不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

人類史概略(連載第15回)

2013-10-30 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

資本制誕生前夜
 マルクスは、封建社会の経済構造の解体が資本主義社会の経済構造の諸要素を解き放した、といささか形式的な命題を立てているが、実際のところ、西洋でも封建制の解体から資本制の誕生までの間には相応のタイムラグがある。
 マルクスによると、資本主義が最も早くから発達したのはイタリアだとされるが、それは農奴制解体と農奴の都市労働者化が比較的早くから進んだ限りでのことであって、イタリアの資本主義的経済発展はかなり遅れた。
 むしろ資本制を準備したのは、ポルトガル、スペインが切り拓いた世界航路を利用して台頭したフランス、イギリス、オランダの重商主義であった。重商主義の革命性は、古代国家にせよ、封建制国家にせよ、従来国家の物質的土台がおおむね農業生産力に置かれてきたことを根本的に転換し、商業それも貿易に国家の物質的土台を置いたことにある。言わば、農本主義から商本主義への転換である。
 また重商主義は国家が商業活動を掌握し、国家に富を集中する点で、国富の蓄積の先駆けを成した。この点では、国家の経済的関与を最小限にとどめる自由主義経済体制とは異質的であって、その意味では重商主義をもって市場主義的な資本主義の直系の祖とみなすことはできないだろう。
 こうした国家主導の経済体制が可能になったのは、中央集権制の再構築が単純に国王への権力集中ではなく、政策集団としての官僚制(ないしはその萌芽としての国王顧問団)の発達を伴って行われたことの結果である。
 このような国家重商主義の中心地が先のフランス、イギリス、オランダであり、三国とも重商主義を象徴する国策会社・東インド会社を相次いで設立してこれを国家の経済的マシンとして駆使していく点では共通するが、それぞれの重商主義のあり方にはかなりの相違点があった。
 重商主義の典型例であったブルボン朝フランスでは官僚制の発達が高度に見られたが、その分、その経済的展開には官僚制特有の硬直さが見られ、初めからオランダ、イギリスには押され気味であった。
 一歩先行したのは新興国オランダであった。オランダは独立当初共和制という当時はまだ革新的な政体で始まり、王を持たない貴族寡頭制にして分権的な連邦制であり、東インド会社に対する中央政府の介入は少なく、政府の役割は支援的なものにとどまっため、ある意味では自由主義的な経済体制としてスタートした。このような柔軟さが、フランスやイギリスにも先んじて重商主義で成功を収める要因となったと言える。
 だが、最終的な勝者となるのは、イギリスであった。かの国では「イギリス絶対王政」の象徴とみなされるテューダー朝末期以降、重商主義が現れるが、イギリスでは「絶対王政」といってもフランスのような官僚制の発達は見られず、政策集団はせいぜい国王顧問団にすぎなかった。一方で、オランダのような共和制は清教徒革命後のクロムウェル独裁期に一時見られただけで、王制を基本とし、オランダほどに自由主義的ではなかった。
 こうした官僚制的ではない比較的柔軟な国家の支援的介入を伴うイギリス型重商主義は、当初オランダに遅れを取ったが、やがて強力な軍事力をもって小国オランダも大国フランスも圧倒し、首位に躍り出て、18世紀後半以降、資本制をいち早く確立するのである。
 以上の西洋的重商主義に対して、東洋では自覚的な形で重商主義を追求した体制は同時期には現れなかった。中国では遊牧国家モンゴルの支配下に置かれた元の時代、政府は交易を重視したが、間もなく農民王朝の明に取って代わり、古典的な朝貢貿易を伴いつつ農本主義的な政策がなお続いていく。
 徳川幕藩体制下の日本は「鎖国」政策により、貿易を厳しく制限する自給自足政策を取り続け、一時的に貿易拡大・商業重視の政策が現れたことはあるものの、根本的な政策転換にはつながらなかった。
 農業適地が限られた西洋に対し、農業地帯である東洋では農本主義的な国策が転換され、資本制が立ち現れるには、「近代化」を志向する人為的な社会革命を経る必要があったのである。

コメント

人類史概略(連載第14回)

