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近代革命の社会力学・総目次Ⅰ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

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序説
 ページ1

一 北陸一向宗革命

(1)概観 ページ2
(2)越中・加賀の旧体制 ページ3
(3)一揆衆の形成と革命の成因 ページ4
(4)一向宗革命体制の構造 ページ5
(5)一向宗革命体制の終焉 ページ6

二 17世紀英国革命

(1)概観 ページ7
(2)革命前英国の社会変動 ページ8
(3)革命主体としての議会 ページ9
(4)革命諸派の分岐状況 ページ10
(5)国王処刑への力学 ページ11
(6)軍事的共和制への収斂 ページ12
(7)王政復古から名誉革命へ ページ13

三 アメリカ独立革命

(1)概観 ページ14
(2)独立前北アメリカ植民地と本国 ページ15
(3)集団的革命家の形成 ページ16
(4)独立戦争の力学 ページ17
(5)独立派黒人の寄与 ページ17a
(6)女性たちの動静 ページ18
(7)持続する立憲革命体制 ページ19

四 18世紀フランス革命

(1)概観 ページ20
(2)旧体制の動揺 ページ21
(3)民衆蜂起と革命の開始 ページ22
(4)革命諸派の形成 ページ23
(5)君主一家処刑への力学 ページ24
(6)革命的独裁と恐怖政治 ページ25
(7)二極化する民衆 ページ26
(8)革命における宗教力学 ページ27
(9)革命の軌道修正 ページ28
(10)反動化と帝政への変質 ページ29

四ノ二 18世紀オランダ革命

(1)概観 ページ29a‐1
(2)国民議会の設置まで ページ29a‐2
(3)憲法党争 ページ29a‐3
(4)反動的軍事介入から崩壊へ ページ29a‐4

五 ハイチ独立革命

(1)概観 ページ30
(2)植民地サン‐ドマングの人種別階級構造 ページ31
(3)革命の初動とブードゥー教 ページ32
(4)フランス革命への呼応と暫定自治 ページ33
(5)帝政とその崩壊 ページ34
(6)南北分裂から再統一へ ページ35

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(1)概観 ページ35a‐1
(2)復刻絶対君主制の両義性 ページ35a‐2
(3)対ロシア敗戦から革命へ ページ35a‐3
(4)ベルナドッテ朝と立憲君主制の展開 ページ35a‐4

六 第一次欧州連続革命

(1)概観 ページ36
(2)1820年スペイン立憲革命 ページ37
(3)1820年ポルトガル立憲革命 ページ38
(4)イタリア・カルボナリ党革命 ページ39
(5)1830年フランス七月革命 ページ40
(6)余波としての周辺革命・二次革命 ページ41
(7)ベルギー独立革命 
   〈7‐1〉南ネーデルラントの特殊性 ページ41a‐1
   〈7‐2〉独立革命への急転 ページ41a‐2
   〈7‐3〉独立革命後の諸状況 ページ41a‐3

六ノ二 ギリシャ独立革命(準備中)

六ノ三 メキシコ独立/第一次共和革命

(1)概観 ページ41b‐1
(2)ヌエヴァ・エスパーニャの支配構造 ページ41b‐2
(3)メキシコ独立革命の過程 ページ41b‐3
   〈3‐1〉司祭の蜂起~1815年
   〈3‐2〉革命への反転~1821年
(4)第一帝政と共和革命 ページ41b‐4
(5)第一共和政とその破綻 ページ41b‐5

六ノ三ノ二 テキサス独立革命

(1)概観 ページ41b‐6
(2)テキサス開拓とアメリカ人入植者団 ページ41b‐7
(3)独立革命への過程 ページ41b‐8
(4)テキサス共和国の成立とアメリカ編入まで ページ41b‐9

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(1)概観 ページ42
(2)イタリア諸邦の革命 ページ43
(3)フランス二月革命
   〈3‐1〉オルレアン朝体制の限界 ページ44
   〈3‐2〉未然革命:改革宴会
   〈3‐3〉革命政府の樹立と展開 ページ45
   〈3‐4〉反動化から第二帝政へ ページ46
(4)オーストリア三月革命 ページ47
(5)ハンガリー三月革命 ページ48
(6)ドイツにおける革命
   〈6‐1〉諸邦の革命 ページ49
   〈6‐2〉フランクフルト国民議会
   〈6‐3〉共和革命から反革命へ ページ50
(7)革命余波の諸状況 ページ51

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(1)概観 ページ51a‐1
(2)自由主義革命から「改革戦争」へ ページ51a‐2
(3)傀儡第二帝政と第二次共和革命 ページ51a‐3
(4)20世紀メキシコ革命への展望 ページ51a‐4

八 フランス・コミューン革命

(1)概観 ページ52
(2)敗戦と第二帝政の崩壊 ページ53
(3)パリ包囲戦と第二次革命の胎動 ページ54
(4)コミューン革命への展開 ページ55
(5)パリ・コミューンの権力構造と施策 ページ56
(6)革命の挫折と反革命テロル ページ57

九 日本近代化革命:明治維新

(1)概観 ページ58
(2)「開国」と革命への胎動 ページ59
(3)倒幕運動の始動と担い手 ページ60
(4)無血革命成らず革命戦争へ ページ61
(5)革命政府の展開と権力闘争 ページ62
(6)明治政府の革命的政策展開 ページ63
(7)自由民権運動の対抗 ページ64
(8)立憲帝政への保守的収斂 ページ65

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(1)概観 ページ65a‐1
(2)朝鮮王朝晩期の情勢 ページ65a‐2
(3)「独立党」の形成と日本へ/の接近 ページ65a‐3
(4)革命的決起と挫折 ページ65a‐4
(5)未遂革命の余波 ページ65a‐5

十 ブラジル共和革命

(1)概観 ページ66
(2)ペドロ2世の革新的治世 ページ67
(3)1889年11月共和国宣言 ページ68
(4)打ち続く内乱・内戦 ページ69
(5)寡頭的共和制への収斂 ページ70

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(1)概観 ページ71
(2)白人既得権益層と「銃剣憲法」 ページ72
(3)共和革命への急進展 ページ73
(4)「共和国」から合衆国準州へ ページ74

十二 フィリピン独立未遂革命

(1)概観 ページ75
(2)革命的地方名望家階級の形成 ページ76
(3)1896年第一次独立革命 ページ77
(4)1898年第二次独立革命から対米戦争へ ページ78
(5)キューバ独立戦争(革命)との対比 ページ79

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(1)概観 ページ80
(2)ロシア立憲革命(第一次革命)
   〈2‐1〉革命集団の台頭 ページ81
   〈2‐2〉日露戦争と「血の日曜日」 ページ82
   〈2-3〉民衆革命の展開 ページ83
   〈2‐4〉「改革」と抑圧 ページ84
(3)イラン立憲革命
   〈3‐1〉属国化と革命機運 ページ83
   〈3‐2〉第一議会の開設と憲法制定 ページ84
   〈3‐3〉第二議会と列強の反革命介入 ページ85

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)
   〈4‐1〉青年トルコ人運動 ページ86
   〈4‐2〉立憲革命の展開 ページ87
   〈4‐3〉革命の迷走と三頭体制 ページ88

十四 ポルトガル共和革命

(1)概観 ページ89
(2)共和主義者の結集 ページ90
(3)10月5日革命への展開 ページ91
(4)革命的政策展開と共和党の分解 ページ92
(5)第一共和政の崩壊過程 ページ93

コメント

近代革命の社会力学・総目次Ⅱ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(1)概観 ページ93a‐1
(2)革命前史 ページ93a‐2
(3)開発独裁体制の矛盾 ページ93a‐3
(4)ブルジョワ民主化革命の始動 ページ93a‐4
(5)反革命と再革命 ページ93a‐5
(6)農民革命運動の挫折 ページ93a‐6
(7)革命の保守的収斂 ページ94a‐7

十六 中国共和革命:辛亥革命

(1)概観 ページ94
(2)前段階的ナショナリズム ページ95
(3)近代的ナショナリズムと中国同盟会 ページ96
(4)地方蜂起から密約革命へ ページ97
(5)革命の横領過程 ページ98
(6)革命の挫折と軍閥支配 ページ99
(7)「護法革命」の不発 ページ100 
(8)革命の余波 ページ100a

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(1)概観 ページ100b‐1
(2)清朝藩部の半自治的支配構造 ページ100b‐2
(3)辛亥革命と「五族共和」理念 ページ100b‐3
(4)モンゴル独立革命とその帰趨 ページ100b‐4
(5)チベット独立革命と近代チベット国 ページ100b‐5

