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近代革命の社会力学(連載第283回)

2021-08-24 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(5)イラクの1968年7月17日革命
 以前に見たように、イラクのバアス党(バアス党イラク地域支部)は、1963年2月のクーデターによりカーセム体制を打倒し、一度は権力掌握に成功したものの、その後、一年足らずでナセリストのクーデターにより失墜したのであった。
 このように、イラクのバアス党は本家シリアよりひと月早く権力掌握に成功したが、革命として持続化することができず、いったん挫折したのは、党内の派閥対立に加え、この時点ではナセリストの勢力がなお強かったことによる。
 この挫折の後、すでにバアス党の軍人党員として台頭していたアーメド・ハッサン・アル‐バクルを中心に党の立て直しが行われ、彼自身がバアス党イラク地域支部書記長に選出され、軍人党員の獲得のみならず、中産階級の文民層への浸透も進められた。
 その点、63年3月8日革命に成功して以降、政権を失うことはなかったものの、党内の権力闘争が激化したシリアのバアス党とは異なり、イラクのバアス党はいったん政権を失い、下野したことがかえって党組織強化のチャンスとなったと考えられる。
 アル‐バクルらは軍人党員を中心に、5年近い年月をかけてより効果的な革命の準備を進めていき、ついに1968年7月17日に決起した。
 その方法はシリアの場合と同じく、軍内の党員ネットワークを通じたクーデターの方法によるものであった。その詳細な経緯はいまだ不明であるが、当時のナセリスト派アリフ政権は軍を掌握し切れておらず、一日にして政権は崩壊した。
 こうして、イラクでも軍人主導によるバアス党革命が成功したわけであるが、その後の展開はシリアに比べてスムーズであり、アル‐バクルを議長とする革命指令評議会が設置され、彼が大統領・首相を兼職するという権力集中体制が取られた。
 外交上はソ連や中国など社会主義圏との同盟関係を鮮明にしたが、イラク共産党との関係は微妙であり、当初は政権強力を拒否した共産党を弾圧した。しかし、1972年にソ連との間で15年間の善隣協力条約を締結したのを機に和解し、連立政権の形で共産党からの入閣を認めた。 
 革命後における経済面における成果としては、1972年に国の最大基幹産業であったイラク石油会社の完全国有化に踏み切ったことがある。イラクでは、カーシム政権当時に西欧系資本に支配されたイラク石油会社(IPC)の収益の95パーセントをイラクが収取するという介入的改革がなされた後、アリフ政権時代にはイラクの石油産業を独占するイラク国営石油会社(INOC)が創設されていた。
 これを受け、68年革命後、アル‐バクル政権は、INOCにIPCを吸収させる形で、単一の国営石油会社に仕上げ、ソ連からの技術的及び財政的援助により完全国営化を達成したのである。これは、中途産油地域では最も成功した石油産業の完全国有化のモデル例となり、以後、バアス党支配体制における最大の経済基盤となった。
 革命後、シリアの本家バアス党との関係は大きく変化した。シリアで66年のクーデターにより党創設者アフラクが追放されると、アフラクを支持していたバアス党イラク地域支部はシリアから離反し、アフラクの亡命を受け入れたのである。これ以後、同じバアス党体制ながら、シリアとイラクは敵対関係に陥り、バアス党の汎アラブ主義の理念は大きく後退することとなった。
 こうしてアフラクを庇護する一方で、バアス党イラク支部創設者のフアード・アル‐リカービはナセリスト派であったため、61年にバアス党を除名され、アリフ政権で閣僚を務めるなどしたため、68年革命後に逮捕され、獄中で不審死を遂げている。


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