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近代革命の社会力学(連載第63回)

2020-01-21 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(2)「開国」と革命への胎動
 近世の日本は、対外的には「鎖国」を貫き、とりわけ西欧からの文物・情報の流入を厳しく統制しつつ、対内的には封建制の枠組みを維持しながら、中央政府兼軍参謀本部に相当する幕府の権限を強化し、封建領主に相当する大名や旗本を将軍家との因縁や家柄、格式により詳細に階層化したうえ、中央から監視・管理するという巧妙な体制を作り上げることで、独立性と安定性を200年以上にわたり保っていた。
 このように安定的な閉じた系には、革命の勃発する隙などないように思われた。とりわけ西欧経由の民主主義や自由主義に基づく近代的革命思想が知識人の間にすら全く流入しなかったことは、幕藩体制の長期に及ぶ持続にとって重要な秘訣であった。
 しかし、そのような閉じた系の長期に及ぶ安定性を破ったのは、幕府自身である。いわゆる「開国」政策がその突破口であった。これはアメリカをはじめとする米欧列強の武力を背景とする威嚇により半ば強いられたものであるとはいえ、事実上の国是を数百年ぶりに転換する決断であった。
 この歴史的な国是の転換に対する反応としては、開国を契機に西欧的近代化、さらには民主化を要求していくという方向性も想定できたが、上述のように、幕府が「開国」に踏み切った1850年代という時点では、西欧民主主義思想は日本における知見になっていなかったため、このような流れが生じることはなかった。
 その代わりに起きた反応は、攘夷を称する排外主義的な反発であった。これはまさに数世紀に及ぶ排他的な「鎖国」が生み出した自然の生体反応のようなものである。そして、この場合、「開国」に踏み切った幕府と実質的な元首である将軍に対する反発から、京都で逼塞していたもう一人の元首たる天皇への傾倒が生じたのも、自然の流れであった。
 こうして、攘夷と尊王とが結合して、いわゆる尊王攘夷運動が始動していくことになる。これに対して、幕府側でも対抗上天皇を取り込もうとして、いわゆる「公武合体」のような封建的婚姻戦略を展開するが、そのような時代遅れのやり方で対処できる段階ではもはやなかった。
 幕府温存策としては、天皇制と朝廷を廃止して幕府に一元化するか、徳川家を「王家」とする新王朝を立てるという方策もあり得たが、天皇からの授権という権威付けを統治の正当性の根拠としてきた徳川幕府にとって、このような方向性は論外であった。
 その代わり、将軍を関白・摂政として古来の朝廷の政治機構の中に組み込むという往年の豊臣氏政権に立ち返るような構想が現れ、実際、最後の将軍となった徳川慶喜は、天皇の後ろ盾を得ようと、ほとんどの時間を京都で過ごし、事実上「京都幕府」の様相を呈していたが、結局のところ、天皇を味方につけることには成功しなかった。
 他方、尊王攘夷運動側では、下関戦争や薩英戦争で見せつけられた列強の近代的軍事力を前に攘夷の不能性を悟ったことで、攘夷を撤回し、尊王を前面に押し出すようになった。こうして、尊王思想に基づく倒幕革命への土台が形成されるが、ここでの尊王とは西欧的な立憲君主制の思想とは異なり、復古的な基調を帯びたものであった。このような方向性は、続く明治維新という「革命」の性格にも制約を与えることになっただろう。


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