十七 1917年ロシア革命

(1)概観 ページ101
(2)革命勢力地図 ページ102
(3)共産主義運動の転移 ページ103
(4)大戦から革命へ ページ104
(5)二月革命:共和革命 ページ105
(6)反革命とボリシェヴィキの台頭 ページ106
(7)十月革命:社会主義革命 ページ107
(8)ボリシェヴィキ党のクーデター ページ108
(9)前皇帝一家虐殺への力学 ページ109
(10)内戦・干渉戦の力学 ページ110
(11)ソヴィエトの形骸化とソヴィエト連邦の成立 ページ111
(12)革命の輸出 ページ112
(13)革命の余波 ページ113

十七ノ二 フィンランド未遂革命

(1)概観 ページ114
(2)民族主義と社会主義の交錯 ページ115
(3)社会主義労働者共和国の樹立 ページ116
(4)白衛軍の勝利とその後 ページ117

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(1)概観 ページ117a‐1
(2)民族主義勢力と共産党の連合 ページ117a‐2
(3)革命政権の内紛と混迷 ページ117a‐3 
(4)「モスクワの裏切り」から崩壊へ ページ117a‐4

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(1)概観 ページ117b‐1
(2)自治の撤廃とロシア白軍の占領 ページ117b‐2
(3)人民党の結成から再独立革命へ ページ117b‐3
(4)社会主義体制の樹立とソ連衛星国家体制の確立 ページ117b‐4

十八 ドイツ革命

(1)概観 ページ118
(2)帝政ドイツと社会民主党の台頭 ページ119
(3)水兵反乱からレーテ革命へ ページ120
(4)レーテと社民党のせめぎ合い ページ121
(5)急進派の蜂起と敗北 ページ122
(6)バイエルン革命とその挫折 ページ123
(7)ワイマール共和国の保守的転回 ページ124

十九 オーストリア革命

(1)概観 ページ125
(2)オーストリア社労党の独自路線 ページ126
(3)多民族帝国の解体 ページ127
(4)ドイツ‐オーストリア臨時政府の展開 ページ128
(5)革命の挫折と革新的ウィーン市政 ページ129

十九ノ二 ハンガリー革命

(1)概観 ページ130
(2)独立革命:アスター革命 ページ131
(3)ハンガリー共産党とソヴィエト革命 ページ132
(4)ソヴィエト共和国の挫折と反革命 ページ133

二十 エジプト独立‐立憲革命

(1)概観 ページ135
(2)ウラービ運動とその挫折 ページ136
(3)ナショナリズムの再興まで ページ137
(4)第一次世界大戦から独立革命へ ページ138
(5)1923年憲法と立憲君主制の展開 ページ139

二十一 トルコ共和革命

(1)概観 ページ140
(2)大戦参加と「統一と進歩」政権の瓦解 ページ141
(3)大国民会議の創設と解放戦争の始まり ページ142
(4)解放戦争から革命へ ページ143
(5)世俗的共和国の創出 ページ144
(6)共和体制の限界とその後 ページ145

中間総括Ⅰ:第一次世界大戦と革命 ページ146

二十二 タイ立憲革命

(1)概観 ページ147
(2)近代的エリート階級の成長と人民団の結成 ページ148
(3)人民団の決起と新政府 ページ149
(4)打ち続く権力闘争 ページ150
(5)武官派の優位と疑似ファシズムへの転化 ページ151

二十三 チリ社会主義革命

(1)概観 ページ152
(2)大恐慌とチリの社会経済危機 ページ153
(3)社会主義者の軍民連合 ページ154
(4)「百日社会主義共和国」の施策と内紛 ページ155
(5)早まった革命の瓦解と事後的結党 ページ156

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(1)概観 ページ156a‐1 
(2)チャコ戦争と社会変動 ページ156a‐2
(3)軍民連合革命への転回 ページ157a‐3
(4)「軍事社会主義」とその自壊 ページ157a‐4
(5)パラグアイ二月革命との対比 ページ157a‐5

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(1)概観 ページ157
(2)人民戦線とアナーキズムの台頭 ページ158
(3)革命の展開過程 ページ159
(4)革命統治の構造 ページ160
(5)革命的施策の展開 ページ161
(6)人民戦線政府による革命回収措置 ページ162
(7)内戦の内外力学 ページ163
(8)共和派の敗北とファシズム体制の確立 ページ164

二十六 グアテマラ民主化革命

(1)概観 ページ165
(2)ファシズム体制の成立と抵抗運動 ページ166
(3)民衆蜂起から軍民連合革命へ ページ167
(4)革新民政の樹立 ページ168
(5)反革命クーデターから「30年軍政」へ ページ169

二十七 コスタリカ常備軍廃止革命

(1)概観 ページ170
(2)革命への急転回 ページ171
(3)カリブ軍団の結成と活動 ページ172
(4)革命‐内戦と平和福祉国家の建設 ページ173

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(1)概観 ページ174
(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命
   〈2‐1〉パルティザンの結成 ページ175
   〈2‐2〉パルティザンの政治組織化と解放 ページ176
   〈2‐3〉ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国 ページ177
   〈2‐4〉自主管理社会主義への道 ページ178
(3)アルバニア・レジスタンス革命
   〈3‐1〉レジスタンス組織の結成 ページ179
   〈3‐2〉レジスタンスの曲折と勝利 ページ180
   〈3‐3〉社会主義体制の樹立と鎖国化 ページ181
(4)ギリシャ・レジスタンス革命
   〈4‐1〉レジスタンス組織の結成 ページ182
   〈4‐2〉革命政府の樹立と戦後構想 ページ183
   〈4‐3〉内戦激化への過程 ページ184
   〈4‐4〉内戦終結と革命の挫折 ページ185

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(1)概観 ページ185a‐1
(2)独立運動と共産主義運動の交錯 ページ185a‐2
(3)独立同盟の結成と八月革命の成功 ページ185a‐3
(4)第一次インドシナ戦争から分断国家へ ページ185a‐4
(5)ラオス独立革命との交差 ページ185a‐5

三十 中国大陸革命

(1)概観 ページ186
(2)革命根拠地の建設 ページ187
(3)抗日レジスタンスの展開 ページ188
(4)解放から内戦へ ページ189
(5)共産党の勝利と人民共和国の樹立 ページ190
(6)最初期革命政権の展開 ページ191
(7)共産党支配体制の確立と揺らぎ ページ192
(8)革命の余波 ページ193

三十一 インドネシア独立革命

(1)概観 ページ194
(2)日本軍政と民族主義の解放 ページ195
(3)独立宣言から独立戦争へ ページ196
(4)独立革命の諸相 ページ197
(5)「指導された民主主義」への道 ページ198

中間総括Ⅱ:第二次世界大戦と革命 ページ199

コメント

近代革命の社会力学・総目次Ⅲ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(1)概観 ページ199a‐1
(2)ラナ家専制支配体制と近代ネパール ページ199a‐2
(3)インド独立運動の脱革命的性格 ページ199a‐3
(4)反専制運動の始動 ページ199a‐4
(5)立憲革命への展開と反革命 ページ199a‐5
   〈5‐1〉立憲革命の力学
   〈5‐2〉反革命と専制王制の復活
(6)共産主義運動の台頭 ページ199a‐6 

三十二 エジプト共和革命

(1)概観 ページ200
(2)第一次中東戦争と自由将校団の台頭 ページ201
(3)反英蜂起から共和革命へ ページ202
(4)革命政権の展開~スエズ危機まで ページ203
(5)スエズ危機の超克とアラブ社会主義の潮流 ページ204
(6)革命の余波 ページ205

三十三 アルジェリア独立革命

(1)概観 ページ206
(2)植民地アルジェリアの支配構造 ページ207
(3)民族解放戦線の結成と独立宣言 ページ208
(4)独立戦争の展開Ⅰ~1958年まで ページ209
(5)独立戦争の展開Ⅱ~終結まで ページ210
(6)独立と初期政権 ページ211
(7)二次革命と社会主義体制の確立 ページ212

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(1)概観 ページ213
(2)スターリン主義国家の成立 ページ214
(3)脱スターリン化と政治混乱 ページ215
(4)民衆蜂起の革命化と挫折 ページ216
(5)限定的自由化への収斂 ページ217

