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近代革命の社会力学(連載第407回)

2022-04-05 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(4)新連合条約と保守派クーデター

〈4‐2〉共産党保守派クーデターと民衆の抵抗
 各構成共和国首脳による新連合条約の調印は1991年8月20日に予定されていたが、ソ連共産党保守派はこれを阻止するため、大規模なクーデターを計画し、まずは別荘で夏季休暇中のゴルバチョフ大統領に対し、辞職を迫った。
 おそらく拒否されることを見越して準備していたクーデター集団はゴルバチョフ大統領を別荘に拘束したうえ、翌19日に国家非常事態委員会(以下、非常事態委)を設置し、全権掌握を発表した。
 委員会はゲンナジー・ヤナーエフ副大統領を議長とする8人から成るが、事実上のトップはウラジーミル・クリュチコフKGB議長と見られ、メンバーには当時の首相、内相、国防相などの主要閣僚や国営企業連合の会長など経済人も加わる大掛かりなものであった。
 彼らの戦術は、1964年に当時のソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフ共産党第一書記をやはり休暇中を狙って失権させた政変の先例に倣ったものと考えられる。これは党内政変として実行されたが、一党支配体制の当時と異なり、ゴルバチョフ改革により党と国家が分離されていたため、党内政変では足りず、大統領を失権させるには軍や保安機関を動員する必要があり、大掛かりな武力クーデターとなったものであろう。
 それにしても、これだけ大掛かりなクーデターとなった背景には、当時の保守派がいかに新連合条約に危機感を抱いていたかが見て取れる。一方で、自身が抜擢した主要閣僚らの陰謀に全く気が付かなかったゴルバチョフ大統領の権力基盤の弱体化も明瞭となった。
 非常事態委には参加しなかったが、これを支持していたソ連最高会議議長やソ連軍参謀総長を含めれば、行政・立法府の長に軍、保安機関を加えた権力総体的なクーデターが大失敗に終わったことの方が不可解なほどであるが、彼らには戦術的な穴があった。
 クーデター集団は連邦のゴルバチョフ大統領の拘束は迅速に行ったが、連邦とロシアの二重権力状態を理解せず、ロシア側のエリツィン大統領の拘束には動かなかった。そのため、エリツィンはクーデター直後に会見してクーデターの違憲性を強調し、市民にゼネストによる抵抗を呼びかけることができた。
 これに応じたモスクワ市民はバリケードを作り、武装して非常事態委との戦闘に備えるなど、事態は革命的展開を見せた。8月20日には、10万人とも言われるモスクワ市民が集結し、クーデターに反対する大集会を開催したのに続き、労働者のストや抗議が全国に拡大した。
 一方、クーデター集団には国防相や参謀総長が加わっていたにもかかわらず、クーデターに参加したのは軍の一部にすぎず、地上軍主力や空軍は不参加であった。全軍を動員するにはソ連軍はあまりにも肥大化し過ぎていた。このことは、全軍規模での抵抗鎮圧作戦を不能にした。
 とはいえ、8月21日から非常事態委の差し向けた軍とKGBの戦車部隊による鎮圧作戦が開始され、その過程で市民3名が死亡した。しかし、それ以上の鎮圧作戦は展開されず、同日には非常事態委が戦車部隊の撤収を命じたことを受け、ロシア最高会議は非常事態委に権力の放棄を要求した。
 この時点で非常事態委はすでに瓦解状態にあった。21日午後にはエリツィン大統領が勝利宣言を発し、22日には拘束中のゴルバチョフを救出するとともに、非常事態委メンバーを拘束した。
 こうして、共産党保守派による1991年8月クーデターは三日天下で終わり、形の上ではゴルバチョフ政権が復旧されたものの、ソ連邦とロシアの二重権力状況はクーデター阻止の立役者となったエリツィンの優位に変化していく。


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