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近代革命の社会力学(連載第314回)

2021-10-19 | 〆近代革命の社会力学

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(2)独立運動組織の結成から蜂起まで
 ギニア‐ビサウにおける独立革命を含めて、ポルトガル植民地独立戦争を総体としてとらえた場合、最初に狼煙を上げたのはアンゴラであった。当地では、1961年、アンゴラ解放人民同盟(MPLA)が最大都市ルアンダの刑務所を襲撃したのが第一撃であった。
 しかし、アンゴラではマルクス‐レーニン主義を標榜するMPLAのほかに、中道保守的な解放運動体であるアンゴラ解放人民同盟(FNLA)や、FNLAから分離した毛沢東主義のアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)という三系統の独立運動組織が台頭し、特にUNITAはポルトガルと内通すらしていたことで、ポルトガル軍による反乱鎮圧作戦を利していた。
 アンゴラに続いて蜂起したのがギニア‐ビサウであるが、ここでは、島嶼植民地カーボヴェルデと包括する形で、マルクス‐レーニン主義のギニア及びカーボヴェルデ独立アフリカ党(PAIGC)が統一的な組織として立ち上げられ、一貫して独立運動を担った点で凝集性を保っていた。
 PAIGCは1956年、アミルカルとルイスのカブラル兄弟ほか6人の活動家によって結成された政党であり、カブラル兄弟がギニア‐ビサウ生まれながらカーボヴェルデで育ったことが、ギニアとカーボヴェルデをつなぐ組織の結成となった所以と見られる。
 カブラル兄弟のうち、兄のアミルカルは農学を専攻した農業技術者出身の活動家で、一時アンゴラに追放されていた縁から、PAIGCの結成と同年にアンゴラのMPLAの結成にも参与していた。彼は汎アフリカ主義の思想家としても、アフリカ諸国で注目される存在となる。
 ちなみに、弟のルイスは会計士としてポルトガル系企業に勤務した経験を持つ実務家であり、後述するように、兄が暗殺された後、独立したギニア‐ビサウの初代大統領ともなる人物である。
 PAIGCの当初の路線は交渉による平和的な方法で独立を目指すというものであったが、転機となったのは1959年、ギニア‐ビサウ最大の都市ビサウで、ストライキを敢行した港湾労働者にポルトガル警察が発砲し多数の死傷者を出した事件である。これを契機に、PAIGCは次第に武装闘争路線に舵を切った。
 その準備として、1961年にはアンゴラの前出MPLAやモザンビーク植民地における同種団体のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)とともに、各植民地の枠を超えた共同戦線組織となるポルトガル植民地ナショナリスト組織協議会を結成した。
 そのうえで武力を整備した後、1963年にPAIGCはポルトガルに対して宣戦布告した。ただし、島嶼部のカーボヴェルデは兵站の確立が困難なため、地下活動にとどめ、ギニア‐ビサウの大陸部を主要な戦線としたため、組織としては統合されながら、ギニア‐ビサウとカーボヴェルデでは別の戦略が採られることになった。
 こうした合理的な分離戦略は後にPAIGC内部でギニア派とカーボヴェルデ派の派閥化を生じ、ひいては当初の構想にあった統一国家の樹立という目標を困難にし、別国家としての分離独立と別国家としての確定という現状の固定化につながった。


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