定が保持されている経済状況下では、ということである。
 その点、アフリカのジンバブウェで2000年代に発生し、現在も後遺症が続く天文学なハイパーインフレーションは、現金資産も決して絶対的に安全ではないことのまさに黒書的な教訓となる出来事である。ジンバブウェでなぜそのような悪夢のハイパーインフレが発生したかについては、この国の成り立ちから見ていく必要がある。
 ジンバブウェは、1980年に白人優越主義の白人国家ローデシアが黒人主導に転換されて成立したかなり新しい国である。黒人主導となっても、しばらくは農地の大部分を白人が所有する不平等な構造が温存されていたが、2000年、ついに政府はこの構造にメスを入れ、白人から農地を強制的に接収し、黒人に再配分した。
 続いて、外資規制のため、外資系企業株式の過半数をジンバブウェ黒人に強制譲渡させるといった過激策も導入したことから、白人地主層の流出と外資系企業の撤退が続いた。これにより従来、白人経営の農業と外資で支えられていたジンバブウェ経済が一気に縮退した。
 これに対し、政府は通貨の大量供給で対応しようとした。その結果は、天文学的な規模のハイパーインフレーションであった。2000年からインフレ絶頂期の2008年までに物価は700万倍に騰貴し、08年のインフレ率は実に2億311.5万%に達した。年率では220万%というから、仮に年初に1本100円のバナナがあるとして、年末には220万円に高騰する単純計算となる。
 これほどのウルトラインフレになると、通常のインフレ対策は通用しないため、究極の手段として、通貨価値を政策的に切り下げること(リデノミネーション:いわゆるデノミ)によるほかなくなる。ジンバブウェ政府も、2008年8月に100億分の1のデノミを断行するも効果なく、2009年2月に1兆分の1のデノミを連続実施するという過激策を講じた。
 このように短期間で二次にわたる過激なデノミを断行したことにより、自国通貨ジンバブウェ・ドルは事実上無価値となったため、流通も停止、以後は、アメリカ・ドルを基軸とする外貨主義に転換したのである。外資排除の政策が外貨導入を帰結したのは、皮肉というものであった。
 ちなみに、自国通貨の価値をあえて破壊するかのようなデノミ政策は必ずしも特異なものではなく、ジンバブウェと同時期のものに限っても、トルコ(05年)やルーマニア(同年)、北朝鮮(09年)などでデノミが実施されている。
 また、歴史的には、近年投資対象として注目されるブラジルのレアルなども、たびたび通貨名の変更を伴いつつ、1994年までの約半世紀で8回にのぼるデノミにより、275京分の1という天文学的な率での長期的な切り下げを経ている。
 まとめれば、ハイパーインフレーションは安定なはずの現金資産が異常な物価高騰により実質的に価値下落する状況を来し、対策として打たれるデノミは通貨価値を政策的に切り下げることにより、現金資産の価値が額面上も一挙に下落する。いずれにせよ、現金資産を多く保有する富裕層ですら貧困に陥る可能性を孕む貨幣のホラーである。

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貨幣経済史黒書(連載第35回)