2013-10-29 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制

封建制の崩壊・移行
 中・近世を特徴づけた封建制は、やがて中央集権制の再構築を狙う国家権力によって挑戦を受けることになる。中でも西洋封建制はいち早く崩壊していった。その中心地フランスでは16世紀末以降、絶対王政が成立する。
 このことには、またしても商業が関わっていた。中世も末期になると、西洋農村にも貨幣経済が普及し、封建領主も貨幣地代で所得を得るようになり、地主化していくが、収益力の乏しい領主は当然没落していく。さらにペストの大流行による農奴人口の減少による労働力不足も加わり、農奴は団結して解放闘争をするまでになった。
 一方で、貨幣経済の発達は商業都市の力を高めた。改めて商業の時代の到来である。封建制絶頂期には封建領主中の首席者にすぎない地位に甘んじていた国王はこうした商業都市の商人資本と結びつくことで資金力もつけ、経済的に優位に立つことに成功したのである。
 一方、マルクスが西洋以上に西洋的と評した日本の封建制は表見上維持されていたものの、近世に入ると徳川幕藩体制の下、中央集権的に脱構築されていった。
 中国では律令国家の公地公民制が崩壊した後に封建制と大地主制の中間形態的な土地制度が形成されたが、それは秦・漢以来の伝統であった皇帝中心の中央集権体制の内に組み込まれる形で清の時代まで続いていく。
 イスラーム世界でも新たな盟主となったオスマン帝国は君主スルターンへの権力集中と中央集権制の確立を強力に推進し、イスラーム世界でも発現していた封建的分裂状況を解消しようと努めた。しかし体制内在的に残存した準封建的なイクター制の系譜を引くティマール制が末期になると崩壊し、次第に地主制的な形態が現れ、分裂が進行したが、これはむしろ近代的土地私有制度の萌芽であった。
 これに対して、中南米で特徴的な大地主制型の封建制は中央集権国家の挑戦を受けることなく、その体制内に深く埋め込まれ、近現代まで引き継がれていく。これは、このタイプの封建制が所有権の観念に立脚しており、近代的所有権制度への移行の意義を持っていたことと関連しているだろう。
 いずれにせよ、封建制崩壊期ないし移行期には、農奴にせよ小作人にせよ、こうした隷民の地位と自由が相対的に上昇・拡大し、労働者化していくが、これは来たる資本主義的賃労働の時代を間接的に準備したと言えよう。

コメント

諜報国家アメリカ

2013-10-26 | 時評

アメリカ諜報機関が友好国の国家元首らの電話まで盗聴していた前代未聞の疑惑は、「オバマゲート事件」に発展しそうな雲行きであるが、考えてみれば、かの国はかねて軍事大国であると同時に諜報大国でもあるのだから、驚くに値しないのかもしれない。

それにしても、ここまで暴走していたとしたら、そこには近年のアメリカの異変が関わっているかもしれない。その異変とは、アメリカの国際的地位の低下である。アフガン、イラクと相次ぐ二つの地域戦争で軍事的に疲弊するとともに、経済力に陰りが見え、財政危機をめぐる政争も激化するなか、中国など新興国の台頭に押されて、パクス・アメリカーナも過去のことである。

そうした状況下で、オバマ政権は得意の諜報活動を活発化させて地位の低下をカバーしようとしているように見える。ここには、表向き美辞麗句の「名演説」で人を引き付けつつ、裏では不法な工作活動もためらわないオバマの二重人格的な政治性格も影響しているのであろう。

ただ、従来のアメリカ的諜報活動は対外的なものに主眼があり、国内的諜報活動には否定的・抑制的であるのが伝統であったが、オバマ政権下では「テロ対策」を名目に国内でも諜報機関が秘密裡に大規模な個人情報の収集を展開していたことが先に発覚しており、国内的な面でも「諜報国家」の性格を強めつつある。

大きくとらえれば、かねて対外的には非民主的に振る舞うも、国内的には民主主義を―ブルジョワ民主体制の範囲内で―保持してきたアメリカが、国内的にも民主主義を放棄しつつあるということであろう。

より正確に言うならば、民主主義そのものよりも自由主義を放棄しつつあるということになろうが、政治的には古典的な二大政党政でしかないアメリカ式民主主義から自由を取り去れば、後に何が残るのだろうか。