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(1)概観 ページ218
(2)国民革命運動の台頭 ページ219
(3)選挙結果回復闘争から革命的蜂起へ ページ220
(4)革命前期:1952年‐56年 ページ221
(5)革命中/後期:1956年~60年~64年 ページ222

三十六 キューバ社会主義革命

(1)概観 ページ223
(2)バティスタ独裁への軌跡 ページ224
(3)青年革命運動の形成 ページ225
(4)冒険的革命蜂起―失敗から成功へ ページ226
(5)最初期革命政権の展開 ページ227
(6)反米親ソ化からソ連型社会主義体制へ ページ228
(7)革命の余波 ページ229

三十七 韓国民主化革命

(1)概観 ページ230
(2)朝鮮半島分断と二つの独裁体制 ページ231
(3)学生革命への力学 ページ232
(4)第二共和国とその挫折 ページ233

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(1)概観 ページ234
(2)ルワンダ革命/ブルンディ革命
   〈2‐1〉ベルギー領ルアンダ‐ウルンディ ページ235
   〈2‐2〉「フトゥ・パワー」とルワンダ共和革命 ページ236
   〈2‐3〉トゥツィ強硬派とブルンディ革命 ページ237
(3)ザンジバル革命
   〈3‐1〉オマーン系ザンジバルと共和革命 ページ238
   〈3‐2〉タンザニア合邦とアフリカ社会主義 ページ239
(4)ウガンダ革命
   〈4‐1〉君主制内包共和国の独異性 ページ240
   〈4‐2〉社会主義革命とその挫折 ページ241

三十九 アラブ連続社会主義革命

(1)概観 ページ242
(2)チュニジア革命
   〈2‐1〉独立から共和革命へ ページ243
   〈2‐2〉社会主義への転化と撤回 ページ244
(3)イラク革命
   〈3‐1〉親英イラク王国と自由将校団の結成 ページ255
   〈3‐2〉共和革命と最初期革命政権 ページ256
   〈3‐3〉革命三派の抗争とバアス党の台頭 ページ257
(4)南北イエメン革命
   〈4‐1〉南北イエメンの分断 ページ258
   〈4‐2〉北イエメンにおける近代化の遅滞 ページ259   
   〈4‐3〉北イエメン革命と長期内戦 ページ260
   〈4‐4〉北イエメンにおける第二次革命 ページ261
   〈4‐5〉南イエメン独立革命 ページ262
   〈4‐6〉南イエメン一党支配体制への進展 ページ263
(5)スーダン革命
   〈5‐1〉独立から1964年民衆革命へ ページ264
   〈5‐2〉自由将校団革命から反革命的転回まで ページ265
(6)リビア革命
   〈6‐1〉独立から自由将校団革命まで ページ266
   〈6‐2〉直接民主制理論と個人崇拝政治の乖離 ページ267

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(1)概観 ページ268
(2)シリア独立とバアス党の台頭 ページ269
(3)バアス党の軍内党派化 ページ270
(4)シリアの1963年3月8日革命 ページ271
(5)イラクの1968年7月17日革命 ページ272
(6)シリアにおける革命の「矯正」 ページ273
(7)イラクにおける革命の横領 ページ274

四十 中国文化大革命

(1)概観 ページ275
(2)文化大革命の開始時と経緯 ページ275
(3)紅衛兵運動と革命委員会 ページ276
(4)文化大革命の転回 ページ277

四十一 バングラデシュ独立革命

(1)概観 ページ278
(2)東西パキスタンの離隔と格差 ページ279
(3)総選挙から独立革命への急進 ページ280
(4)独立の達成と混迷 ページ281

四十二 タイ民主化革命

(1)概観 ページ282
(2)反共ファシズム体制の破綻 ページ283
(3)憲法要求運動から革命へ ページ284
(4)革命の挫折と半民主化 ページ285

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(1)概観 ページ286
(2)コンゴ革命 ページ287
(3)ソマリア革命 ページ288
(4)ダオメ=ベナン革命 ページ289
(5)マダガスカル革命 ページ289
(6)コモロ革命 ページ299
(7)セーシェル革命 ページ300

四十四 エチオピア社会主義革命

(1)概観 ページ301
(2)帝政晩期のエチオピア社会 ページ302
(3)民衆騒乱から軍事革命の始動まで ページ303
(4)臨時軍政評議会の成立と初動 ページ304
(5)廃皇帝「処刑」から権力闘争へ ページ305
(6)「赤色内戦」から独裁権力の確立まで ページ306
(7)オガデン戦争:ねじれた干渉戦 ページ307
(8)一党支配体制の後発的樹立と大飢饉 ページ308

四十五 ギニア‐ビサウ独立革命

(1)概観 ページ309
(2)独立運動組織の結成から蜂起まで ページ310
(3)ゲリラ戦と解放区の統治 ページ311
(4)独立の達成とその後 ページ312

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(1)概観 ページ313
(2)ファシズム体制の遷延と限界 ページ314
(3)植民地戦争と国軍運動の形成 ページ315
(4)革命と救国評議会の樹立 ページ316
(5)革命の急進化局面と自壊 ページ317
(6)革命の中和化から収束へ ページ318

四十七 インドシナ三国同時革命

(1)概観 ページ319
(2)同時革命の動因:第二次インドシナ戦争 ページ320
(3)ベトナム統一社会主義革命
   〈3‐1〉南ベトナム解放組織の結成と展開 ページ321
   〈3‐2〉戦勝と統一革命 ページ322
(4)ラオス社会主義革命
   〈4‐1〉 内乱とベトナム戦争の連動 ページ323
   〈4‐2〉 第三次連合政権の瓦解と革命 ページ324
(5) カンボジア社会主義革命
   〈5‐1〉半王政‐半社会主義の60年代 ページ325
   〈5‐2〉右派クーデターから内戦へ ページ326
   〈5‐3〉革命と狂信化 ページ327
(6)三国同時革命の「その後」 ページ328

四十八 バヌアツ独立革命

(1)概観 ページ329
(2)言語分割と独立運動の混迷 ページ330
(3)英語圏勢力による革命 ページ331
(4)メラネシア社会主義の展開 ページ332

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(1)概観 ページ333
(2)近代化改革とその限界 ページ334
(3)人民民主党の結党と分党 ページ335
(4)1973年共和革命 ページ336
(5)1978年社会主義革命 ページ337
(6)権力闘争とソ連の軍事介入 ページ338
(7)長期内戦から体制崩壊へ ページ339
(8)革命挫折の余波 ページ340

五十 イラン・イスラーム共和革命

(1)概観 ページ341
(2)パフラヴィ―朝と「白色革命」 ページ342
(3)革命運動の隆起 ページ343
(4)共和革命への力学 ページ344
(5)女性の動静 ページ344a
(6)共和革命の成功 ページ345
(7)イスラーム共和制の樹立まで ページ346
(8)干渉戦争とファッショ化 ページ347
(9)軌道修正から半民主化へ ページ348
(10)革命の余波 ページ349

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(1)概観 ページ350
(2)独立と独裁 ページ351
(3)人民革命政府の樹立と展開 ページ352
(4)アメリカの侵攻と革命の挫折 ページ353

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(1)概観 ページ354
(2)ソモサ一族独裁と抵抗運動 ページ355
(3)革命までの過程 ページ356
(4)革命政権の展開と反革命運動の始動 ページ357
(5)革命の民主的終了とその後 ページ358

中間総括Ⅲ:東西冷戦と革命 ページ359

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(1)概観 ページ360
(2)ライベリア革命
   〈2‐1〉解放奴隷支配体制の動揺 ページ361
   〈2‐2〉下士官革命から内戦へ ページ362
(3)ガーナ革命 ページ363
(4)ブルキナファソ革命 ページ364
(5)ウガンダ革命
   〈5‐1〉混迷と救国革命運動の隆起 ページ365
   〈5‐2〉非政党民主主義とその変節 ページ366

五十四 ハイチ民衆革命

(1)概観 ページ367
(2)デュヴァリエ世襲体制の弱体化 ページ368
(3)民衆蜂起と外圧 ページ369
(4)革命の収束と収束しない混迷 ページ370

五十五 フィリピン民衆革命

(1)概観 ページ371
(2)寡頭民主制から開発独裁制へ ページ372
(3)開発独裁体制の腐食と揺らぎ ページ373
(4)不正選挙と民衆蜂起、軍の離反 ページ374
(5)続く政情不安と残存課題 ページ375