2020-04-26 | 〆貨幣経済史黒書

File34:世界大不況―住宅ローン地獄

 21世紀の世界経済は、インターネット・バブルの崩壊で始まった。NASDAQ市場は暴落し、その影響から米国GDPも連続のマイナス成長となり、情報産業を中心に失業率も増加した。これは、アメリカ経済にとっては、20世紀最後の繁栄期となった1990年代の総決算でもあった。
 アメリカにとって、1990年代は冷戦終結と長年のライバル・ソ連の解体を受けて、一人勝ちの様相を呈する繁栄期であり、その状況は、やはり繁栄の時代であった1920年代と類似していた。90年代中間期の96年末には、当時のグリーンスパン連邦準備制度理事会議長が株価の異様な投機を指して「根拠なき熱狂」と警戒感を示すも、対策は取らず、漫然と金融緩和を進めた。
 この時代の熱狂を支えた一つの慣習的制度が、いわゆるシャドウ・バンキング・システム(影の銀行システム)である。これは厳格な監督規制下にある銀行以外のヘッジファンドや投資会社のような機関投資家が実質的な与信仲介を行うシステムであり、2008年にアメリカ史上最大級の経営破綻を来たし、世界大不況の引き金となる投資銀行リーマン・ブラザーズも、そうしたシャドウ・バンキング・システムの一翼を担う存在であった。
 これとも深く関連するもう一つの慣習的制度は、サブプライム・ローンと呼ばれる一種の住宅ローンであった。貨幣経済の恐怖という点では、こちらのほうがシャドウ・バンキングより深刻である。というのも、これは普通の人の暮らしを直撃する問題だからである。
 サブプライム・ローンはその名の通り、上層中産階級を含む裕福で与信力の高いプライム層の下に位置する下層中産階級、すなわちサブプライム層に向けた住宅ローンの一種である。そのメリットは、伝統的な住宅ローンでは与信力審査にパスしないレベルの人でも、簡単な審査で住宅ローンを受けられ、住宅を購入できる点である。
 これだけですでにハイリスクであることが見て取れる仕組みであるが、そのうえにサブプライム・ローンは担保証券、さらには債務担保証券として証券化され、投資家向けに販売されることで、単なるローンから金融商品に変身する。
 希望的観測としては、住宅価格の上昇局面では住宅を転売することによってローンを返済し、お釣りとして差益を得ることさえ可能となるので、ハイリスクとはいえ、住宅購入者にとっても旨味のある一種の金融商品となる。
 しかし、これはまさに希望的観測であり、住宅価格が永久に上昇を続けることはあり得ない。アメリカでは、2001年から06年にかけてのバブル的な住宅価格上昇局面が07年夏には終了し、下降局面に入った。これにより、サブプライム・ローンは一気に不良債権化した。当然、サブプライム・ローンを組み込んだ金融商品も連動して低価値化し、投資家による投げ売り、暴落現象が発生した。
 その過程で、サブプライム・ローン証券の販売を大々的に行っていたリーマン・ブラザースの損失が大きく、急速に経営状態が悪化、最終的には負債総額6000億ドル(約60兆円)という史上最大規模の倒産に至ったのであった。
 このリーマン・ショックを引き金としてグローバルな金融危機が招来され、ひいてはサブプライム・ローンのようなハイリスクなローンが認可されていない日本のような国にも波及する同時多発的な世界大不況に至ったことは、十年余りを経た現在でも記憶に新しく、各国とも未だその後遺症を抱えている状態である。
 サブプライム・ローンの発祥地アメリカでは、返済不能に陥り、住宅を差し押さえられ、住居を喪失してホームレスに転落するような人も相次ぎ、現在でもその状態から抜け出せていない人もいるほどである。波及的な不況で失業した人も同様である。
 そもそも住宅ローン破綻は、日本のように与信審査が比較的厳格な国でも発生しており、ここでは差し押さえにより年金頼みの老後生活が崩壊するという深刻な問題を生じさせている。
 元来、借金は、貨幣が見せる変幻自在の形態の中でも最も恐ろしく、富裕層をも破滅に追い込む形態であるが、与信力の低い人にも借金を抱えさせるサブプライム・ローンは、早晩破綻することが必然の安易な商品であった。しかし、その安易さゆえに時代のヒット商品にもなったという皮肉なパラドックスがある。
 なお、ここでは詳論しないが、世界大不況は世界恐慌に発展せずに収束したその過程で、各国は金融システム安定化のためになりふり構わぬ財政出動により債務を拡大させ、財政赤字を助長、間接的には引き続いて欧州債務危機のような新たな危機を招いた。今度は、言わば国庫のローン地獄である。

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貨幣経済史黒書(連載第34回)