コメント

二つの「秘密保護」

2013-10-23 | 時評

政府は秘密を持つが、市民に秘密は持たせない━。これが非民主的な諜報国家の特質である。つまり国家の秘密は保護するが、個人の秘密は保護しない。戦前日本もそうだった。

政府は秘密を持たないが、市民は秘密を持つ━。これが民主国家の情報政策である。つまり国家の秘密は保護しないが、個人の秘密は保護する。

戦後日本はこうした民主的な情報政策を忠実に実行してきたと豪語できるわけではないが、それでも国家秘密保護法や盗聴を合法化する通信傍受法を持たない時代が長く続いたため、表向きは民主的な情報政策を実行していたと言える。

しかし、1999年以降、こうした流れは大きく変わろうとしている。99年には通信傍受法が制定され、捜査機関による盗聴が合法化された。そして今、国家秘密保護法が制定されようとしている。改めて諜報国家への道を歩もうとしているかのようだ。

ただ 安全保障や治安対策の必要上通信傍受法や国家秘密保護法を持つことに絶対的に反対することはない。しかし、それらを民主的な情報政策の範囲内で運用するには絶対的な条件がある。

通信傍受は憲法で表現の自由に関連して明確に保障された通信の秘密を侵害しないよう、厳格な令状規制による司法的な統制の下に実行されなければならない。この点、99年法は令状規制が緩やかすぎる。

一方、国家秘密保護法は情報公開政策の例外として国防や治安に関わる特定の機密を守ることに意義がある。であれば、まず原則としての情報公開法を徹底することが先決である。この点、99年に制定された情報公開法は手続き上の制約が多く、不十分である。

国家の秘密保護は憲法上の要請ではないが、個人の秘密保護は憲法上の要請である。そういう観点から、二つの「秘密保護」を民主国家の枠組み内で適切に実践する微妙な手際が求められている。

コメント

戦後日本史(連載第26回)

2013-10-22 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔五〕最右派・安倍内閣の「業績」

 右派・小泉政権の5年は「逆走」をいっそう急進化し、戦後最右派の内閣を産み落とした。2006年9月の小泉政権退陣後、後継首相に就いた安倍晋三は、母を介して50年代に右派内閣を率いた岸信介元首相の孫に当たり、父も80年代に首相候補に名の挙がった安倍晋太郎元外相という政治一族の生まれであった。
 就任時52歳だった安倍は小泉と同じ派閥に属し、若くして小泉政権の官房長官を務めるなど、小泉首相の信任も厚く、安倍後継は前首相からの禅譲に等しいものであった。
 安倍は祖父岸の右派路線の継承者であって、改憲を暗示する「戦後レジームからの脱却」や「美しい国、日本」などの愛国主義的なスローガンを携え、その周囲には多くの右派政治家が集まり、若手・中堅右派のホープでもあった。
 実際、安倍の主要な政治的関心は郵政民営化のような経済政策よりも、改憲を軸とするイデオロギー政策のほうに置かれていた。わけても改憲へ向けたプロセスを具体的な政治日程に乗せることを最大使命とした。「逆走」のアクセルはいっそう強く踏み込まれるはずであった。
 こうしてポスト小泉の本格政権を期待されてスタートした安倍内閣はわずか1年で退陣に追い込まれるのであるが、その1年の間に決して小さくはない「業績」を残している。
 その最大のものは改憲のための国民投票法の制定である。従来、憲法には改憲条項がありながら実際の改憲手続きを定めた法律は未制定のままであった。そこで安倍内閣は改憲へ向けた最初の突破口として、史上初めての本格的な改憲国民投票法の制定を急ぎ、強行採決の形で成立に持ち込んだのであった。
 また改憲とも密接に関連する重大な法改正として、教育基本法の改定も断行された。教育基本法は戦前の尊王・国家主義的な忠君愛国教育を廃し、憲法の精神に基づいた民主的教育の精神的支柱としての意義を担う基本法として、憲法とほぼ一体のものであるから、改憲を狙う安倍内閣にとっては第二の突破口であった。
 とりわけ愛国教育を基本原則の一つとして法に明記することが最大目標とされ、いくらか妥協的な修正文言を加えられたものの、愛国教育が教育基本法の新たな基本原則として位置づけられることになった。
 さらに防衛力増強と自衛隊の国軍化に関心の強い安倍内閣は、従来内閣府外局として附属機関的存在であった防衛庁の正式な省昇格も実現させた。これは単なる名称変更にとどまらず、自前の主務大臣を持った防衛当局が政治行政的な発言力を増強することを意味した。
 これらの施策は小泉前政権からの引き継ぎという面もあり、そのすべてを安倍独自色とみなすことはできないが、どちらかと言えば経済政策に重心を置いていた小泉政権がやり残した政治面での「逆走」をさらに進めていく意味を帯びていた。
 ただ、安倍内閣はこうした施策を小泉政権下の郵政解散総選挙での圧勝で巨大化した与党の力をもって、十分な審議を経ずに与党だけでの強行採決を繰り返して権威主義的に進めていった点において、政治手法の面でもまさに「戦後レジームからの脱却」を図っているかのように見えた。
 こうした安倍内閣の手法には国民の間から警戒心も生じたと見え、07年7月の参議院選挙で自民党は一転して大敗、代わって2年前の郵政解散総選挙で大敗した野党第一党・民主党が多数を占め、参議院では野党勢力が主導権を握るいわゆる「ねじれ」に陥った。
 この結果、政権運営に行き詰まった安倍首相は、健康状態の悪化による執務困難を表向きの理由として、07年9月、突如辞任を表明し、安倍内閣はわすか1年で退陣することとなったのであった。

