ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第37回)

2019-11-05 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(2)1820年スペイン立憲革命  
 1820年1月1日に開始されたスペイン立憲革命は、第一次欧州連続革命の初動を成す革命である。連続革命が革命とは無縁に見える保守的なスペインから始まったことには理由があった。  
 従来、スペインにはフランスのナポレオンが介入し、ボルボン朝を廃して自身の兄ジョセフをホセ1世としてスペイン王に擁立するという形で、スペインを属国化しており、これに対する反作用として独立戦争が発生していた。  
 この独立戦争渦中の1812年、アンダルシア地方の南端カディスに逃れていたスペイン亡命議会は、国民主権を軸とするスペイン最初の近代的な成文憲法(カディス憲法)を採択した。これはボルボン朝の復活を前提に従来の絶対君主制を立憲君主制に構築し直すことを予定したブルジョワ憲法であった。  
 ところが、ナポレオン帝政の崩壊後、1814年に復位したボルボン朝のフェルナンド7世は、自身の絶対権力を否定するカディス憲法が気に召さず、これを破棄して再びボルボン絶対王政の復権を目論んだのだった。  
 こうしたボルボン反動政治の復活に対して反発し、決起したのが、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェスであった。職業軍人として独立戦争にも参加し、フランス軍の捕虜となった経験を持つデル・リエゴは自由主義者でもあった。  
 復活ボルボン朝下では当初、ナポレオン支配に抵抗して独立の動きに出ていた南米で鎮圧軍連隊を指揮する予定だったデル・リエゴは、1820年1月1日、反旗を翻してカディスで反乱を起こしたのである。反乱の要求事項は単純で、カディス憲法を復活させることに尽きた。  
 軍はこの護憲反乱を支持しなかったが、次第に民衆の支持を受けて、首都マドリッドにも波及、ついに王宮が反乱軍に包囲される革命的状況に至り、フェルナンド7世は渋々ながら憲法復活要求を呑んだのである。こうして、ボルボン朝は残したまま、新たな護憲革命政府が樹立された。  
 デル・リエゴは、多くの革命指導者とは異なり、自身が新政府を率いる野心を見せず、ガリシア軍政長官という地方職にとどまった謙虚さという点で特筆すべきものがあった。しかし、立憲革命は王制廃止を求める共和主義者を勢いづかせ、1822年には共和主義者の反乱が起きた。  
 デル・リエゴ自身はフランス革命時のラファイエットに似て穏健な立憲君主制支持者だったにもかかわらず、共和主義者の反乱の背後にあるものと疑われ、いったん投獄されるが、彼の釈放を求める民衆の抗議行動により、国会議員に選出され、釈放された。
 こうして立憲革命が成功したスペインは、1820年から3年間にわたり「自由の三年」と呼ばれるブルジョワ民主主義の時代を迎えることになる。しかし、ボルボン朝を残したことは禍根となった。革命の急進化を恐れるフェルナンド7世の要請により、ウィーン体制下の絶対王政諸国が武力介入を決定する。  
 これを受け、1823年4月にフランス軍がスペインに侵攻、数か月の戦闘の後、8月に革命政府を打倒することに成功したのである。フランスを後ろ盾とする新たな反動政府は、11月に革命英雄デル・リエゴを絞首刑に処し、革命粉砕の象徴とした。  
 こうして、スペイン立憲革命が短期で挫折したのは、上述したようにボルボン朝を存続させたことが要因であった。その点、10年後にブルボン朝を廃し、君主制の枠内でよりリベラルなオルレアン朝に立て替えたフランス七月革命との相違が際立っている。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