2020-01-26 | 〆貨幣経済史黒書

File33:インターネット・バブル経済

 バブル経済は、17世紀オランダでのチューリップ・バブルを嚆矢として、近代貨幣経済、ひいては資本主義の歴史において付きものとなっている。
 チューリップ・バブルでは、当時の欧州でまだ珍奇だったチューリップの球根がフェティッシュな形でバブルの対象物となったのだが、バブルの発生要因は、貨幣経済の高度化に伴い、次第に通貨・金融政策と連関するようになっていく。
 その点、新たな時代を画した20世紀末の世界では、当時は珍奇だったインターネットという無形資産が再びフェティッシュな形でバブルの対象となると同時に、金融政策もこれに絡む形で、バブルを作り出したのだった。
 1990年代前半にインターネットの商用化が開始されると、多くの既存資本企業がインターネット投資に走っただけでなく、インターネットを活用した新規企業が主にアメリカで続々と設立された。こうした新規企業は少額の資本金と人員で簡単に設立できることから、その場限りの思惑起業が容易であることが問題であった。
 インターネット新規企業の多くは企業としての永続性を前提としたゴーイングコンサーンを考慮しないベンチャーであり、ほとんどがアマチュアを含む情報技術畑出身で、他企業での経営実務経験もない若年の創業者たちは「起業家」ではあっても、「企業家」とは呼び難かった。
 投資家の多くも、これら新規企業が提供するサービスや商品の正確な仕組みをほとんど理解できなかったという点では、複雑な金融数学を用いたデリバティブ金融商品に類似するところがあったが、複雑で理解できないものほど好奇的な興味を惹かれるのも、投資家心理である。
 バブルの兆候は、まず新興企業向け株式市場であるNASDAQに現れた。NASDAQ総合指数がIT産業株の成長により90年代後半期に右肩上がりで上昇を続け、20世紀最終年度の2000年までにおよそ五倍に急伸したのである。こうした動向は、アメリカの連邦準備制度理事会の低金利政策にも後押しされていた。
 他方、まだ平成バブル崩壊後の長期不況の渦中にあった日本でも、インターネットは不況脱出の救世主のように思われ、政府によるベンチャー企業育成支援策に後押しされて、新規IT企業の設立ブームと小さなバブル現象が起きたが、やはりその場限りの思惑起業ブームであり、アメリカに先立ち、2000年度中にはバブルがはじけている。
 インターネット・バブル本国のアメリカでもバブルの崩壊は、意外に早かった。世紀が変わると、アメリカ連邦準備制度理事会の利上げ決定が打撃となり、IT株価は崩落、思惑企業の多くがあっけなく破産や買収に追い込まれたが、創業者たちは株式公開による創業利益をすでに手にしており、企業を手放しても十分に資産形成できたが、従業員たちは失業に追い込まれることになった。
 とはいえ、バブル崩壊後も生き残ったつわもの企業もあり、それらは現在に至るまで、それぞれの分野で、知的財産権に守られながら、多国籍独占企業体に成長し、知識資本という新たな資本の形態を形成している。
 自由競争の結果としての無競争・独占の形成という市場経済のパラドクスを最も如実に示しているのが、こうした情報通信知識資本の領域であると言える。

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貨幣経済史黒書(連載第33回)

2019-12-29 | 〆貨幣経済史黒書

File32:アジア通貨危機&ロシア金融危機

 20世紀最後の1990年代は、社会主義超大国ソ連の解体に伴う新生ロシアの「ショック療法」による経済破綻、それまで世界第二位の資本主義経済大国日本のバブル経済崩壊に起因する「失われた10年」と、二つの主要国が大きく揺らぐ一方、アジアの新興諸国にとっては、資本主義的高度成長の時代であった。
 とはいえ、これら後発の新興諸国は歴史的時間をかけて醸成された資本市場という土台を欠いたまま、欧米や日本など先発諸国からの外資導入と輸出に依存した他力本願の成長であり、本質的に蜃気楼的な「成長」であった。一方で、これら新興国通貨に対する過大評価が横行した。言わば、実体経済の力量を越えた通貨価値バブルの状態である。