コメント

人類史概略(連載第13回)

2013-10-15 | 〆人類史之概略

第6章 農業の発達と封建制(続き)

封建制の中・近世
 周の封建制は一つの広域統治の技術にすぎなかったが、封土という観念の遠い先駆けではあった。一方、ローマの大土地所有制は封建制までは進まなかったが、没落農民を小作人として使役したコロナートゥスに至り、農奴を使役する西洋中世の封建制の伏線とはなった。
 こうして、中世から近世にかけては、世界的に封建制が普及した。といっても、ここで言う「封建制」とは広い意味における包括概念であって、西洋中世の封建制はその最も典型的な―それゆえに例外的な―形態にすぎない。
 広い意味での封建制の中には、大別して「領主制」と「大地主制」とが見られた。前者の領主制は西洋中世の封建制の別名であり、領主が自己の封土を一円的・排他的に支配する形態のものである。といっても、それが典型的に発現したのは、西洋でもフランスを圧倒的な中心として、あとは一時期のイングランドくらいのものであり、その余は半領主制といった体のものであった。
 興味深いのは、日本の近世の大名制度が西洋封建制と類似していることであるが、少なくとも徳川時代に入ると、藩主となった大名に対して幕府は改易・転封などの処分を科す権限を留保していたから、これは典型的な封建制とは言えず、中央集権制の萌芽であった。
 ただ、領主が主君たる君主―将軍を「君主」とみなせるかは問題だが―から与えられた封土を一円支配することに封建制の重点を見るならば、「日本は、その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営をもって・・・・われわれのすべての史書よりはるかに忠実な西洋中世の姿を示している」とのマルクスの指摘は妥当するかもしれない。
 他方、大地主制の典型は、それが現代まで根強く継承されている中南米などに見られる。この場合、大地主は封土を与えられた領主ではないから本来的な意味での封建制に当たらないが、大地主が小作人を従属的に使役しつつ、自己の農園を排他的に支配する限りでは広い意味での封建制の一形態に包括できるものである。ただ、この形態は領主制のような封土の観念によらず、所有権の観念による点で、すでに近代的な土地所有制度への過渡的形態とも言えたであろう。
 なお、領主制と大地主制の中間形態として、官僚などに中央政府から領地が支給された均田制崩壊後の中国や朝鮮の制度がある。また騎士が分与地の徴税権を委託されるイスラーム圏のイクター制のような準封建制とも言うべき形態もあった。この制度は騎士に領主権を認めるものではなかったが、これも次第に私有地化していくことを免れなかった。
 こうした広い意味での封建制は農業の発達がもたらしたものであったが、逆に封建制の発達が農業の発達を促進した面もあった。特に領主制の下、領主らは自己の封土で競争的に農業開発を進め、西洋中世ではようやく始まった鉄製農具の使用も加わり、技術の進歩によって農業生産力の拡大を実現したのであった。また大地主制の場合も、地主たちが自己の農園の収益性を上げるために努力したことで農業はいっそう発達した。

