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近代革命の社会力学(連載第102回)

2020-05-06 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(3)近代的ナショナリズムと中国同盟会
 清朝は、アヘン戦争後の西洋列強の攻勢に直面する中、武力で対抗することの限界を補うべく、政治・社会制度の西洋化という文化戦略によって対応しようとした。こうしたいわゆる洋務運動の延長上の改革として、19世紀末、若い光緒帝の承認の下、戊戌変法と呼ばれる政治・法律制度全般の近代化改革が発動された。
 しかし、これは当然にも、清朝体制護持を前提とした上からの改革にすぎない一方で、当時の清朝にとっては急進的すぎる改革であったことから、時の最高実力者・西太后の不興を買い、彼女を奉ずる保守派のクーデターにより挫折させられた。
 しかし、いったん着手された近代化改革は、多くの近代的な知識人青年を生み出していた。この世代の中からやがて近代的革命家が輩出される点では、西の青年トルコ革命の過程とも類似している。ただ、青年トルコ革命では、近代的な軍の青年将校が台頭していくが、清朝では軍の近代化が遅れたため、青年革命人士は文人であった。
 そうした新世代の革命人士の中には、やがて共和革命の理論的・精神的支柱ともなる孫文や黄興もいた。こうした新世代知識人の間では外国留学、とりわけ近場の新興国家であった日本に亡命を兼ねて留学することがブームとなった。
 そのため、孫文をはじめ、間もなく共和革命の中心を担う革命人士の多くが日本留学組であり、ある意味では、日本が中国共和革命のゆりかごともなったと言えるほどである。かれらは、日本の明治維新をモデルとしつつも、清朝の排除と共和制の樹立を構想し、様々な革命団体を結成した。
 当初は統一されず、林立状態だった革命諸団体を糾合する役割を果たしたのが、孫文である。彼は1905年、東京で新たに中国同盟会(以下、「同盟会」という)を立ち上げた。これは政党というより、名称通り盟約団体に近いもので、内部には多くの分派を含んでいた。
 そのうえ、日本側では右翼人士が仲介の労を取ったこともあり、日本の右派国粋主義勢力との結びつきが強いものとなった。日本の国粋主義勢力が同盟会を支援したのは、彼らが奉じていた日本を中心とするアジア主義の構想に取り込む狙いもあったからであろう。
 同盟会の綱領としては、孫文のスローガンである「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」が採用されたが、このうち、前半の「駆除韃虜、恢復中華」とは、19世紀の「滅満興漢」を言い換えたものに等しい。その点、中国共和革命は何よりも漢民族の自主権を近代的な仕方で奪回するという近代的なナショナリズムを原動力としていた。
 その反面、後半の「創立民国、平均地権」は、革命成就後の民主主義国家の樹立と土地の均等配分という政治経済的な民主化を含意していたが、こうした革命成就後の政治社会体制の構想に関しては同盟会内部でも十分に練られていたとはいえず、革命後の混乱と挫折の要因ともなっただろう。
 とはいえ、同盟会は清朝打倒という一点では高い凝集性を見せ、短期間で中国内外にネットワークを広げ、大衆啓蒙活動も展開した。その一方で、武力革命路線も採用し、各地で武装蜂起するも、知識人中心であるため、軍事戦略も民衆的な支持もなく、失敗を繰り返し、革命の機運は遠のくかに思われた。


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