 これに目を付けた欧米の投機的なヘッジファンドが空売りを仕掛け、短期的な利益を狙った。当時、新興諸国が採用していたドルとの固定相場制はヘッジファンドには有利な制度であったが、仕掛けられた側には買い支えの余力なく、変動相場制の緊急導入でしのいだため、自国通貨が急落することになる。
 こうした典型的な経緯をたどったのが当時伸び盛りのタイであり、実際、タイ通貨バーツが1997年7月から暴落したことを契機に、影響が周辺諸国や香港、韓国にまで及び、広域での通貨危機事象に発展した。アジア通貨危機と呼ばれる現象である。震源地タイのほか、波及国の中では韓国への影響が大きく、デフォルト危機に陥り、IMFの救済を要請する事態となった。
 また、インドネシアでも、為替介入を契機に自国通貨ルピアの下落が起き、金融危機とインフレ―ションに見舞われ、IMFの救済を仰いだが、ここではこれを機に当時のスハルト長期独裁体制への反発が高まり、民衆革命による体制崩壊にまで進んだことが特徴である。
 興味深いことに、中国は当時、社会主義市場経済の名のもとに共産党の指導による資本主義の導入という曲芸の最中であったが、外資導入、内資移動ともに政府の統制管理下に置く社会主義計画経済の名残を残していたことが幸いし、直接的な影響を受けず、人民元の切り下げといった緊急措置も見送られた。一方、中国への返還間近にあった香港は、英国統治下で独自の金融的発展を遂げていたため、打撃を免れず、明暗が分かれた。
 アジア通貨危機はさらに、「ショック療法」中のロシアにも間接的に波及した。アジア通貨危機が発生した97年はロシアの「ショック療法」の仕上げ時期にあったところへ、アジア通貨危機の影響を受け、新興国への不安が広がり、同じ新興国とみなされていたロシア投資の引き上げが相次いだ。
 ロシア通貨ルーブルの下落はすでに始まっていたが、同時に深刻な財政危機にあったロシア政府が1998年8月に国債の90日間デフォルトを宣言するに至り、ロシア通貨ルーブルは暴落した。ロシアの商業銀行各国にはルーブルを米ドルに両替しようとする預金者が殺到し、一種の取り付け騒ぎとなり、経営破綻した。
 ちなみに、この時、アメリカの新興ヘッジファンド会社ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)も破綻している。この会社は高度な金融工学を利用して、リスクの高いレバリッジ取引で高額な投資利益を上げることを目的に、マイロン・ショールズとロバート・マートンという二人のノーベル経済学賞受賞者も協力して、94年に業務を開始した鳴り物入りの投資会社であった。
 ショールズとマートンは、共同開発者フィッシャー・ブラックの名も取ってブラック–ショールズ方程式と呼ばれる金融工学分野での業績を理由に、皮肉にも、アジア通貨危機が発生した1997年度ノーベル経済学賞共同受賞者となった人物である。
 LTCMはハイリスクなロシア国債にも投資しており、得意の金融工学計算に基づきその債務不履行確率を100万年に3回などと算出していたが、政府のデフォルト宣言の政治的性格を看過し、当てが外れた。また投資行動に関する行動経済学的知見にも欠けていたとみえ、アジア通貨危機に由来する投資家のロシア逃避という事態も予見できなかった。
 LTCM社は設立から数年とはいえ、ロシア金融危機時点ですでに1000億USドルを運用するまでに急成長しており、その経営破綻は金融市場に悪影響を与え、恐慌を誘発する恐れも危惧されたため、スタートアップ企業にしては異例なことに、アメリカ政府の仲介で多国籍の救済融資シンジゲートが立ち上げられた。しかし、再建には至らず、最終的に2000年に清算され、ロングタームの社名とは裏腹にわずか6年のショートタームで終焉したのだった。
 こうして、アジアに発してロシアをも巻き込み、さらにブラジルなど中南米にも一部波及した20世紀最後の通貨危機は、世紀末以降の金融市場のグローバルな拡大と、そこに絡む誰も正確な構造を理解できないと言われるブラックボックスと化した金融工学商品という組み合わせは、貨幣経済の新段階を象徴するとともに、10年後の世界大不況の予兆現象でもあることには、まだ気づかれていなかった。

