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近代革命の社会力学(連載追補6)

2022-12-11 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(5)パラグアイ二月革命との対比
1932年から35年までのボリビアvsパラグアイ間のチャコ戦争は、敗戦国ボリビアのみならず、戦勝国パラグアイでも、戦後の1936年2月に革命事象を引き起こした。
 タイムライン上は、ボリビア第一次社会主義革命(以下、ボリビア革命)より3か月先行しており、このパラグアイ二月革命がボリビアの革命を触発した可能性もある。
 ただし、パラグアイ二月革命(以下、二月革命)は厳密にはクーデターに近いもので、ボリビア革命より短期で挫折しているため、本連載では個別的には取り上げず、ボリビア革命との対比事象として言及する。
 他の南米諸国同様、19世紀初頭にスペインから独立したパラグアイは19世紀前半期には先住民族グアラニー人とスペイン人の通婚奨励政策や土地公有化政策などの独自政策を通じて、南米でも最も安定した国家となっていた。
 しかし、19世紀後半のブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ三国同盟との戦争に敗れた後は、国土の縮小と外国人による土地買占めなどにより、衰退期にあった。
 三国同盟戦争後に愛国的な保守政党コロラド党が結成され、政権政党となるが、1904年に中小地主と中産階級商人を代表する自由党がアルゼンチンから武装蜂起し、短期の内戦に勝利して以後は自由党政権の時代となった。
 自由党支配体制下では、自由主義経済と半封建的な地主制が同居する状況で、農民層は貧困に置かれていた。加えて、党内抗争が絶えず、頻繁な政変と政権交代に見舞われる政情不安が常態化した。
 そうした中で勃発したチャコ戦争に勝利したにもかかわらず、死者4万人を出した戦争によるパラグアイ社会経済の疲弊は甚大で、時のエウゼビオ・アヤラ大統領は指導力の欠如を批判された。
 これに対し、チャコ戦争復員軍人の処遇への不満を背景に、当時中堅・若手将校のリーダーとして台頭していたラファエル・フランコ大佐(当時はアルゼンチンへ追放中)を擁立するクーデターが成功し、自由党支配体制は崩壊した。
 この事象がクーデターでなく革命と称されるのは、フランコ支持者の蜂起には労働者、学生、知識人も加わっていたこと、フランコ政権下で大規模な農地改革(計画では200万ヘクタール農地の再配分)と史上初の労働法の制定などの革命的施策が断行されたことによる。
 しかし、こうした急進的な施策は地主層や中産階級の反発に直面する一方、権利を得た労働者のストライキが頻発がすると、フランコは政党を禁止し、同時代欧州のファシズムに傾斜した法令の制定により独裁化を図った。
 これによって、二月革命はファシズムの色彩を帯びるようになり、支持者離れから法令の撤回を余儀なくされたうえ、ボリビアとの間でなお継続中の講和会議で譲歩したことが軍の不満をも引き起こし、1937年8月のクーデターでフランコは政権を追われた。
 こうして二月革命は1年余りで挫折、以後、パラグアイでは1940年代の親ナチス派軍人イヒニオ・モリニゴの独裁政権下で、実質的な政権党としてコロラド党が復権する。二月革命支持者も二月党(フェブレリスタ)として残存し、一時モリニゴ政権に加わるが、正式の政党化は1951年まで遅れ、勢力を維持できなかった。
 コロラド党は、反モリニゴで結束し蜂起した自由党や二月党、共産党との1947年の内戦に勝利し、1950年代以後、新たな反共軍事独裁者アルフレド・ストロエスネルの下、長期支配政党の地位を確立する(拙稿)。
 その点、いったんは挫折した第一次社会主義革命以後、社会主義勢力が台頭し、1950年代に第二次社会主義革命を経験するボリビアとは大きく針路を異にしたことになる。


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