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近代革命の社会力学・総目次Ⅳ

2022-12-28 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(1)概観 ページ376
(2)ポーランド「円卓会議」と平和的体制移行 ページ376
(3)ハンガリーの党内政変と国境開放 ページ377
(4)東ドイツ解体革命
   〈4‐1〉教条主義体制と「ベルリンの壁」 ページ378
   〈4‐2〉革命への蠕動 ページ379
   〈4‐3〉抗議行動の拡大と党内政変 ページ380
   〈4‐4〉「ベルリンの壁」打壊から東ドイツ解体へ ページ381
(5)チェコ/スロヴァキア分立革命
   〈5‐1〉「プラハの春」の残響 ページ382
   〈5‐2〉学生・知識人決起から体制崩壊へ ページ383
   〈5‐3〉チェコとスロヴァキアの分離 ページ384
(6)ブルガリア革命
   〈6‐1〉長期指導部とトルコ系迫害政策 ページ385
   〈6‐2〉環境市民運動から革命へ ページ386
(7)ルーマニア革命
   〈7‐1〉一族独裁体制の確立 ページ387
   〈7‐2〉経済的下部構造の揺らぎ ページ388
   〈7‐3〉革命勃発から大統領夫妻処刑への力学 ページ389
   〈7‐4〉救国戦線政府の権威主義化と分裂 ページ390
(8)アルバニア革命
   〈8‐1〉独裁者の死と限定改革 ページ391
   〈8‐2〉学生・労働者蜂起から遅発の革命へ ページ392
(9)モンゴル革命
   〈9‐1〉ソ連衛星国体制と体制内改革 ページ393
   〈9‐2〉草原の国の無血革命力学 ページ394
(10)革命の帰結 ページ395
(11)革命の余波 ページ396

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(1)概観 ページ397
(2)体制内改革の限界 ページ398
(3)バルト三国独立革命 
   〈3‐1〉ペレストロイカと蠕動 ページ399
   〈3‐2〉三国独立運動の始動
   〈3‐3〉三国同時革命への展開 ページ400
   〈3‐4〉連邦の反革命介入とその失敗 
(4)新連合条約と保守派クーデター
   〈4‐1〉新連合条約の起草と国民投票 ページ401
   〈4‐2〉共産党保守派クーデターと民衆の抵抗 ページ402
(5)ソ連邦解体への急進 ページ403
(6)革命の余波①:対内的 ページ404
(7)チェチェン独立革命とその挫折 ページ405
(8)革命の余波②:国際的 ページ406
(9)革命の帰結 ページ407
   〈9‐1〉独裁制と独占資本の出現 
   〈9‐2〉ロシアの社会再編 

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(1)概観 ページ408
(2)エチオピア救国/エリトリア独立革命
   〈2‐1〉多民族糾合革命 ページ409
   〈2‐2〉エリトリアの独立
(3)ソマリア救国未完革命 ページ410
(4)ルワンダ救国革命 ページ411
(5)ザイール=コンゴ救国革命 ページ412
   〈5‐1〉反共独裁体制の破綻 
   〈5‐2〉地政学的革命と新たな内戦 

五十九 ネパール民主化革命

(1)概観 ページ413
(2)立憲専制君主制と抵抗運動の閉塞 ページ414
(3)革命運動の始動と展開 ページ415
   〈3‐1〉政党決起の初動的失敗 
   〈3‐2〉民衆蜂起への急転
(4)共産党の統合化と毛沢東主義派の台頭 ページ416

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(1)概観 ページ417
(2)メキシコ革命理念の後退 ページ418
(3)非政党型革命組織と武装組織 ページ419
(4)サパティスタ自治域の樹立 ページ420
   〈4‐1〉樹立までの経緯
   〈4‐2〉自治の構造
(5)革命の反響と展望 ページ421

六十一 インドネシア民衆革命

(1)概観 ページ422
(2)アジア通貨危機とスハルト体制の動揺 ページ423
(3)民衆蜂起から半革命へ ページ424
(4)翼賛体制の終焉と残存課題 ページ425
(5)革命の余波‐東ティモール独立 ページ426

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(1)概観 ページ427
(2)セルビア革命
   〈2‐1〉新ユーゴスラヴィアの成立とコソヴォ紛争 ページ427
   〈2‐2〉民衆革命への力学 ページ428
   〈2‐3〉革命の不純化‐アメリカの操作的関与 ページ429
(3)グルジア革命
   〈3‐1〉構造汚職と政情不安 ページ430
   〈3‐2〉民衆革命への力学 ページ429
(4)ウクライナ未遂革命
   〈4‐1〉独立から地政学的分断へ ページ430
   〈4‐2〉未遂革命と親欧派政権の誕生 ページ431
(5)キルギス革命 ページ432
(6)諸革命の「その後」 ページ433
(7)諸革命の余波 ページ434

六十三 レバノン自立化革命

(1)概観 ページ444
(2)宗派内戦からシリアの支配へ ページ445
(3)民衆革命への力学 ページ446
(4)限定的な成果と続く外国の干渉 ページ447

六十四 ネパール共和革命

(1)概観 ページ448
(2)内戦から復刻専制君主制へ ページ449
(3)共和革命への力学 ページ450
(4)マデシ地方自治闘争の並行 ページ451
(5)毛派主導政権の成立とその後 ページ452

六十五 キルギス民主化革命

(1)概観 ページ453
(2)縁故独裁の再現前化と革命への急転 ページ454
(3)革命政権の樹立と展開 ページ455
(4)地域間/民族紛争の惹起 ページ456

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(1)概観 ページ456
(2)アラブ社会主義体制の転向あるいは変質 ページ457
(3)チュニジア革命
   〈3‐1〉ポスト・ブルギバ改革の限界 ページ458
   〈3‐2〉民衆革命への急転 ページ459
   〈3‐3〉革命の中和的収斂
(4)エジプト革命
   〈4‐1〉ムバーラク体制の安定と閉塞 ページ460
   〈4‐2〉チュニジア民衆革命の波及 ページ461
   〈4‐3〉軍の政権掌握から民政移管まで
(5)イエメン革命
   〈5‐1〉統一イエメンと選挙制独裁 ページ462
   〈5‐2〉緩慢な革命過程 ページ463
   〈5‐3〉南北再分裂と持続的内戦への転化
(6)リビア革命
   〈6‐1〉「無職者」独裁体制の特異性 ページ464
   〈6‐2〉政治経済「改革」とその挫折
   〈6‐3〉民衆蜂起から内戦・干渉戦へ ページ465
   〈6‐4〉ガダーフィ惨殺と国家の分解 ページ466
(7)シリア(未遂)革命
   〈7‐1〉権力世襲と体制内改革の挫折 ページ467
   〈7‐2〉民衆蜂起の開始と展開 ページ468
   〈7‐3〉革命組織・自由シリア軍の結成と展開 ぺージ469
   〈7‐4〉革命勢力の多岐分裂と革命の挫折 ページ470
(8)モロッコ半革命 ページ471
(9)革命の余波 ページ472
(10)イスラーム主義の伸長 ぺージ473
(11)革命の総体的挫折:アラブの冬 ページ474

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(1)概観 ページ475
(2)クルド人勢力の糾合と決起 ページ476
(3)革命自治体制の樹立と地政学的展開 ページ477
(4)革命自治体制の制度と政策 ページ478
   〈4‐1〉民主的連合主義
   〈4‐2〉協同経済体制
   〈4‐3〉女性科学理論と実践

六十七 ウクライナ自立化革命

(1)概観 ページ479
(2)親欧政権の分裂と親露政権への交代 ページ480
(3)親露政権の抑圧と対露従属化 ページ481
(4)民衆革命への急転と革命の中和 ページ482
(5)革命の帰結 ページ483

暫定結語

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近代革命の社会力学(連載追補8)