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貨幣経済史黒書(連載第32回)

2019-12-15 | 〆貨幣経済史黒書

File31:国際通貨基金の禍

 国際通貨基金(IMF)は、第二次世界大戦後の国際金融の協調体制を構築するため、いわゆるブレトン‐ウッズ協定に基づき創設された国際機関である。この機関の創設に当たっては、イギリスの著名な経済学者メイナード・ケインズも寄与しているが、彼以上にアメリカの財政実務家でエコノミストのハリー・ホワイトの立案が大きな役割を果たしたため、ホワイトが事実上、IMFの産みの親に近い存在である。
 ホワイトは、後にソ連のスパイであったことが明らかとなる人物である。彼は心情的にソ連シンパであり、第二次大戦中はソ連の協力者として情報を提供していたとされる。
 ソ連は最終的にアメリカとともに連合国側に左袒したから、彼の行為は、戦後の米ソ冷戦期のスパイ活動とは異なり、必ずしも反逆的とは言えない。ホワイト自身、冷戦が本格化する前に、スパイであったことを暴露され、議会で追及された直後に死亡しているため、冷戦期のスパイ活動に関わることはなかった。
 ホワイトが心情的に親ソ派だったとしても、エコノミストとしてのホワイトはマネタリスト志向であり、そうした彼の経済イデオロギーはIMFにも継承されていると言える。発足当初のIMFはかつて金本位制が担っていた自動的な調節作用を、―まさに機関名が示すとおり―国際的な安定基金という機関的な統制力によって代替しようという趣旨から、国際金融秩序の回復と安定のかじ取り役という性格が強かった。
 IMFの性格が変質するのは、1971年のニクソン・ショックを契機にブレトン‐ウッズ体制が解体された後のことである。それまでのIMFは戦後復興機関の一環としての役割が強かったため、母体となったブレトン‐ウッズ体制の終焉とともに廃止されてもよかったところ、そうはならず、今度は新興資本主義国への融資という役割を生き残りの鍵としたのだ。
 このようなブレトン・ウッズ後のIMFの役割は、経営難企業のメインバンクとして融資を通じて経営再建に干渉する銀行の役割と似ている。こうした新IMF最初の顧客は、1980年代を通じて巨額の債務危機に苦しんだ中南米諸国であった。これらの破綻危機に瀕した諸国に対する救済的融資の条件として、緊縮財政や公企業の民営化、通貨切り下げなどを柱とする「構造調整」と称される財政政策を課すことが慣習化した。
 このようなIMF主導の融資スキームを「ワシントン・コンセンサス」と呼ぶ向きもあるが、そのような合意が明確に存在しているわけではなく、あくまでも慣習的に形成されたスキームにすぎない。それでも、ワシントンとの連動が示唆されるのは、IMFがアメリカ主導で創設され、本部もワシントンにあるため、同機関がアメリカ政府の別動隊とみなされているからである。
 いずれにせよ、「構造調整」は国際慣習として定着し、その後、1990年代には前回も見たソ連邦解体後のロシアの「ショック療法」において、史上最も大規模かつ過激に断行され、ハイパーインフレを引き起こしたことを記した。これは極例としても、IMFの「構造調整」スキームは、アジア、アフリカを含めた多くの新興国にも適用され、短期的な財政再建には成功しても、ただでさえ乏しい社会サービスの後退や貧富差の拡大を助長した。
 「構造調整」はその適用を受けなかったバブル崩壊後の日本のような国においても、経済イデオロギー的な枠組みとしては大いに影響を及ぼし、いわゆる「構造改革」の名のもとに類似した政策プログラムが独自に追求されるなど、IMFは潜在的にも大きな政策決定力を持つ。
 発足当初は加盟しなかったソ連をはじめとする東側の社会主義陣営も資本主義化して以来、続々と加盟したため、IMFは本年度末時点で世界の独立諸国のほぼすべてをカバーする189加盟国を擁する最大規模の巨大国際機関となっており、現代の国際貨幣経済システムにおいて専制的な支配力を行使している。雲の上にあるような一見優雅な国際機関だが、末端の生活を破綻させる禍をもたらす暗黒の存在―。それが、IMFである。

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貨幣経済史黒書(連載第31回)

2019-12-08 | 〆貨幣経済史黒書

File30:ソ連解体と「ショック療法」経済

 1991年12月、世界を驚かせたのは、アメリカ合衆国と長く対抗してきた超大国ソヴィエト連邦が突然、解体されたことである。その背景的な要因としては、前回見た「不足経済」のような構造的な経済危機もあったが、解体自体は同年8月の保守派クーデター未遂事件後のある種革命的な動乱という政治的要因によるものであった。
 ここでの問題は、解体された後の経済的大混乱、とりわけソ連邦を構成した15の共和国の中でも盟主格だったロシアで起きた大混乱の件である。同様の大混乱は、程度の差はあれ、他の構成共和国、さらには同時期にソ連型の社会主義体制を脱した東欧諸国でも起きていたが、人口も多いロシアのそれが最も悲惨な結果を招いた。
 この大混乱は、ソ連時代の社会主義中央計画経済を資本主義市場経済に転換する過程で起きた。そのような転換の当否はさておき、経済体制の歴史的転換を実現するには、混乱を最小限に抑制するための周到なプログラムを要するはずだった。ところが、当時ロシアを率いていたのはソ連解体を主導したボリス・エリツィン大統領で、彼はある種の“革命家”として、より急進的な方法を望んだ。
 それが「ショック療法」と呼ばれる一連の経済政策であり、これは「純粋資本主義」を目指し、資本主義市場経済化を一挙に実現しようとする過激な政策であった。その背後には、戦後の通貨制度の番人とも言える国際通貨基金(IMF)とその実質的な司令塔であるアメリカの助言、さらにはアメリカで主流的なマネタリストのイデオロギーがあった。
 価格・貿易・通貨すべての自由化に及んだ「ショック療法」の中でも、人々の生活を直撃したのは、価格統制の撤廃であった。これにより、ソ連時代の「不足経済」は解消され、商品は流通するようになったが、年率2500パーセントを超える異常なハイパーインフレーションを来たした。かつては買う金はあるが、品物がない状態から、今度は品物はあるが、買う金がない状態への転換である。
 非効率で、「不足経済」の元凶でもあった国有企業の民営化も「ショック療法」の主要なプログラムであったが、エリツィン政権が財政危機対策として導入した株式担保融資という便法により、多くの国有企業が自身の蓄財を動機とする思惑的な新興企業家の手に渡り、生産活動を停滞させた。
 結果、新生ロシアの国内総生産(GDP)は発足二年目の1992年、前年比で15パーセント近く落ち込み、エリツィン政権が続いた1990年代を通じて半分以上も低下した。これは恐慌とは別種ながら、症候としては恐慌に類似した現象であった。識者の中には、かつてソ連が回避できた1929年大恐慌になぞらえる者もいたほどである。
 この間、失業・貧困の増大で20世紀最終年度の2000年には貧困率30パーセントという状況であったが、その一方で、国有企業の民営化過程で形成された新興資本家オリガルヒは寡占財閥を形成し、政権とも癒着するある種の政商となった。こうした粗野とも言うべき露骨な貧富格差構造が生まれたのも、「ショック療法」経済の帰結である。
 歴史的に見れば、「ショック療法」は帝政ロシア時代晩期に未成熟ながら形成されていた独占資本主義段階に立ち戻るような帰結をもたらしており、これは凄惨な内戦という代償を払って成功させたロシア革命を否認する反革命反動であったが、貨幣経済をうまく制御できなかった点では、ソ連時代の中央計画経済も同列である。
 ともあれ、「ショック療法」経済はエリツィン政権の1990年代を通じて続いたから、新生ロシアにとっての1990年代は、同時期、全く異なる要因から経済危機に直面していた日本とともに、「失われた10年」となった。それが収拾されるのは、2000年のウラジーミル・プーチン大統領の就任をはさみ、21世紀のことである。

