ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

不具者の世界歴史(連載第28回)

2017-06-27 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

遅れる障碍者の政治参加
 障碍者の社会参加の時代にあっても、社会的領域別に見て最も参加が遅れているのは政治の世界であろう。障碍者の選挙権(投票権)は認められていても、投票のアクセシビリティーの保障はなお不十分である。まして、世界の政治指導者や一般議員の中にさえ、障碍者の姿を見ることは極めて稀である。
 その点、政治職の世襲制が常識であった前近代においては、本連載初期でもいくつか取り上げたように、障碍を持つ為政者が輩出される可能性がしばしばあったのであるが、表向きは非世襲的かつ能力主義的な選挙政治が定着してきた近現代においては、知力や身体能力において健常的な者でなければ政治職に就き難くなり、かえって障碍者が政治から排除されやすくなっているのは、皮肉である。
 そうした中にあって、身体障碍を持ちながら、第二次大戦前と戦後の北米アメリカとカナダでそれぞれ政治指導者となった二人の稀有な人物を取り上げておきたい。
 その一人は、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ローズベルトである。彼は下半身麻痺により車椅子を常用していたが、先天性障碍ではなく、40歳近くなってから感染症のポリオを発症した後遺症とするのが通説である(異説もあるが、深入りしない)。
 いずれにせよ、彼は車椅子常用者として、ニューヨーク州知事を経て、合衆国大統領に選出され、今日まで米国史上唯一4期、通算12年にわたって大統領職を務めたのであった。その間、ニューディール政策や第二次世界大戦の指導など、歴史に残る業績を残した。
 とはいえ、ローズベルトは自身の障碍の治療を試みていたため、「障碍者政治家」として自己をアピールすることはしなかったし、それどころか車椅子を使用する姿や自身の障碍を極力見せないような演出をしていたため、大統領が障碍を持つことを知らないアメリカ国民もいたほどだった。
 ローズベルトの時代はまだ、障碍者にとって「参加」の時代にはほど遠かったのである。とはいえ、近代政治において、車椅子のアメリカ大統領の存在は障碍者の政治参加の先駆け的な意義を持っていると言えよう。
 ローズベルトの時代からおよそ半世紀を経た1993年、カナダに顔面麻痺と片耳の聴力喪失という障碍を持つジャン・クレティエン首相が登場した。彼の障碍は幼少期に患ったベル麻痺の後遺症であった。ローズベルトとは異なり、自身の障碍を隠さなかったクレティエンは若くして自由党連邦議員となり、数々の閣僚を経て、党首として93年の総選挙に圧勝して、首相の座に就いたのである。
 この時、従前の政権与党であった進歩保守党は選挙前の169議席から一挙にわずか2議席に激減するという歴史的惨敗を喫して世界的ニュースとなった。その敗因の一つに、進歩保守党が野党党首だったクレティエンの障碍を揶揄するような選挙広告を出した件があった。
 この差別的選挙広告はメディアや与党内部からも強い批判を浴びた。この一件は、それまで優勢が伝えられていた与党の支持率を激減させ、惨敗につながったのだった。一方、圧勝したクレティエンは3期10年に及ぶ長期政権を維持した。
 ここで取り上げた二人の政治指導者は、いずれも後天的な障碍者である。先天的な障碍を持つ政治指導者の事例は、より現在に近い同時代史の中に見出すことも難しい。それは、未来の新たな歴史の中に見出されることになるのであろうか。

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不具者の世界歴史(連載第27回)