2022-12-26 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(5)女性の動静
 イスラーム主義をイデオロギー的基調とするイラン共和革命の大きな特徴として、多様な階級からの女性の参加が見られたことがある。このことは、イスラーム主義は女性の政治参加に否定的と認識されている通念に反する特徴である。
 その点で、イラン共和革命は「ジェンダー革命」と評されることもあるが、実のところ、イランでは20世紀初頭の立憲革命にも女性の参加が見られ、革命を契機に女性の権利の拡大が進んでいた。
 こうした流れは共和革命で打倒されたパフラヴィ―朝主導の近代化改革にも引き継がれ、1966年にはイラン女性運動のセンターとなるイラン女性機構(以下、女性機構)が設立され、70年代にはファラ・パフラヴィ皇后自ら穏健なフェミニストとして女性の権利の擁護に立った。
 そうした積み重ねの上に1979年の共和革命を迎えるのであったが、その点では、革命の絶対的とも言える指導者であったホメイニが女性の革命への参加を積極的に呼びかけたことも、ジェンダー革命を促進する動因となった。
 もっとも、こうしたホメイニの好意的な言動が革命を全社会化するためのレトリックだったのか、真に女性の政治参加を促進する意図に基づいていたかの評価は分かれ得るが、ともかくも、1979年革命では女性は革命運動に座を占め、デモに参加した。
 特に子連れの母親デモはパフラヴィー朝による革命の武力鎮圧を躊躇させる効果を持ち、革命を成功させる力学的な要因となったほか、家庭で夫を説得して革命に参加させることで革命過程を促進する触媒としての女性の役割には大きなものがあった。
 また、反パフラヴィー朝運動家で、イスラーム主義者としてホメイニ側近に名を連ねたマルジエ・ハディッチのように、革命体制のインサイダーとして活動する女性革命家の存在もあった。
 とはいえ、革命における女性の役割は非組織的であり、フェミニストの間でもイスラーム主義に対する態度は分かれ、思想的な統一は見られず、女性の参加はあくまでも民衆革命の下支えにとどまったとも言える。
 事実、いざ革命が成功すると、ホメイニ体制は厳格なイスラーム主義の教義に基づき、女性のヒジャブ着用義務のほか、一夫多妻制の奨励、パフラヴィー朝時代の近代的な離婚法の廃止などの復古的な政策を打ち出していった。
 一方で、革命体制は女性を政治的に排除することはせず、如上ハディッチは革命後の1987年に創設された一種の女性政治団体イスラーム共和国女性協会(以下、女性協会)の総裁となり、これにはホメイニの長女で哲学博士号を持つザーラも事務総長として参加するなど、イラン革命のジェンダー革命としての性格は維持されている。
 もっとも、革命後、イスラーム主義と相反する女性機構は解散したうえ、イスラーム主義の枠内での女性権利擁護を目指し、ヒジャブの着用を支持する女性協会も国会にほとんど議席を得られないなど、革命後の女性の政治的地位は閉塞している。
 他方で、医療や教育分野をはじめとする職場における女性の参加は革命後に飛躍的に増加しており、1979年共和革命のジェンダー革命としての成果は両義的であり、イラン女性は次なる革命の潜勢力となり得る条件を保持していると言える。

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近代革命の社会力学(連載追補7)

2022-12-18 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(6)共産主義運動の台頭
 ネパールの近現代史で興味深いことは、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、立憲革命→民主化革命→共和革命と三段階に及んだ革命の過程で共産主義運動が台頭し、多岐にわたる分派活動から伸長した毛沢東主義派と政府軍との内戦を経て、最終的な共和革命により毛派が議会政治の枠組み内で政権党にまで至った運動力学である(拙稿)。
 その端緒となったのは、1949年における共産党の結党である。この初期共産党は元来、当時の野党勢力の中心にあったネパール国民会議のプシュパ・ラール・シュレシュタが中心となって創立された。
 シュレシュタの結党動機は国民会議内部の権力闘争や当時のラナ宰相家独裁体制との妥協的な姿勢に幻滅したことにあったと見られるが、初期共産党はインドのカルカッタで結党された小さな亡命政党に過ぎなかった。
 しかし、シュレシュタはマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』やレーニン、毛沢東の基本文献の翻訳紹介を積極的に行い、イデオロギー的な面でネパールに共産主義運動を根付かせる最初の播種の役割を果たした。
 そうした中で、国民会議を中心とした反専制運動が沸騰すると、ネパール共産党は他の左派系諸派と連合して統一民主戦線を結成し、1951年の立憲革命にも参加した。とはいえ、国民会議に比べれば、立憲革命への寄与は限定的であった。
 革命後の新政権にも共産党が参加することはなく、1952年1月に国民会議強硬派のクンワル・インドラジット・シンハが武装蜂起し、共産党を含む挙国一致内閣の成立を要求したことを契機に、共産党も連座して非合法化された。
 その後、1956年、共産党は立憲君主制を容認することで非合法化を解除され、1959年総選挙では初の議席を獲得するも、1960年のマヘンドラ国王による反革命的な非常措置の発動により、他党とともに再び非合法化されるなど、紆余曲折を辿る。
 翌1962年、共産党は復刻した専制王制への対応をめぐって分裂し、多様な指導者に率いられた分派が多数形成されるが、それによって共産主義運動総体が低迷することなく、1990年の民主化革命へ向けて離合集散しながら運動が継続されていくのであった。
 ネパールの共産主義運動はインドの分派的な共産主義運動の影響を多分に受けていたが、建国時から共和制が確立されていたインドの国政レベルでは少数党派の域を出なかったインドの共産党諸派とは異なり、ネパールでは半封建的な専制王制への抵抗において共産主義諸派が総体として重要な位置を占め続けた点で、社会力学に相違があったと言える。

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近代革命の社会力学(連載追補6)

2022-12-11 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(5)パラグアイ二月革命との対比
1932年から35年までのボリビアvsパラグアイ間のチャコ戦争は、敗戦国ボリビアのみならず、戦勝国パラグアイでも、戦後の1936年2月に革命事象を引き起こした。
 タイムライン上は、ボリビア第一次社会主義革命(以下、ボリビア革命)より3か月先行しており、このパラグアイ二月革命がボリビアの革命を触発した可能性もある。
 ただし、パラグアイ二月革命(以下、二月革命)は厳密にはクーデターに近いもので、ボリビア革命より短期で挫折しているため、本連載では個別的には取り上げず、ボリビア革命との対比事象として言及する。
 他の南米諸国同様、19世紀初頭にスペインから独立したパラグアイは19世紀前半期には先住民族グアラニー人とスペイン人の通婚奨励政策や土地公有化政策などの独自政策を通じて、南米でも最も安定した国家となっていた。
 しかし、19世紀後半のブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ三国同盟との戦争に敗れた後は、国土の縮小と外国人による土地買占めなどにより、衰退期にあった。
 三国同盟戦争後に愛国的な保守政党コロラド党が結成され、政権政党となるが、1904年に中小地主と中産階級商人を代表する自由党がアルゼンチンから武装蜂起し、短期の内戦に勝利して以後は自由党政権の時代となった。
 自由党支配体制下では、自由主義経済と半封建的な地主制が同居する状況で、農民層は貧困に置かれていた。加えて、党内抗争が絶えず、頻繁な政変と政権交代に見舞われる政情不安が常態化した。
 そうした中で勃発したチャコ戦争に勝利したにもかかわらず、死者4万人を出した戦争によるパラグアイ社会経済の疲弊は甚大で、時のエウゼビオ・アヤラ大統領は指導力の欠如を批判された。
 これに対し、チャコ戦争復員軍人の処遇への不満を背景に、当時中堅・若手将校のリーダーとして台頭していたラファエル・フランコ大佐(当時はアルゼンチンへ追放中)を擁立するクーデターが成功し、自由党支配体制は崩壊した。
 この事象がクーデターでなく革命と称されるのは、フランコ支持者の蜂起には労働者、学生、知識人も加わっていたこと、フランコ政権下で大規模な農地改革(計画では200万ヘクタール農地の再配分)と史上初の労働法の制定などの革命的施策が断行されたことによる。
 しかし、こうした急進的な施策は地主層や中産階級の反発に直面する一方、権利を得た労働者のストライキが頻発がすると、フランコは政党を禁止し、同時代欧州のファシズムに傾斜した法令の制定により独裁化を図った。
 これによって、二月革命はファシズムの色彩を帯びるようになり、支持者離れから法令の撤回を余儀なくされたうえ、ボリビアとの間でなお継続中の講和会議で譲歩したことが軍の不満をも引き起こし、1937年8月のクーデターでフランコは政権を追われた。
 こうして二月革命は1年余りで挫折、以後、パラグアイでは1940年代の親ナチス派軍人イヒニオ・モリニゴの独裁政権下で、実質的な政権党としてコロラド党が復権する。二月革命支持者も二月党(フェブレリスタ)として残存し、一時モリニゴ政権に加わるが、正式の政党化は1951年まで遅れ、勢力を維持できなかった。
 コロラド党は、反モリニゴで結束し蜂起した自由党や二月党、共産党との1947年の内戦に勝利し、1950年代以後、新たな反共軍事独裁者アルフレド・ストロエスネルの下、長期支配政党の地位を確立する(拙稿)。
 その点、いったんは挫折した第一次社会主義革命以後、社会主義勢力が台頭し、1950年代に第二次社会主義革命を経験するボリビアとは大きく針路を異にしたことになる。