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貨幣経済史黒書(連載第30回)

2019-12-01 | 〆貨幣経済史黒書

File29:ソ連の「不足経済」

 1917年ロシア革命後のソヴィエト連邦(ソ連)は、当時としては世界初の実験であった中央計画経済システムを導入し、世界市場からは退出したため、主要国の中で1929年大恐慌の影響を免れた数少ない存在となった。その後も、ソ連の計画経済下では恐慌やハイパーインフレのような資本主義的事象の発生は防がれていた。
 独裁者スターリンの時代に開始された経済計画を通じた工業開発は、第二次世界大戦時の対独戦争で大きな代償を払いながらも、戦後復興に成功し、1953年のスターリンの死をはさんで、1960年代初頭頃までは、高い経済成長―言わば、ソ連における高度経済成長―を示した。
 こうした点だけみれば、ソ連の計画経済システムもそう悪いものではなかったように思えるが、実のところ、ソ連型計画経済では、消費財の供給が停滞し、物不足が恒常化するという欠陥現象が起きており、識者はこれを「不足経済」(shortage ecomomy)と呼んでいた。
 実際、資本主義社会の学校教科書は、しばしばソ連やそのシステムを模倣した東欧同盟諸国の国営商店の棚が空であったり、少ない商品を早い者順で入手しようと、朝一番で店の前に並ぶ主婦たちの長い行列ができている写真を半ば揶揄的に掲載し、社会主義システムの欠陥として教え込むのが当時の定番となっていた。
 こうした「不足経済」は、大衆が飢餓に陥るような全般的窮乏とは異なり、いちおう人間として最低限度の生活を営むだけの消費経済は運営されているが、物品が手に入りにくく、まさに行列が日常の光景となるような事態を招くものであった。このような事象が発生する要因としては、過少生産に陥っているか、流通に欠陥があるかのいずれかであるが、実際はその両方だったようである。
 中央計画経済は需要と供給を人為的に制御することで、資本主義自由市場に付きまとう景気循環の不安定さを回避するという狙いから導入されたにもかかわらず、需給関係が見合わない過少生産となったのは、貨幣経済を廃することなく、消費財の価格を政府が低く統制していたことによる。
 資本主義市場でも同様であるが、低価格商品は人気が集まり、品切れとなりやすい。需要に供給が追いつかない状況である。多くの商品が統制された低価格で販売されれば、当然相対的な過少生産となり、品薄が恒常化するのは見やすい道理である。
 それに加えて、中央計画経済の支柱であった国営生産企業の汚職により、賄賂と引き換えで生産物の横流しが蔓延し、闇市場が広がっていたことである。闇市場では、公定価格より割高ながら必要な物資が入手できるため、非公式の地下経済としてソ連の全期間を通じて闇市場が存在していた。
 このようにして、安定性という点では利点のあった中央計画経済システムは、常に需要が供給を凌駕するという相対的な過少生産を構造化してしまったと言える。結果として、消費者はだぶついた所得の多くを貯蓄に回すことになった。
 この状況は、資本主義におけるデフレーションと似ており、不足経済とは疑似的なデフレーションが常態化する事態とも言えるかもしれない。言わば、物はあるが買うための金がないのが資本主義的デフレーションであるとすれば、金はあるが買うべき物がないのが社会主義的デフレーションである。
 こうした不足経済は、中途半端な市場経済モデルを導入を試みたソ連末期の経済改革でいっそう悪化した。地下経済の一部が顕在化し、半市場が形成されたことで、人間的な最低限度の生活はまかなえていた計画経済が崩壊し始め、ついには戦時のような配給制の導入に踏み切らざるを得ないほどの経済危機を招いた。
 同時期、資本主義の日本もバブル崩壊による「敗戦」に直面しつつあったが、1990年代初頭のソ連もある種の「敗戦」の状態にあり、これがソ連そのものの解体という歴史的な出来事を招来する一つの要因ともなった。しかし、それで終わらず、その後、ソ連という毛皮を脱いだ新生ロシアは急激な資本主義化による大混乱を経験する。