コメント

人類史概略(連載第12回)

2013-10-14 | 〆人類史之概略

第6章 農業の発達と封建制

領土の拡大と分裂
 国家ははじめ、都市域を単位とする国家(都市国家)として成立したが、強力な都市国家が周辺の弱小都市国家を征服・併合して支配域を拡大し、領域国家へ成長していく。
 こうした領域国家は王(皇帝)によって統治されるのが通例であったが、当然にも広大化した領土を一人の統治者が完全に掌握することは技術的に不可能であった。
 そこで、アッシリアのように領土を属州に分けて、王の代官としての総督を置く方法が発明されるが、そのような分権化はまだ封建制の域には達していないものの、古代領域国家の解体への道であった。実際、アッシリア滅亡後、オリエントの覇者となるアケメネス朝ペルシャのように、最期は属州総督の反乱によって分裂・崩壊した例もある。
 封建制という術語のもとになったのは、古代中国の周王朝の統治制度であった。中国王朝は周知のとおり内陸の広大な平原地帯であるいわゆる中原を支配する関係上、中央集権を貫徹することが困難であった。そこで、周王朝は主に王族を各地に配置し封土を与え、宗族関係に基づいてその統治を委ねるシステムを編み出した。逆説的にも、領土を分封することが広大な国家の統一性を維持する秘訣となったのである。

農耕の拡大と土地私有制
 国家の分裂は、経済的に見れば農耕の拡大と不可分であった。農耕が拡大していくと農地面積も広がり、領域的な農園と呼ぶべきものも現れ、農耕が一つの産業として―まさに農‐業―発達していく。
 領域国家の領土の主要な部分は農地から成るようになり、土地=農地問題が重要な政治問題として浮上してくる。そうした農‐政が最も深刻な政争の具となったのは、共和政時代のローマであった。
 共和政時代のローマでは、元老院議員らの貴族が征服した属州で国有地を借り受けたり、事実上占有したりする形で奴隷を使役した農園経営を始め、実質上の大土地所有制が成立する。これにより、土地持ち中小農民の没落と都市貧民化が加速したため、改革者グラックス兄弟が土地の均分化を志向した改革に着手する。しかし貴族層の強い反発を招いて成功せず、兄弟ともに命を落とす結果となった。
 最終的に、ローマでは奴隷に代わり没落農民を使役するコロナートゥスという新たな農園経営手法が登場し、ローマ帝国末期にはこうしたコロナートゥスが一種の荘園と化し、帝国の封建的分裂が進行し、西洋中世を特徴づける封建制の伏線となる。
 同様の経過は、公地公民制が崩壊した後の中国や日本でも見られた。ただ、中国の場合、荘園は不輸・不入の権利を持つには至らなかったが、日本では西洋封建制に類似した不輸・不入の権利を持つ荘園制が発達していく。
 結局のところ、洋の東西を問わず、土地私有化に対する人間の欲望を抑制することに成功し得た国家は現れなかったのである。

コメント

戦後日本史(連載第25回)