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近代革命の社会力学(連載追補5)

2022-12-04 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(8)革命の余波
 辛亥革命は中東地域まで含めたアジア全域での史上初となる成功した共和革命であったが、当時すでにその多くが欧米日の植民地支配下に置かれていたアジアでは、東アジアの周辺諸国でも余波と呼ぶべき連続的あるいは波及的な革命は発生することがなかった。
 その点、日本は孫文ら革命派にとっては海外亡命拠点であったにもかかわらず、日本の尊王意識は進歩派の間ですら強固であり、思想的な面で共和革命の影響が及ぶことはなく、日本で天皇制打倒の触発的な共和革命運動が隆起することはなかった。
 一方、朝鮮は、辛亥革命前年に日本への併合により独立を喪失していた。日清戦争後の割譲により日本領土となって久しい台湾では、辛亥革命に触発されたインドネシア生まれの客家の革命家・羅福星が1913年に組織的な抗日蜂起を計画したが、日本当局に露見し、羅を含む同志20人が死刑となった(苗栗事件)。
 こうして、辛亥革命の余波は対外的なものより対内的なものに収斂した。特に清朝時代に藩部としてある種の民族自治が敷かれていた辺境地域の自立化・独立化の動きである。 
 中でも最も敏感な動きを示したのはモンゴルとチベットであり、両地域ではある程度持続する自立的な政権の樹立を見たが、これについては別途派生章を充てることとし、ここではもう一つの藩部である新疆における状況を見るにとどめる。
 新疆はかつての西域に相当する領域で、イスラーム教が優勢な辺境地であったが、乾隆帝による征服以来、清朝の支配領域に編入されていたところ、19世紀のイスラーム勢力の反乱でいったん支配が崩れた後、清朝が奪回、省制の施行に伴い、1884年以降、新疆省が設置され、中央統制が強化されていた。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、新疆でも当初は漢人系の革命家が1911年12月に首府の迪化(現ウルムチ)で革命蜂起したが、これは小規模なものにとどまり、失敗に終わった。しかし、明けて1912年1月に、やはり漢人系の革命集団が伊犁(イリ)にて蜂起し、革命政権の樹立に成功した。
 このイリ革命を指導した馮特民は外部出身の革命派漢人であり、結局のところ、辛亥革命余波としての新疆革命は、在地のムスリムではなく漢人が主体となった点に内在的な限界があった。
 とはいえ、辛亥革命後、清朝残党内には皇帝を辺境地に移して反革命を起動させる計画もあったとされる中、新疆でも呼応革命が勃発したことは、こうした反革命運動の始動を阻止し、清朝護持派に対して最終的な打撃を与えたとも言えるところである。
 しかし、最終的にイリ革命政権は新疆全域を掌握できないまま、12年2月までに清朝科挙官僚出身の漢人・楊増新の軍勢に敗北したので、独立革命に発展することはなかった。
 ただし、楊増新は清末に清朝から派遣された地方行政官出自でありながら、清朝護持派ではなく、イリの革命派を取り込みつつ、辛亥革命後の中華民国政府からも新疆省統治の承認を取りつけ、中華民国体制下の言わば新・新疆省の独裁的統治者にのし上がった。その点、辛亥革命を横領して独裁者となった袁世凱と類似する人物であったと言える。
 楊増新体制は楊が暗殺された1928年まで続くが、その間、中華民国が事実上の内乱状況に陥る中、楊体制は実質的な独立政権の様相を呈し、西アジア地域に触手を伸ばす英国・ロシアとも渡り合いつつ、省内の民族的・宗教的対立を封印して、安定をもたらすことに成功した。

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近代革命の社会力学(連載追補4)

2022-11-18 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐3〉独立革命後の諸状況
 ベルギーの独立革命は1830年12月のロンドン会議でひとまず国際的に承認を得たものの、オランダはこれに不服であった。そのため、独力で武力による奪還を図り、1831年8月に再びベルギーに侵攻した。
 当初のベルギー軍は民兵団程度のものにすぎず、数日でベルギーは陥落寸前となったが、ベルギーはフランスに応援を要請、フランス軍が支援介入に乗り出したことで、蘭仏戦争の危機に直面した。そのため、イギリスの仲介を経て停戦が合意され、ベルギー侵攻作戦は十日間で収束した。
 このいわゆる「十日戦争」ではオランダが勝利寸前で外交的に敗北したことでベルギー独立は確証される結果となったが、オランダはなおも旧南ネーデルラントの奪還に執着し、独立承認を拒んでいた。最終的に、オランダと五大国(英仏露墺独)、ベルギーの間で締結された1839年のロンドン条約をもってようやくベルギーの正式な独立が確定した。
 ところで、ベルギー独立革命は総体としてカトリック系南ネーデルラントのプロテスタント系オランダへの反感をエートスとしてはいたものの、特にフランス語を母語とするワロン人の反オランダ感情を基盤としてワロン人主導で実行されたことで、独立ベルギーはフランス語至上主義となり、オランダ語を母語とするフラマン人との間で、言語をめぐる対立関係が顕在化する。
 この対立関係は俗に「言語戦争」と呼ばれ、実際に武器を取る内戦に発展することはなかったものの、国の分裂を招きかねない深刻な対立軸となった。この対立はひとまず両言語を対等に扱う平等法の制定で中和化されるが、最終的にはワロン地域とフラマン地域とを分ける不安定な言語分割連邦制へと止揚されていく。
 ちなみに、ベルギーの土台となった旧南ネーデルラントには独自のドイツ語圏に属するルクセンブルクも含まれていたが、ルクセンブルクはベルギー独立革命に参加し、いったんベルギー領となった。
 しかし間もなく東西分割され、ワロン系住民の多い西部はベルギー領(リュクサンブール州)に、東部はベルギーを離れ独立した後、一時オランダと同君連合を形成し、1890年以降に大公国として再独立するという複雑な経過をたどった。
 こうし言語分断を内包しながらも、独立ベルギーのドイツ出身初代国王レオポルド1世は、ベルギーを永世中立国として独立の担保としつつ、欧州の経済強国に発展させる野望を抱き、立憲君主制憲法の枠を逸脱した政治介入により、国政を指導した。
 王太子としてその遺志を継いだレオポルド2世の時代には、欧州列強に先駆けてアフリカ大陸侵出を図り、コンゴ、後にはルワンダ、ブルンディを植民地化し、ベルギ―を帝国主義国家に押し上げた。
 しかし小国ゆえの無理な海外膨張であったため、その植民地経営は苛烈を極め、20世紀のアフリカ諸国独立に際しては、コンゴ動乱ルワンダやブルンディの凄惨な民族紛争を誘発するなど、禍根を残すことになる。

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近代革命の社会力学(連載追補3)