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貨幣経済史黒書(連載第29回)

2019-11-24 | 〆貨幣経済史黒書

File28:日本のバブル経済崩壊

 日本経済の昭和/平成バブル景気は1986年頃に開始され、87年の「ブラックマンデー」をも跳ね返し、元号が替わった平成初年度の89年に最高潮を迎えたと見られているが、世界の過去におけるバブル現象と同じく、実体経済と乖離したバブル現象が長続きすることはなかった。
 90年3月に土地投機の過熱を懸念した旧大蔵省が土地融資関連の抑制という対処に、日本銀行の金融引き締めが相乗作用して、信用収縮が急激に生じたため、恐慌に近い状態が招来されたが、真の恐慌とはならず、むしろ長期不況への序章となった。
 90年10月にはまず先行して株価の下落が始まり、次いで翌年には地価の下落が続くというように、バブルを象徴する株式と土地という二大投機対象の価値下落が明瞭となった。現実の展開として、株価の急激な暴落は起きなかったため、バブル崩壊の日付を明確にできないことが昭和/平成バブル「崩壊」の特徴であるが、おおむね1992年夏までにはバブルの終焉が認識された。
 景気循環という観点で見ると、93年にいったん持ち直しているが、昭和/平成バブル崩壊は緩慢に始まり、さらにその余波が10年という長期スパンで遷延したことから、世上「失われた10年」と呼ばれたり、もっと悲劇的に「第二の敗戦」と呼ばれたりもした。
 実際、この間、株式と土地だけで総計1500兆円近い価値が失われたと推計されているから、まさに「失われた10年」であったが、元来バブルは実体経済を離れた蜃気楼現象なのであるから、蜃気楼が消失し、本来の実体経済に見合った姿に是正されるリバウンド現象ととらえれば、そう不可解でもない。
 ただ、日本の昭和/平成バブル景気は、あまりにも規模が大きく、それに参入したのも法人企業からバブル期の所得増によりゆとりの生じた個人に至るまで国民の多数に及んだため、リバウンドの衝撃もいっそう大きかったということに特徴があった。国民的規模で陥った「貨幣錯覚」への反動とも言える。
 しかし、それだけにとどまらず、「第二の敗戦」とまで呼ばれたのは、むしろバブル崩壊そのものよりも、その余波が大きく、かつ長かったせいでもある。とりわけ、資本主義経済の総設計師でもある銀行、さらには個人・法人を通じた投資及び企業の資金調達の司令塔でもある証券会社の破綻が続いたことの影響は甚大であった。
 銀行は、バブル期に担保価値に見合わない融資や持続性のない事業への融資を展開し、バブル景気を演出した影の戦犯的地位にあったが、バブルが崩壊すると、それらの放漫融資の代償は巨額の不良債権として残された。この時期に生じた銀行の不良債権総額は200兆円、損失処理に伴う純損失総額でも100兆円に達すると推計されている。
 銀行の経営破綻がメインバンクの喪失として融資先企業の連鎖的破綻を招くことは必然であるが、破綻を免れた銀行も一転して貸しはがしや貸し渋りといった厳格融資・返済方針に転換するから、それによっても、事業維持に不可欠な他人資本を喪失した融資先企業は経営破綻する。90年代後半のバブル崩壊処理期には、こうした銀行由来の企業倒産も相次いだ。
 ちなみに、この時期に経営破綻した有力金融機関としては、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、個人向けの住宅ローンを手掛けた住宅金融専門会社がある。また、法人営業に注力していた大手証券会社の山一證券が損失補填などの不公正な顧客救済措置で生じた債務を簿外に隠蔽していた不正会計問題を機に廃業に追い込まれたことも、衝撃を与えた。
 こうした一連の混乱に対応するため、多くの関係諸法令が改廃され、行政官庁の大規模な再編も実施されたのが、90年代後半から2000年代初頭にかけてのことである。また時をほぼ同じくした冷戦終結・ソ連解体とその影響を受けての国内政界再編といった政治動向も含め、この時期にはたしかに敗戦後の時代状況に匹敵する激変があったと言えるかもしれない。
 バブル崩壊余波としての「失われた10年」は、2002年には収束したと見られているが、その処理策として断行された「構造改革」は、高度成長期の「所得倍増」政策とは異なり、労働市場の規制緩和や富裕層減税を通じて所得格差を助長し、日本経済を市場競争主義的に再編しようとする政策的企てであり、このことが、間もなく直面する世界大不況において悲劇を生むことになる。

