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近代革命の社会力学(連載第255回)

2021-06-30 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(1)概観
 19世紀のいわゆる「アフリカ分割」の結果、その大半が少数の西欧列強諸国の植民地に編入されていたサハラ以南のアフリカ諸国(以下、単にアフリカ諸国という)は、第二次世界大戦後、17か国が一挙に独立した1960年を一つの象徴的な年度として、1950年代末から60年代前半にかけて、順次独立を果たしていった。
 もっとも、その独立過程はおおむね平和裏に進み、明確に独立戦争/革命を経た国は、後に取り上げる西アフリカの旧ポルトガル植民地ギニア‐ビサウくらいのものである。
 その要因として、英仏を中心とする宗主国側でも、独立運動の高揚に対応し、次第に現地人の限定的な政治参加や自治権を保障していったこと、また宗主国側の戦後の財政事情などからも、独立運動を抑えて植民地経営を持続する余裕がなくなっており、独立を容認する方向へ動いていったことが挙げられる。
 一方、独立後のアフリカ諸国においても、革命による社会変革を経験した国々は限られている。その要因として、アフリカ諸国では部族主義(所により同一民族内の氏族主義)の伝統が強く残り、多部族がそもそも一つの主権国家を共有すること自体に困難があり、部族を越えた統一的な革命運動の形成もまた困難であったことがあると考えられる。
 そうした中にあっても、いくつかの諸国は革命を経験しているが、それらの革命にも小さなクラスター的潮流が認められるところ、そうした潮流は、時代ごとに四次に分けることができる。その最初のものは、おおむね1950年代末から60年代半ばにかけて、いくつかの君主制諸国で発生した共和革命の潮流である。本章で扱うのは、その第一次潮流である。
 植民地化される以前のアフリカ諸国は、部族ごとに多数の王国に分岐し、諸王朝が各地で興亡を繰り返す歴史に彩られているが、それらの部族王国も、列強による植民地化の過程で、その大半が滅亡していき、新たな国境線は列強による人工的な分割線によって規定された。
 そのため、20世紀半ば過ぎの独立当時、君主制がいまだ存続していた例は限られており、多くの国が初めから共和制国家として発足している、そうした中で、本章で取り上げるルワンダ・ブルンディ・ザンジバル・ウガンダの四か国は、独立時まで伝統的な君主制が存続していた例外ケースである。
 そのため、独立の前後において、君主制の存続が重要な政体上の論争点となり、複雑な部族間紛争と絡み合いつつ、また時として旧宗主国側の思惑も介在して、王党派と共和派とが政争を繰り広げることになった。その過程で、掲記の四か国では共和派が優位となり、君主制を廃する共和革命を結果することとなった。
 ただし、いずれの革命も、四者四様に革命としてはいささか変則的な経過を辿っており、その発生力学は複雑で、典型的な共和革命と様相を異にするのは、アフリカ的特色と言えるであろう。しかし、いずれの革命もその効果は今日まで永続的であり、四か国それぞれ共和制国家として確立されている点では、成功した革命の事例と言えるものである。


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