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近代革命の社会力学(連載補遺31)

2022-10-12 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(5)チベット独立革命と近代チベット国
 チベット地方は清朝第5代雍正帝の時に分割されて以来、その西南部のみがダライ・ラマ政府(ガンデンポタン)の支配領域とされた。これも基本的には清朝の藩部であるが、ダライ・ラマというある種の君主を擁するチベットと清朝の関係は特殊なものであり、他の藩部よりも自治の程度は高かった。
 そうした微妙な辺境支配の空隙は、19世紀末以降、西アジアへの進出を狙う英国の射程内に入った。それを象徴する事変が、清末の1903年から翌年にかけて、英国によるチベット侵攻・占領である。
 これは英国がライバルであった帝政ロシアを牽制するべく、当時の英領インドの軍隊を動員して断行したもので、インドに隣接するチベットへ侵出することで、英領インドを防衛する狙いがあった。
 この作戦は武力で圧倒的な英国側の勝利に終わり、時のダライ・ラマ13世は北京亡命に追い込まれ、首都ラサには英軍が駐留した。その際、ダライ・ラマ政府は清朝に諮ることなく、英国との間で保護条約を締結した。
 こうしてチベットは英国の保護国に置かれ、1908年には13世がいったん帰国するが、これに対抗するべく、1905年以降、清朝が四川省の地方軍を動員してチベットに進軍し、1910年にはラサに進駐したため、13世はインド亡命を余儀なくされた。
 これ以後、清朝は13世を一方的に廃位し、チベットを藩部から中央集権的な省に格下げする改革に着手するが、間もなく辛亥革命で清朝が打倒されたことで、白紙に戻された。そこで、チベットは残留する清朝軍を武力で駆逐して、ダライ・ラマ政権の支配を回復した。
 1913年には13世も帰国して、ここにチベット独立革命が成立した。チベットと英国、中華民国三者で協議した1915年のシムラ条約では、チベット独立に否定的な中華民国の立場にも配慮し、チベットを中国の宗主下での独立国家として承認したが、内容に不満の中華民国が署名を拒否したため、結果的にチベットは事実上の独立を確保した。
 といっても、後ろ盾となった英国の影響力が増し、実質的には英国の保護国に近かったが、13世は保守的ながらも、英国の支援でチベットの近代化に取り組み、文化面でも一定の欧化を進めた。
 その間、軍閥割拠の内戦状態に陥った中華民国側も辺境のチベットに本格介入するゆとりがなかったことにも助けられ、この近代チベット国は支配領域を中華民国から奪取・拡張しつつ、1933年の13世死没を超えて1951年まで存続した。
 そうした点で、チベット独立革命は英国という外力も加わった近代化革命を兼ねたものとなると同時に、独立革命後のモンゴルがロシアとの関係を深めたことで、ロシア革命の影響を直接に受けて社会主義勢力が台頭、再独立‐社会主義革命を経て社会主義国に収斂していくのとは対照的な経過を辿った。


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