2022-11-16 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐2〉独立革命への急転
 今日のベルギーにほぼ相当する南ネーデルラントにおける反オランダ感情が独立革命に展開した触発契機は、1830年に復活ブルボン朝が打倒されたフランス七月革命であった。当時は新聞メディアの発達期であり、七月革命の時々刻々は新聞を通じて南ネーデルラントにも伝えられ、関心を呼んでいた。
 そうした中、1830年8月、ブリュッセルの王立モネ劇場で上演されたオペラ『ポルティチの物言わぬ娘』の公演後に民衆暴動が突発した。このオペラはナポリの反スペイン蜂起を題材とする愛国的なフランス歌劇であったことが、市民の反オランダ感情に着火したのである。
 その経緯から「オペラ座の反乱」とも呼ばれる民衆蜂起が独立革命に急転していったのであるが、このようにベルギー独立革命は芸術が革命の引き金となった稀有の事例であるとともに、音楽の持つ潜在的な革命触発力を示唆している。
 その後、短期間で南ネーデルラント全域に広がった蜂起に対して、オランダ当局は軍を動員して鎮圧に当たり、ウィレム1世の次男フレデリック王子指揮下のオランダ軍は9月末、市街戦でブリュッセルの制圧を試みるも、革命派民兵の激しい抵抗にあい、失敗した。
 同月26日には、独立派のブルジョワ人士から成る臨時政府が樹立された。臨時政府は28日に中央委員会を設置し、同10月4日に独立を宣言し、11月には制憲国民会議選挙を実施した。
 行き詰ったオランダ国王ウィレム1世は欧州主要国に外交的介入を求め、同年11月にはロンドンにオーストリア、イギリス、フランス、プロイセン、ロシアの主要国から成る国際会議が招集されるが、諸国は議論の末、ベルギーの独立を承認したため、ウィレムの期待は外れた。
 こうしてベルギー独立は国際的にも承認を得たものの、オランダは大いに不満であり、引き続き武力による奪還を図り、最終的にウィレム1世治世末期の1839年まで独立承認を拒んだ。
 一方、革命参加者には労働者階級が多かったにもかかわらず、ベルギー臨時政府は基本的にリベラルなブルジョワ派であり、立憲君主制を志向していた。そのため、翌1831年2月に制定された憲法は王権が制約されたイギリス式の立憲君主制を規定したが、全体として、当時としては最も先進的な成文憲法となった。
 問題はオランダ国王に代えて誰を君主に推戴するかであったが、当初は七月革命で王位に就いたフランス国王ルイ・フィリップの次男で、独立戦争にもフランス軍部隊を率いてベルギー側で参加したヌムール公ルイに即位を要請した。しかし、これはベルギーがフランスに吸収されることを恐れたイギリスの反対で実現しなかった。
 そのため、一時的に摂政を置いたうえ、イギリスの仲介を経て、イギリス王室の親類筋でもあるドイツ系ザクセン‐コーブルク‐ゴータ家出身のレオポルドを初代国王に招聘する運びとなった。こうして、1831年7月、レオポルドが初代ベルギー国王として即位し、独立ベルギー王国が正式に成立した。

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近代革命の社会力学(連載追補2)

2022-11-14 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐1〉南ネーデルラント地方の特殊性
 ウィーン会議の政治反動への反作用として、1820年から10年間に及んだ長期的な第一次欧州連続革命の余波事象の中でも、その最終期に当たる1830年のベルギー独立革命は今日のベルギー王国、さらにはルクセンブルク大公国の形成にも直接つながり、欧州の地政学にも影響を及ぼす固有の意義を持った。
 ベルギーは元来、単立の統一国家ではなく、スペイン支配を経て、18世紀以来、オーストリア領ネーデルラントと神聖ローマ帝国領(リエージュ司教領)に分裂していた。そうした中、1789年にオーストリア領ネーデルラントのブラバントとリエージュ司教領で同時的な革命蜂起があった。
 その結果、1790年にはリエージュを含めたベルギー合衆国の樹立が宣言された。その初発地の名を取って「ブラバント革命」とも称されるこの事象は単立国家ベルギーが形成される胎動ではあったが、オーストリア軍による迅速な鎮圧作戦により年末までに挫折した。そのため、この事象はベルギー独立革命としての持続性を持ち得なかった。
 その後のオランダはフランス革命に触発されたバタヴィア共和革命が挫折した後、フランス軍に侵攻され、フランス支配下に移ったが、ナポレオンの敗退後、1815年のウィーン会議を経て成立したネーデルラント連合王国(オランダ)の領土に編入されるという転変を経験した。
 このオランダ統治下の南ネーデルラントはカトリックが優勢で、フランス語を話すワロン系人口が多いなど、プロテスタントが優勢なオランダにあって、宗教的・民族的構成の点で異質的であった。
 そのうえ、フランス支配時代に先駆的な産業革命を経験していた南ネーデルラントはなお後進的な北ネーデルラントとは経済格差がある反面、政治的にはワロン人が疎外されるなど、政治経済的な南北不均衡が顕在化していたことは、南ネーデルラントの独立への希求を強めた。
 一方、この時期のオランダは、オラニエ家の世襲統領を擁する君主制的共和制から明確に君主制国家として再編されるという反動化の時代を迎えていた。中でも、時の初代国王ウィレム1世は開明的ながら「遅れてきた啓蒙専制君主」と称される専制的な統治手法で臨んでいたことも、革命を誘発する要因となった。

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近代革命の社会力学(連載追補1)

2022-11-06 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(5)独立派黒人の寄与
 アメリカ独立革命=戦争では、当時宗主国英国でも存続していた黒人奴隷制は直接の争点とならなかったが、英国当局者が逃亡して英国軍に参加した黒人奴隷の解放を約束する声明を発したことで、黒人奴隷の多くは英国軍側に付くこととなった。
 もっとも、英国側の狙いは黒人兵士の徴発にあり、奴隷制度そのものの廃止は約束しておらず、あくまでも英国軍参加を条件とする個別的な奴隷解放という軍事的な目的からのある種取引にすぎなかった。それでも、解放を期待して英国軍に参加した黒人(黒人王党派)はおよそ2万人に及ぶと見られる
 これに対して、何らかの形で独立革命に参加した独立派黒人は、独立派の視点から「黒人愛国者(ブラック・パトリオット)」と呼ばれ、勢力としては、すでに解放された自由黒人を中心に黒人王党派の約半分の9千人と推計される。そのうち大陸軍または民兵団で戦闘に参加した兵士は5千人とされる。
 独立戦争初期こそ、東部植民地では、奴隷か自由人を問わず黒人が独立派民兵団に参加していたが、独立派は黒人の徴用が奴隷反乱を招くことを懸念したため、大陸会議は黒人兵士の徴用をいったん停止した。しかし、英国側の黒人徴用策に対抗するため、方針を撤回し、自由黒人の大陸軍参加を認めた。
 一方、個々の植民地のレベルでは、人手不足を補う意味からも黒人奴隷の民兵団参加を認めるケースもあり、実際、マサチューセッツ植民地は1775年に黒人兵士だけで構成された民兵部隊バックス・オブ・アメリカを組織した。
 革命派の正規軍に当たる大陸軍でも、指揮官を除き先住民を含む有色人種のみで構成された第一ロードアイランド連隊はその兵士の大半が黒人で組織されたため、史上初の黒人連隊と呼ばれることもある。同連隊は独立戦争の全期間を通じて活動し、多くの戦闘に参加した。
 稀有な存在としては、大陸軍総司令官ジョージ・ワシントン自身の奴隷で、独立戦争中にワシントンの個人秘書を務めたウィリアム・リーがいる。彼は後にワシントン自身の遺志で解放された唯一の黒人奴隷となった。
 これら独立派黒人=黒人愛国者は、数の希少さや当時の人種差別的な社会常識のゆえに過小評価され、独立達成後は忘れられた存在となり、黒人の多くが英国側に付いたこともマイナスに働いて、かれらの寄与が奴隷制廃止への契機となることはなかった。
 一方、多くの黒人奴隷が参加した英国軍が勝利していれば反革命が成立し、アメリカの独立は阻止された一方で、奴隷制廃止は英国本国の政策により数十年早く達成されていた可能性があることは、アメリカ独立革命をめぐる歴史の皮肉と言える。

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近代革命の社会力学(連載補遺40)

2022-10-28 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(5)立憲革命への展開と反革命

〈5‐1〉立憲革命の力学
 1947年を起点とする新たなラナ家専制支配体制への抵抗運動に対して、宰相モハン・ラナは1941年の前例に従って弾圧策で臨んだのであったが、今回は、新たな独立変数として国王その人が加わった点で、体制側に誤算があった。
 ラナ家の専制支配の間、シャハ王家の側でも王権奪回を狙った企てが何度かなされたが、いずれも失敗に終わっていた。結果的に最後のラナ家宰相となったモハンの時代の国王トリブバンは幼少で即位した後、ラナ宰相の傀儡として、ある時点までは政治的に無関心な生活を送っていた。
 しかし、成長した1940年代になると、トリブバンは反専制運動の支持者となり、ネパール国民会議と手を結んだ。これに激怒したモハンは1950年11月、トリブバンを廃位してインド亡命に追い込むとともに、王太子を飛び越えてわずか3歳の王孫ギャネンドラ―後に再即位するも、2006年‐08年共和革命により廃位され、シャハ王朝最後の王となる―を新国王に据えた。幼王を傀儡化する狙いからである。
 このような恣意的な廃位と国王の立て替えは、同年7月に平和友好条約を結んだばかりのインドを含む周辺諸国にも承認されず、外交的な窮地を招いた。他方、それまで非暴力抵抗主義を理念とした国民会議は1950年4月に他組織を合併し、ネパール会議に改称した後、武装革命方針に転換しており、トリブバン国王廃位を機に武装蜂起した。
 こうして、内戦危機に陥る中、インドの圧力もあり、ラナ体制はトリブバンの復位に応じた。1951年2月にはラナ体制とネパール会議、トリブバンの三者間でデリー協定が締結され、制憲議会の設置や政治組織の自由化、トリブバン国王の復位、暫定政府の樹立で合意した。
 これにより、ラナ家と国民会議双方の閣僚で構成される臨時政府が樹立されたが、首相は引き続きモハン・ラナが務めるラナ家‐ネパール会議の権力共有政権となったため、革命成果としては不十分な妥協の産物であった。
 そこで、トリブバン国王は1951年11月、ラナ家を排除し、ネパール会議前身の国民会議創設者でもあったマートリカ・プラサード・コイララを首班とするネパール会議派政権を組織した。これは史上初めて平民階級出自の首相が率いる政権となった。