2013-10-09 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔四〕第二次新自由主義「改革」

 小泉政権を経済政策面で特徴づけるキーワードは、新自由主義であった。ただ、これもまた20年前の中曽根政権時代の規制緩和・民営化を軸とした経済政策の復刻であり、歴史的に見れば中曽根政権時代の第一次新自由主義「改革」に対して、第二次新自由主義「改革」と呼ぶべき波であった。
 それはしかし、中曽根時代の第一次「改革」と比べてもイデオロギシュで、社会保障・労働、司法にも及ぶ広範囲なものであって、そのイデオロギー的なベースには、小渕内閣時代の諮問機関の答申が置かれていた。そうした意味で、小泉政権を準備したのは小渕政権であったと言える。
 そうした第二次新自由主義「改革」のシンボルは郵政民営化であったが、より民衆の生活に直結する広範囲で歴史的と評してよい悪影響を及ぼしたのは、派遣労働の規制緩和であった。
 派遣労働についてはやはり中曽根政権時代に限定的に解禁されていたが、小渕政権時代の1999年の原則自由化を受け、小泉政権下の04年には製造業にまで拡大され、これによって一気に派遣労働者が増大していった。いわゆる非正規労働の時代の号砲であった。
 社会保障分野では画一的な社会保障費抑制策によって各種社会サービスが停滞し、また公的年金の給付額を財政経済情勢に応じて減額調整することも認めるマクロ経済スライド制を導入するなど、財政均衡に傾斜した政策を志向した。
 こうした方向性は弱肉強食の「市場原理主義」との非難も招いたが、小泉政権は終始高支持率をキープし、彼の政策によって痛めつけられるはずの一般大衆によって喝采されていたのである。
 小泉政権時代、野党勢力では民主党が筆頭野党の地位を確立しつつあったが、イデオロギー的な軸の定まらない雑居政党で、自らも結党時の基本政策に「市場原理の貫徹」を謳う同党が小泉「改革」への明確な対抗軸を示すことはなく、第二次新自由主義「改革」は政党地図の総保守化という大状況の中、暗黙の与野党合作で進められていったのである。
 皮肉にも、小泉政権の敵は自党内にあった。とりわけ田中角栄以来、郵政利権を基盤としている党内勢力の間では郵政民営化に対する反発は当然にも根強く、郵政民営化法案が上程されると党内から公然たる反対行動が起き、法案は参議院で否決されるに至った。
 05年8月の衆議院解散・総選挙はそうした党内の“抵抗勢力”を排除するために打たれた布石であって、実際、小泉は郵政民営化に反対する自党系候補者を公認せず、対抗馬(いわゆる“刺客”)を立てる奇策を用い、自党を圧勝に導いたのであった。
 このような党内抗争の結果、郵政民営化に反対する議員らが自民党を離党して国民新党を結成する動きも見られたが、小泉政権の基盤を揺るがすことはなかった。
 こうして「既得権打破」を呼号する小泉の姿勢は、一般大衆の目には田中角栄に象徴されたような旧来の利権保守主義からの決別を示す「改革」と映り、ますます小泉政権への支持を高めたのであった。
 小泉政権の施策は市場からも好感され、2002年2月に始まる景気回復は小泉政権時代を通じて軌道に乗り、政権退陣後の07年10月まで戦後最長の好況をもたらした。
 失業率も04年以降改善に転じたが、その裏には非正規労働者の急増という現象があり、雇用不安を内蔵した好況であった。このことは、小泉政権退陣後の世界同時不況に際しての「派遣切り」による大量失業という反作用的な破綻の伏線となっていく。

コメント

戦後日本史(連載第24回)

