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近代革命の社会力学(連載第290回)

2021-09-06 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(1)概観
  バングラデシュを含むインド亜大陸は、歴史的に革命とは無縁の地であった。もっとも、19世紀半ばには、当時インド侵出の先鋒となっていたイギリスの国策会社・東インド会社に対する反発が爆発し、大蜂起に進展したことはあった。
 この蜂起は東インド会社に雇用されていた傭兵シパーヒの蜂起に始まり、やがて階級の上下を超えた社会総体による反英蜂起の様相を見せ、一時は亜大陸の三分の二の地域に拡大したが、基本的には当時すでに形骸化していたムガル帝国の再建という復古的な目標以外にさしたる理念はなく、革命的な統治機構も未整備のままであった。
 結局、反転攻勢に出たイギリス軍によって順次撃破され大蜂起は収束、かえってイギリスによる直接的な統治下に編入されるという逆効果に終わった。そうした経緯からも、この19世紀インド大蜂起は、革命的事象というより反英大蜂起、あるいは―20世紀の独立運動と対比する形で―第一次独立運動と呼ぶべき事象である。
 その後、長いイギリス統治の時代を経て、第二次大戦後の1947年にインドはようやく真の独立を果たすことになるが、この20世紀における第二次独立運動では、マハトマ・ガンジーによる非暴力抵抗が主流となり、独立革命という形を取ることはなかった。
 そのうえ、宗主国イギリスは、第二次大戦に勝利しながら多大の損害を負い、本土復興を優先するためにも、最大規模のインド植民地を維持できなくなり、インドの領有を断念したという事情も僥倖の追い風となって、交渉を通じた平和的独立を果たすことに成功したのである。
 しかし、この独立は、ヒンドゥーとイスラームというインド亜大陸における二大宗派によるインドとパキスタンの分割独立という変則的な結果を伴ったことから、深刻な派生問題を副産物として生じることとなった。
 ヒンドゥー教を主体とするインドに対し、イスラーム教を主体とするパキスタンは、イスラーム教徒の分布状況から、領土がインドを中間に挟んで1000キロ以上も離隔した東部と西部に分断された。この分断は領土の線引き問題にとどまらず、主にウルドゥー語を使用する西パキスタンに対し、ベンガル語を使用する東パキスタンという言語的な分断状況を伴うものであるだけに深刻であった。
 しかし、独立パキスタンの権力中心は西パキスタンにあり、経済開発も西に偏り、東パキスタンのベンガル語話者(ベンガル人)は疎外感を強めていった。そのようなパキスタン内部の東西対立が1970年代に入って激化し、ついに東パキスタンの独立革命/内戦へと発展した。
 その背後には、独立プロセス以来のインドとパキスタンの遺恨的な対立緊張関係という外部の力学も関与しており、東西パキスタンの内戦に進展する中で、インドは東パキスタンを支援するという代理戦争の性格も持ったが、最終的にインドの支援を得て勝利した東パキスタンが「ベンガル人の国」を含意するバングラデシュとして独立を果たすことになる。
 そうした意味で、1971年のバングラデシュ独立革命は、1947年のインド/パキスタン分割独立が積み残した問題から派生した事象であり、また、革命と無縁であったインド亜大陸における初めての革命的事象であったとも言える。


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