〈5‐2〉反革命と専制王制の復活
 こうして、ラナ専制支配体制は終焉を迎えたが、ネパール最強の豪族であったラナ家は権力奪回への野望を捨てない一方、共産党による武装反乱の発生など、政情不安が続き、国王親政を含めて、めまぐるしく政権が代わり、革命移行期が遷延した。
 大幅に遅れて1959年にようやく実施された新憲法下で初の総選挙では、ネパール会議が圧勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララが初の民選首相に就任した。
 彼は先に移行政権の首相を務めた兄のマートリカ・プラサードよりもカリスマ性を持つ急進的な政治家であり、就任するや、封建的な大土地制度の改革、ラナ一族や西部で半自立的な地盤を持つ貴族層、さらに王家も例外としない平等課税などの改革に着手した。
 一方、王家の側では1955年3月にトリブバン国王が死去し、王太子マヘンドラが新国王に即位していたが、マヘンドラはコイララ政権の急進的改革に対して、再び王権が失墜する事態を懸念し、政権との対立を深めた。
 そこで、1960年、マヘンドラは自ら電撃的なクーデター行動を起こし、憲法を停止、議会も解散して全権を掌握した。62年には新憲法を公布し、政党活動を禁止したうえ、選挙議会制度に代わり、任命制を基本とするパンチャート制度を導入した。
 これは国王による反革命クーデターであり、コイララ兄弟をはじめ、ネパール会議派有力者は軒並み投獄され、以後、1990年の新たな民主化革命までの間、ネパールは再び専制王制下に置かれた。
 その間、ラナ家はもはや政治的な権力は持たなかったが、軍や警察で要職を占めるなど、本業の武官系で有力一族としての力を維持し、マヘンドラを継いだビレンドラ国王のアイシュワリア王妃もラナ家一族であるなど、外戚としても権勢を保った。

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近代革命の社会力学(連載補遺39)

2022-10-27 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(4)反専制運動の始動
 ラナ家専制体制に対する最初の反作用は、ラナ家内部から現れた。1901年に兄から宰相職を世襲したデーブ・ラナは、歴代のラナ家宰相とは異なり、開明的な改革派であり、立憲君主制と日本の明治維新をモデルとする近代化政策を志向した。
 しかし、こうしたデーブの改革志向は一族の間で警戒され、デーブは就任からわずか3か月で、五弟チャンドラ・ラナが主導するクーデターにより拘束された後、亡命に追い込まれた。
 こうして、ラナ家内部からの改革の芽は迅速に摘み取られた。代わって宰相となったチャンドラは27年に及ぶ施政の中で一定の近代化改革を進め、1923年には英国との条約によってネパールの法的な独立性を明確するなどの外交的成果も上げたが、ラナ家専制の枠組みを変更することはなかった。
 そうした中、1930年代に入ると、反専制運動が開始される。その外的な要因として、1934年のビハール・ネパール大震災の影響も想定される。推定1万人以上の犠牲者を出したこの大震災はネパールに社会的変動をももたらした。
 震災復興中の1936年にはネパール最初の反専制運動として、ネパール・プラジャ・パリシャドが組織された。これは当時、遅ればせながらも進められていた教育近代化の成果として台頭してきた知識人を中心とする秘密結社型組織であった。
 しかし、1941年に組織によるラナ家要人暗殺計画が発覚したのを機に、政府による大弾圧が加えられた。その結果、主要メンバーの多くが処刑され、組織も解体された。こうして、第二次大戦前の反専制運動はいったん閉塞に追いやられるが、弾圧を免れた運動家は英領インドに亡命し、インド独立運動に参加することで感化された。
 転機は、戦後の1947年におけるネパール国民会議(以下、国民会議)の結成であった。これはマートリカ・プラサードとビシュエシュワル・プラサードのコイララ兄弟を中心に、主にインド独立運動に参加した青年運動家らによって立ち上げられた組織で、その理念もインド国民会議の非暴力抵抗主義から影響を受けていた。
 折から、覚醒した織物工場労働者のストライキが発生すると、国民会議はこれを支援し、ここに知識人と労働者の連帯が成り、市民的不服従の全国的な運動へと展開していった。さらに、同年には学生も民主主義と近代的な教育カリキュラムを要求する組織的な抗議行動を起こした。
 このように、1947年は国民会議の結成に始まり、労働者のストライキ、学生運動と反専制運動の要素が同時に出揃う稀有の年度となった。しかし、翌年、1948年に宰相に就任したモハン・ラナはこうした運動を弾圧、国民会議を非合法化する対抗措置で応じた。

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近代革命の社会力学(連載補遺38)

2022-10-25 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(3)インド独立運動の脱革命的性格
 1947年のインド独立は、南アジアからアジア全般、さらには国際秩序にも波動的な影響を及ぼした事象であり、前回も触れたとおり、1951年のネパール立憲革命に対しても触発的な影響を与える中間項的な要因であった。
 インドの独立運動の歴史は長く、ラナ家専制下のネパールも英国東インド会社側で参戦した1857年の反英大蜂起を嚆矢として、およそ一世紀近く継続され、その間には革命によって独立を獲得しようとする動きも見られた。
 中でも、かねてより民族運動の中心にあったベンガルの革命的独立運動は、英国がベンガル地方をヒンドゥーとイスラームの宗教別に東西分割することを図った1905年のベンガル分割令の後、活性化された。
 しかし、こうした革命的運動は全般的な運動に展開することなく、ベンガルのほか、ウッタ―ル・プラデシュ、マハーラーシュトラ、ビハール、パンジャブなどの地域に限局された運動にとどまりつつも、20世紀以降に活発化し、二つの大戦の戦間期には爆弾テロなどの手法にしばしば出たが、幅広い支持を受けることはなかった。
 これに対して、南アフリカのインド人擁護活動を経験したマハトマ・ガンジーが提唱した「サティヤーグラハ(真理の把持)」思想に基づく非暴力抵抗運動は一世を風靡し、インド独立運動の主要な精神的・実践的な支柱となった。
 このようなインド独立運動における脱革命的な性格は歴史的にも特異であるが、おそらくガンジーの思想がアヒンサー(非暴力)のようなヒンドゥー教思想に着想されていたことが、ヒンドゥー教を優位宗教とするインド社会に適合したためであろう。
 もちろん、インド独立はこうした思想の力のみで達成されたわけではなく、1885年設立のインド国民会議という政治的な結集体の寄与が大きい。この政治団体は英領インドにおける英国の人種差別的な統治に反発するインド知識人を中心に立ち上げられた穏健派組織で、当初はある種の人権団体であった。
 しかし、19世紀末に自主独立を掲げる急進勢力が内部から台頭し、大衆にも浸透する民族主義団体に発展した。そして、ベンガル分割令を一つの契機とした1906年の大会で、四大綱領(英貨排斥・国産品愛用・自主独立・民族教育)を採択して以来、事実上の独立運動団体となった。
 その後、国民会議内部の穏健派と急進派の路線対立が激化したが、ガンジーの参加を得て、1920年以降、ガンジーの非暴力主義が事実上の路線となると、内部対立が緩和・止揚され、国民会議はインド独立運動の中心勢力として定着していった。
 このように、非暴力を理念とする会議体組織が運動の中心に立つことにより、インド独立運動は脱革命的な性格を強め、塩専売制に反対した1930年の「塩の行進」に象徴される不服従運動を手段としつつ、宗主国との対話と交渉を通じた独立獲得が目指されるようになる。
 第二次大戦後、戦勝しながらも戦災で疲弊した宗主国・英国労働党政権の植民地政策の方針転換により、インドはイスラーム優位のパキスタンとの分割独立という変則ながらも、独立を果たした。

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