2013-10-08 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔三〕右派・小泉政権の登場

 1999年の画期を作り出した小渕政権は、2000年4月、首相の発病、内閣総辞職によって突然終わった。その後党幹部の密議により、森喜朗が後継首相に就く。森は岸信介の流れを汲む右派派閥の領袖で、田中派、次いでそれを引き継ぐ竹下派の党内支配が続く中、長く閉塞していた同派閥からは76年‐78年の福田赳夫以来の首相誕生であった。
 しかし、森首相は就任早々から大きくつまづく。まず「日本は天皇を中心とした神の国」という発言が波紋を呼んだ。これはメディア上では「失言」という受け止めをされたが、実際のところ、国旗国歌法制定の直後にあっては、出るべくした出た明治憲法回帰的な「逆走」発言と言えた。
 結局、森内閣は首相自身の「資質」が疑問視されて低支持率に終始し、00年6月の解散・総選挙をはさんで1年余りで退陣した。後任には同じ派閥のベテラン小泉純一郎が就いた。
 小泉は森の辞任表明を受けた自民党総裁選挙で、当初本命視されていた首相返り咲きを狙う橋本龍太郎を破ってのサプライズ登板であった。しかし、01年4月に発足した小泉政権の性格は、まさに99年を起点とする「逆走」の急進化にふさわしいタイムリーなものだったのである。
 その基本性格と施策は、様々な点で「逆走」再活性化の流れを作り出した20年前の中曽根政権に酷似していた。特に外交防衛面では、対米協調に重心を傾けた事大主義的保守主義を基調とし、当時のレーガン共和党政権と親密な関係を築いた中曽根政権と同様、小泉政権もレーガン政権の流れを汲むブッシュ共和党政権と親密な関係を取り、ブッシュ政権が主導した01年のアフガン戦争、03年のイラク戦争に全面協力したのである。
 ただ、観念論的な“不沈空母”発言にとどまった中曽根とは違い、戦争協力にまで踏み込んだことも含め、小泉政権の右派的性格は中曽根政権のそれをはるかに上回っていた。その象徴と呼ぶべきものを三つ挙げるとすれば、有事法制、靖国神社公式参拝、新憲法草案である。
 有事法制は、従来机上論にとどまっていたものを99年の周辺事態法制定を契機にさらに歩を進めた実質的な戦時体制法であり、内容上憲法的疑義を持たれるものであった。
 靖国神社公式参拝は中曽根も一度敢行したが、中国の異議を受けて以後差し控えたのに対し、小泉は中国の異議を押し切って連年の参拝を繰り返した。これによって対中関係は冷却し、中国では05年、日本政府の教科書検定に右派的傾向の歴史教科書が合格したことを契機に大規模な抗議行動が起き、一部が暴徒化する事態となった。
 新憲法草案は政権末期に提案されたもので、長年自民党が棚上げしてきた「自主憲法」制定論を初めて明確な形にして公表した点で画期的であった。その内容は自衛隊を「自衛軍」に転化し、基本的人権を「公益」「公序」によって制約することを容認するなど、明治憲法回帰的な「逆走」の到達点を指し示すものでもあった。
 小泉政権と中曽根政権の類似性は、大胆な解散・総選挙に打って出て自党に圧勝をもたらした点にも見られた。中曽根が86年6月に違憲の疑いも指摘された衆参同日選に打って出て圧勝し、国鉄分割民営化を断行したように、小泉も05年8月、持論である郵政民営化を断行すべく、解散・総選挙に打って出て圧勝をもたらしたのである。
 ただ、その政治手法には明確な相違があり、ともに官邸主導のトップダウンによりつつも、所詮は官僚出身の超然的な中曽根に対し、生粋の政党人である小泉は「ワンフレーズ」とも称された単純なプロパガンダを巧みに利用した大衆扇動的手法に長けていた。この点では、従来の日本の首相には見られなかった―強いて類例を挙げるとすれば、田中角栄か―新しいタイプの首相でもあった。
 そうした手法にもよりつつ、小泉政権はやはり中曽根政権とほぼ同じく約5年に及ぶ長期政権の中で、「逆走」の急進化を本格的に主導していったのである。

コメント

人類史概略(連載第11回)

2013-10-02 | 〆人類史之概略

第5章 国家の成立と隷民制(続き)

隷民制国家
 古代国家の物質的土台が鉄にあったとすれば、もう一つの物質的‐経済的土台は隷民制に置かれていた。すなわち、成功した古代国家はみな効率的な生産活動のために人を動員・隷従させるシステムを巧みに構築し得た国家であった。
 遺憾なことではあるが、現生人類は無力な同胞を隷従させて自己利益の拡大のために使役することを躊躇しない傾向性を共通して持つ。このことは、今日まで一貫して変わっていない。
 そうした隷民制の究極は奴隷制であるが、隷民制=奴隷制ではない。奴隷制は隷民制の中の最も典型的な類型にすぎず、奴隷にウェートを置かない隷民制の諸形態も種々存在するからである。
 そうした点で、古代エジプトは王を究極的な頂点とし、隷民制を巧みに組織して強国となった先駆者であった。ただ、古代エジプトでは奴隷は家内奴隷が中心で、生産活動におけるウェートは小さかった。しかし王(ファラオ)は民を動員して巨大建造物の建設に従事させるだけの動員力を保持していた。
 古代において奴隷制を最も広く活用したチャンピオンは古代ギリシャ・ローマであった。とはいえ、ギリシャでもアテネの私有奴隷とスパルタの国有奴隷には違いがあったし、ローマの奴隷はしばしば解放されて市民権を得ることもあった、というように各々特色を備えていた。
 隷民制の最も洗練された形態は、東洋の公地公民制律令国家に現れた。この体制では奴隷はとして国家や豪族によって使役されたが、生産活動におけるウェートは低く、むしろ王(皇帝)が領有する隷民としての農民を生産活動の主要な担い手とする体制―マルクスの言う「総体的奴隷制」―であって、土地も王に属するという点では、ある種の国家社会主義の先駆け―隷民制社会主義―であった。
 しかし、この体制はあまりにも理念型的であり過ぎて、結局は経済的現実を前に貫徹されることなく、その発祥地中国でも継受した日本でも土地私有制度の発達を食い止められなかった。人類の強欲さという性格は、土地に対する私有の欲望を規制することを困難にし、「公地」という土地国有化原則は形骸化・崩壊の道を歩むべく運命づけられていたのである。
 こうした隷民制古代国家はほとんどの場合、頂点に王を戴く王制を上部構造として持っていた。国家の長たる王が人民を国土ごと領有するというのが最も単純明快な国家の原初形態であったわけである。
 もっとも、古代ギリシャのポリスや共和制時代のローマのように、都市国家の中には王を擁しない革新的な共和制も見られたが、古代共和制はいずれも例外的・一時的な体制であって、やがてマケドニア帝国や帝政ローマのような王制へ吸収・回帰することを避けられなかった。

