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近代革命の社会力学(連載第13回)

2019-09-04 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(7)王政復古から名誉革命へ  
 オリバー・クロムウェルの死後、護国卿の地位を世襲した子息のリチャードは若くして議員となり、一定の政治経験は積んでいたものの、内戦時に将校としての経験がなく、軍の支持基盤が弱いことが問題であった。  
 そこで、リチャードは議会を招集して自身の支持基盤を作ろうとしたが、軍と対立、結局、残部議会復活という戦略に出た軍の圧力により、わずか8か月で辞職を余儀なくされた。後任の護国卿は選出されず、こうして、共和国は指導者不在の状態となった。
 権力の空白が続く中、雌伏していた王党派が動き出し、反乱を起こすも、これを早期鎮圧した軍が議会を閉鎖して軍事政権を樹立した。この軍事政権はオリバー・クロムウェル配下の将校が主導していたが、広い支持は得られず、権力闘争に明け暮れていた。  
 そうした中、元王党派ながら革命派に寝返っていた日和見派の軍人ジョージ・マンクが大陸亡命中の王党派と連携し、王政復古のため挙兵した。その結果、軍事政権は崩壊、大陸亡命中のチャールズ2世(1世遺子)が招かれ、1660年、王政復古が正式に宣言された。  
 こうして、英国の共和革命の実験は11年で終焉したのであった。結局のところ、イングランド共和国は軍と議会とを分離することができず、また早い段階でより民衆的な基盤を持つ水平派のような勢力を排除してしまったことから、共和的な民主政体を確定することがないまま漂流し、崩壊したのである。  
 チャールズ2世の復活ステュアート朝では早速、旧革命派に対する反革命報復が行なわれた。もっとも、免責法によりチャールズ1世の処刑の関与した者以外の旧革命派は免責されたが、処刑に関与した者20名は死刑、さらにオリバー・クロムウェルは墓を暴かれ、遺体を「絞首刑」に処するという死後処罰が断行された。  
 こうした反革命反動にもかかわらず、復活したステュアート朝は革命前のそれとは異なっていた。チャールズ2世が政務より文芸や女性を愛したという個人的性格もあって、議会や後の首相の原型である第一大蔵卿の権限が強い立憲君主制の祖形が形成されていった。  
 しかし、治世晩期の4年間は議会を閉鎖し、無議会統治に陥るなど、再び専制化の兆しを見せ始めた。そのうえ、嫡子のないチャールズの後を継いだ王弟ジェームズ2世はカトリック信者にして、フランス流絶対王政を信奉する人物であった。  
 実際のところ、共和革命後の復活ステュアート朝に絶対王政を導入することはほぼ不可能な状況にあったが、カトリック復権のためにカトリック教徒重用、信仰自由宣言などの親カトリック政策措置を追求するジェームズと国教会派主導議会との対立は激化した。  
 このまま突き進めば、再び内戦となる恐れがあった。そこで、議会はオランダ共和国の世襲総督でジェームズの娘婿でもあったプロテスタント派のウィレム(ウィリアム3世)に白羽の矢を立て、ジェームズに代わる新たな国王として擁立する秘密作戦を計画、これをほぼ無血で実行したのが1688年の名誉革命であった。  
 これは「革命」というより、議会・国教会派勢力による実質的なクーデターであったが、40年前の清教徒革命と同様、議会が主体となって君主を追放した点では、清教徒革命とも連続した「17世紀英国革命」の一環ととらえることができる。  
 実際、ウィリアム3世が妻メアリー2世と共同即位した新体制の下では、新たな憲法文書として「権利の請願」が採択されたが、その内容はかつて共和国時代に幻と終わった統治章典を改善した内容が盛り込まれており、共和制こそ選択されなかったものの、立憲君主制の礎石として、現代まで維持された不文憲法典となった。  
 このようにして、「17世紀英国革命」は、革命→反革命→修正革命という段階を踏んで立憲君主制の創出という方向で収斂していくが、その過程では常に議会が革命的行動の主体として、革命的エネルギーの凝集点となったのである。


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