ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第437回)

2022-06-03 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(3)グルジア革命

〈3‐2〉民衆革命への力学
 シェワルナゼ体制の与党は1993年以来、中道系のグルジア市民同盟であった。市民同盟は当初こそ支持が固く、後に革命を担うことになる若手の政治家も多く参加していた。その結果、2000年大統領選では、80パーセントを超える得票でシェワルナゼが圧勝、再選を果たした。
 その点では、同年の革命で失権したセルビアのミロシェヴィチとは対照的に順調で、長期体制となる気配も見えたが、皮肉なことに、この再選成功がかえって革命へのステップとなる。
 再選後、構造汚職への批判から離党者が続出し、2001年には後に革命の先導者、さらに革命後最初の大統領となるミヘイル・サアカシュヴィリ法相が離党し、統一国民運動を結成した。サアカシュヴィリはグルジア独立後にアメリカで法曹教育を受けた弁護士で、新しいタイプの若手指導者として台頭していた人物である。
 これとは別に、西側諸国からの資金援助を得たNGOの結成も相次いでいた。また、アメリカの投資家ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ研究所(現財団)はグルジアの学生活動家を支援し、セルビアのオトポールから革命指南を受けさせるなど、資本主義者によるオルグ活動も見られた。オトポールの指南を受けた青年らは、同種組織としてクマラ(グルジア語で十分の意)を結成し、反体制活動を展開した。
 こうして、グルジアにおいても、セルビア革命を担ったオトポールとのつながり、それとも関連して、西側からのソフトパワーを用いた体制転換への関与が見られたことはセルビア革命と類似する。
 ここには、当時プーチン政権の登場によるロシアの再興を睨み、西側がグルジアをはじめとする旧ソ連圏のカフカ―ス諸国を親西側圏に引き入れ、かつ新たな投資先として確保するうえでも、旧ソ連の高官出自で構造汚職を抱えるシェワルナゼ体制の排除を種々なチャンネルを用いて画策していたことが窺える。
 しかし、セルビアのミロシェヴィチ体制とは異なり、シェワルナゼ体制は必ずしも抑圧的な独裁体制ではなかったため、革命への展望はさしあたりなさそうに見えたところ、事態急転の契機となったのは、2003年11月の議会選挙である。
 この選挙では当初、与党グルジア市民同盟の勝利が発表されたが、直後から集計操作疑惑が広がる中、抗議デモが全国に拡大した。実際のところ、不正が行われたかどうかは不明であったが、こうした選挙不正疑惑はシェワルナゼ体制に対する国民の鬱積した不信感の表出でもあった。
 サアカシュヴィリらの野党勢力は選挙結果に基づき招集された新議会の無効性を訴え、大統領演説を妨害する行動に出たため、シェワルナゼ大統領は非常事態宣言を発して対抗するが、軍は政権支持を拒否した。その後、ロシアの仲介による野党指導者との会談を経て、シェワルナゼは辞職を表明、暫定政権が発足することとなった。
 こうして、シェワルナゼ体制はあっけなく終焉した。グルジア革命の場合は、セルビア革命と異なり、体制離反者が革命立役者となったことが瓦解の要因であった。その意味では体制自身が革命の母体であり、自身の構造汚職が生み出した「身から出た錆」の革命事象であった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 続・持続可能的計画経済論(... »

コメントを投稿