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近代革命の社会力学(連載第332回)

2021-11-19 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(6)三国同時革命の「その後」
 1975年一年間で、まさにドミノ倒しのように継起したインドシナ三国同時革命であったが、その後の経過は、カンボジアとベトナム/ラオスとで決定的に分かれていく。そのうち同時革命の先頭を切ったカンボジアでは、前回触れたような狂信化と大虐殺という惨事が惹起された。
 このような狂信化は強い反作用を生み、共産党内の反ポル・ポト派を中心にベトナムへ亡命した勢力が結集し、ベトナムの支援の下、1978年に反体制組織としてカンプチア救国民族統一戦線を結成、革命の矯正が目指されることになる。
 この組織を率いたのはクメール・ルージュから離反してベトナムへ逃亡したヘン・サムリンを中心とする共産主義者たちであり、その中には現在まで長期執権を続ける若き日のフン・センも含まれていた。
 カンプチア救国民族統一戦線が1978年末に結成されると、翌年1月にはベトナム軍の支援を受けて電撃的にカンボジアへ進撃し、短期間でプノンペンを制圧、改めて親ベトナム派の他名称共産党である人民革命党を支配政党とするカンプチア人民共和国を樹立した。
 クメール・ルージュがこれほど容易に敗れたのは、ベトナム戦争を通じて高度に訓練強化されたベトナム正規軍を前にしては、中国の軍事援助を受けていたとはいえ、ゲリラ軍団の域を出ていなかったクメール・ルージュ軍では反撃できなかったことが要因である。
 かくして新たな人民革命党政権のもとで革命は矯正され、人道的惨事は食い止められたが、同政権は明らかにベトナムの傀儡であった。再び密林地帯へ逃亡してゲリラ勢力に戻ったクメール・ルージュは改めてシハヌークほか二派と組み、反ベトナムの統一戦線組織を結成して武力抵抗を続けたため、カンボジアは1991年の和平協定まで長期の内戦に突入した。
 ちなみに、この内戦はベトナム軍事介入後の中国とベトナムの対立という近親憎悪的な「共産党対決」に加え、反ベトナムのアメリカや日本など西側陣営や国際連合までがこぞって、クメール・ルージュを軸とする反ベトナム統一組織側を正当な「カンボジア政府」として承認し続けたことで長期化するとともに、大虐殺の責任追及も、最大の「主犯」ポル・ポトの死亡(1998年)後の2000年代までずれ込む結果を招いた。
 以上に対して、ベトナムとラオスの「その後」は、おおむね順調であった。とはいえ、人道上の問題がなかったわけではない。統一革命後のベトナムでは旧南ベトナム政権の支持者や華僑らが報復を恐れてボートで海上へ脱出、大量難民化した(いわゆるボートピープル)。
 またベトナム戦争中から革命後にかけて、南ベトナムで捕らえた南ベトナム政権関係者・支持者らを収容し、「学習改造」するための再教育キャンプが設置され、その劣悪な環境により、20万人近くの被収容者が死亡したと見られている。
 同様の再教育キャンプはラオスでも設置され、ここでは王制廃止後に拘束された最後の国王サワーンワッタナーと廃王妃及び廃王太子が収容中に死亡したとされているが、いずれも死亡の状況は不明である。
 政治的な面では、ベトナムとラオスは革命後、マルクス‐レーニン主義の支配政党が権力を確立し、今日まで安定的に体制を維持しているが、1980年代にソ連式の社会主義経済が行き詰まると、同年代半ば以降、中国共産党の改革開放政策に類似する市場経済原理を取り込んだ構造改革路線に転換していった。
 なお、和平後のカンボジアは、国際連合による暫定統治を経て、改めて国王に復帰したシハヌークを君主とする立憲君主制国家として再建されたが、80年代に台頭した人民革命党のフン・センが首相となり、マルクス‐レーニン主義を放棄し、党名変更した人民党を通じて、ファッショ的な性格の強い長期政権を維持している(拙稿参照)。


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