コメント

人類史概略(連載第10回)

2013-10-01 | 〆人類史之概略

第5章 国家の成立と隷民制

鉄器革命と国家
 商業=都市革命によって、とりわけ早くから啓けた西アジア・エジプト地域には多くの都市が誕生していった。これら都市はメソポタミアのシュメール諸都市のように都市ごとに王を擁する都市王国に発展したり、エジプトのように都市群を束ねる形で早くから統一国家が形成されたりと、経緯は様々ながらそれぞれ国家という新しい社会体制へ発展していった。
 しかし、物質的にもその持続性を担保された真の国家が成立するには、鉄器の発明という用具革命における新たな画期を経る必要があった。そうした鉄器革命の発祥地となったのはアナトリアに興ったヒッタイト王国であった。
 その担い手ヒッタイト人については不明な点が多いが、言語から見るとインド‐ヨーロッパ語族の古い分派と見られ、オリエントに広く展開するアフロ‐アジア語族系の集団に対して、脇から現れた新興の強力なライバル集団であった。
 ロシアの黒海周辺が原郷とされるヒッタイト人の最大の強みは当初は騎馬戦力であったが、やがて秘伝の製鉄技術を独占し、鉄製武器を開発したことで、エジプトに比肩し得る強国に成長した。おそらく世界史上最初の「帝国」と真に呼び得るのはこのヒッタイト帝国であったが、その物質的な基盤は鉄にあったのである。 
 ヒッタイト帝国は前14‐13世紀に全盛期を迎えた後、前12世紀に入ると国力が衰え、同世紀に地中海から侵入してきたギリシャ系を主体とすると見られる混成海賊集団「海の民」の襲撃破壊なども加わり、滅亡に至る。しかしこれ以降、ヒッタイト秘伝の製鉄技術はオリエント全域に普及していき、国家の物質的な基盤として広く活用されるようになる。

古代国家の発展
 こうして最初期の国家(古代国家)は鉄―とりわけ鉄製武器―を基盤として成立する。このことは、ここでもシュメール都市国家が先駆的に示していたように、国家の発展にとって軍事力がものを言う以後現代に至るまで続く人類社会前史最大の嚆矢でもあった。
 そうした古代国家の成立・発展もやはりオリエントが先駆的であったが、中でもヒッタイト滅亡後の西アジアにおける新たな覇権国家となったのはセム語派系のアッシリアであった。
 おおむね前2千年紀に始まるアッシリアの歴史はまず中継貿易のような商業を基盤とした都市国家として勃興し、やがて農業生産力にも支えられながら領域支配を拡大し、古代国家として発展していくプロセスを明瞭に示している。
 アッシリアは前10世紀のいわゆる「新アッシリア時代」に入ると、鉄製武器で武装した強大な地上軍を組織して征服活動を進め、前7世紀前半には当時衰微しつつあったエジプトをも支配下に収め、後にアケメネス朝ペルシャやローマ帝国が体現する「世界帝国」の不完全な原型となった。
 「世界帝国」としてのアッシリアの支配は属州制と駅伝制を組み合わせ、情報通信手段の乏しい時代に情報を基盤とした広域支配であった。情報は軍事とも商業とも密接に関連するが、国家がその領域支配を拡大し、異民族支配を打ち立てる上では不可欠の非物質的要素であり、こうした「情報統治」はアケメネス朝ペルシャやローマ帝国にも引き継がれる新しい統治技術であった。

コメント