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貨幣経済史黒書(連載第28回)

2019-11-17 | 〆貨幣経済史黒書

File27:1987年「ブラックマンデー」

 1929年に始まる大恐慌以来、株式市場の崩壊現象は半世紀以上発生していなかった。その要因として、アメリカをはじめ、主要な株式市場を擁する諸国の証券規制政策が進展し、監督行政もそれなりに整備されていったことが挙げられる。そうして大恐慌の記憶も消えかけていき、20世紀も残り十数年となった1987年に、再び株式市場の崩落が起きた。
 こたびの崩落の発端は、アジアの香港市場であった。香港は当時まだ英国植民地の地位にあり、証券市場も十分に整備されていない中、デリバティブのような複雑な金融商品の実験場のような状況にあった。その香港市場で10月19日の月曜日、最初の兆候的な暴落が発生した。
 これはローカル市場単体での問題にとどまらず、世界の金融中心となって久しいニューヨーク証券市場に波及し、ダウ平均株価の終値が22.6パーセントという下落率を示した。この数字は、大恐慌当当時の下落率12.8パーセントを倍近くも上回る史上最高の下落率であった。
 これを契機として、雪崩を打つように、日本をはじめとするアジア各国から欧州、さらには南太平洋のニュージーランドにまで暴落が波及し、いわゆる世界同時株安現象を引き起こした。時差の関係上、火曜日が発生日となったニュージーランドへの経済的打撃は特に大きかった。
 1929年とは異なり、この時代になると、すでに資本主義がアジアやオセアニアを含めた全世界にグローバルな拡散を見せ始めており、グローバル化なる用語はまだ普及していなかったとはいえ、ローカルな市場の崩壊が全世界的な波及を見せるドミノ現象の始まりであったと言える。
 市場の近代化が進む中で、なぜ1929年の再来のような事象が発生したかについては、アメリカの財政政策など人為的な要素があり、様々な分析がなされてきたが、技術的な問題として、コンピュータによる自動取引の普及やデリバティブのような複雑化金融商品の開発など、近代化が進展したがゆえの市場制御の困難さという皮肉な要因も隠されていた。
 元来、貨幣の流通を技術的に精密に制御することは困難なのであるが、複雑な金融商品の形で貨幣が不可視的な「商品」に化体されて瞬時に流通するようになれば、その制御はいっそう困難になる。このことを、世界は20年後に再び思い知ることになる。
 いずれにせよ、このような突然の大暴落は忘れかけていた1929年を思い起こさせたため、識者らは大恐慌の再発を予測、懸念した。これは過去の経験則以外に頼るもののない資本主義経済学にあって、予防的な意味でいささか大袈裟な予測を出したものだろうが、幸いにしてブラックマンデーは大恐慌を招来しなかった。
 株価は史上最高下落率という異常事態ながら、全体として、懸念されていたような恐慌には至らず、実体経済への損害が起こらなかったのは、各国金融当局の協調体制など、緊急的なグローバル化対応が当時かなり整備されてきていたことが作用したと考えられる。
 ちなみに、この時点ですでにバブル経済の膨張が始まっていた日本では、翌日に株価が反発を示して急騰、その後もオイルショック以来の金融緩和政策の継続でバブルがさらに助長されていき、1988年に暴落分を相殺して、89年には前回見たような史上最高値を更新していったのである。
 このような短期間での回復―というより、ブラックマンデーを奇貨としてバブルに突き進んだと言っても過言ではないだろう―は、日本経済に過剰な自信を与え、ひいてはバブル現象への警戒心を薄れさせ、数年後のバブル崩壊という形で、恐慌的なしっぺ返しを受けることになるのであるが、この件については次回にまわすことにしたい。

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