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近代革命の社会力学(連載第398回)

2022-03-21 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(9)モンゴル革命

〈9‐1〉ソ連衛星国体制と体制内改革
 モンゴルは、1917年ロシア革命の後、ソ連の支援を受け、活仏ボグド・ハーンを推戴する君主制国家として1921年に中国からの独立を果たした後、24年のハーンの死去後、ソ連をモデルとする社会主義人民共和国として再編された(拙稿)。
 このように近代モンゴルは出発点からソ連との結びつきが緊密であったことから、その後も一貫してソ連体制に忠実な衛星国家としての地位を保った。その点では、社会主義モンゴルはアジア初の社会主義国家であると同時に、第二次大戦後に誕生した中・東欧の親ソ社会主義諸国の先駆けとなるモデル国家ともなった。
 支配政党は、他名称名共産党の性格を持つ人民革命党であった。隣接する中国における1949年大陸革命で中国共産党による社会主義体制が樹立されると、党内には親中国のグループも形成されるが、中ソ対立が深化すると、親中派は追放され、伝統の親ソ路線が純化された。
 実際、人民革命党支配下の社会主義モンゴルの歩みはソ連側指導部の変遷とも見事に符合している。初期は「モンゴルのスターリン」とも評されたスターリン主義者ホルローギーン・チョイバルサンがスターリンの死の前年まで独裁し、その実質的な後継者となったユムジャーギイン・ツェデンバルはソ連の脱スターリン化に歩調を合わせ、1984年に事実上解任されるまで長期政権を維持した。
 ツェデンバル引退の翌年、ソ連に改革派のゴルバチョフ指導部が登場すると、ツェデンバルを継いだジャムビイン・バトムンフは、ゴルバチョフ改革に歩調を合わせ、企業の独立採算制の導入を軸とする経済改革に着手した。
 しかし、この改革はゴルバチョフ改革以上に慎重・保守的なものであり、伝統的な親ソ路線の一環としての政策的な同調の域を出なかったが、遅ればせながら民主化運動を刺激する触媒となるには充分な契機となった。
 革命の出足は中・東欧諸国の連続革命にやや遅れたが、1989年の年末には最初の民主化運動が立ち上がった。その後の過程は中・東欧連続革命の後を追う形となり、長年忠実に追随してきた盟主ソ連に先駆けて、体制崩壊へ導かれていく。


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