2017-06-26 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

精神障碍者と社会参加
 種々の障碍者の中にあっても、錯乱のイメージから社会的に危険視されやすく、ノーマライゼーションの潮流からも取り残されがちなのが精神障碍者であるが、この分野でも1950年代以降、徐々に社会復帰へ向けた施策が進んでいった。
 最も大きな契機となったのは、精神に直接作用する向精神薬の開発と実用であった。中でも、妄想に侵されやすい統合失調症に対する向精神薬の開発は、統合失調症患者の社会復帰を促進するのに大きく寄与した。
 同時に、60年代以降、精神医学というパラダイムそのものに疑問を投げかける急進的な思潮が精神医学界内部からも現れたことである。この反精神医学運動と呼ばれる思潮にも様々あるが、共通しているのは精神病という診断そのものを社会的な逸脱者に対するレッテル貼りととらえ、精神障碍者のノーマライズを打ち出そうとした点にある。
 このような社会復帰の流れは、先の向精神薬の開発・改良と軌を一にして、精神障碍者のノーマライゼーションとして先進諸国では定着していった。中でも、イタリアでは1978年の法律により、精神病院制度の廃止を決めた。この法律は緊急的な場合の強制治療の必要性を排除しないものの、基本的に精神病を理由とした入院治療を否定し、精神疾患は地域精神保健機関において通院の形で実施することを明記した世界史上画期的なものであった。
 他方、国際社会にあっても、1991年に国連総会で採択された「精神疾患を有する者の保護及び精神保健ケアの改善のための諸原則」では、第六原則で「精神疾患に侵された者のケア、支援、治療、リハビリテーションのための施設は、可能な限り、患者の住む地域社会に置かれるべきである。よって、精神保健施設への入院は、そうした地域社会の施設が不適切であるか、得られない場合に限って行われるべきである。」とし、第七原則では「精神疾患を有する者を虐待から守り、精神疾患であるというレッテルが人の権利を不当に制限する口実とされないように保障することは重要であるが、精神疾患を有する者が見捨てられることを防ぎ、ケアと治療の必要性、特に地域社会に統合された人々のケアと治療の必要性が満たされることを保障することも同様に重要である。」とし、反精神医学の問題意識を修正的に反映した文言が明記された。
 翌92年には世界保健機関(WHO)が毎年10月10日を「世界精神保健デー」と定めたが、上記国際原則はまだ条約化されておらず、なお精神病院に依存している諸国も多い。特に日本の精神病院大国ぶりは突出し、国際的な批判対象にさえなっている。とはいえ、日本でも政府が重い腰を上げ、2004年以降、数万人に及ぶ長期入院患者の「地域移行」が実行に移され始めている。
 ただし、「地域移行」というテーゼは「社会復帰」、さらには「社会参加」とはニュアンスに違いがあり、単に該当者を病院から地域に平行移動させるイメージがあり、積極性に欠けている。今後の展開が注視されるところである。
 全般に、精神障碍者の現況は、「社会参加」の前提としての「社会復帰」で止まっている観があるが、これを「社会参加」の域に進めるには、精神医学パラダイムそのものへの異議という反精神医学の問題意識に再度立ち返る必要があるかもしれない。

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100億人の地球時代

2017-06-23 | 時評

国連の人口予測によると、世界人口は現在の76億人から2050年に98億人に増え、2100年には112億人に達するという。特にアフリカでの増加が著しく、2100年時点で現時点の3.5倍、45億人に飛躍するというのである。

国別では2024年頃までにインドが中国を抜き首位となり、日本は現在の11位(1億2700万人)から次第に順位を下げ、2100年には8500万人で29位になるとされる。

これをみると、21世紀の人口爆発は先発諸国における貧困解消的な20世紀の人口爆発とは異なり、先発諸国を後追いする後発諸国での貧しさと同居した人口爆発現象である。

それは当然、地球環境のいっそうの悪化を背景に、食料・水不足を惹起し、飢餓や食糧・水争奪戦争を誘発する恐れが強い。筆者はもうこの世にいないが、2100年頃の世界を想像すると恐ろしいものがある。

国連は「持続可能な開発目標」の履行が課題などと優雅なことを言っているが、資本主義体制に手をつけないままでの持続など到底無理であろう。私の願望的予測によれば、2100年前後には世界共産主義革命が勃発することになっているが、人口爆発による持続不能性も革命促進要因となるだろう。

とはいえ、共産主義社会も100億人の地球を維持することができるかどうか、確信は持てない。共産化による貧困の根絶がアフリカやインドにおける人口爆発を抑制することにより、世界人口を適正規模に回復することを願う。

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農民の世界歴史(連載第49回)

2017-06-20 | 〆農民の世界歴史

第11章ノ2 社会主義農業の転換

 20世紀後半期のソ連型の国家社会主義体制は、農政の面でも生産力・生産性双方において限界をさらしていた。最初に大きな転換に動いたのは中国である。中国では毛沢東の没後、文化大革命の大混乱を収拾する過程で台頭した改革開放派政権により、従前の中国農政の中核マシンであった人民公社制度の解体が断行された。
 人民公社に代わって導入されたのは生産責任制と呼ばれる仕組みである。これは、従来の農業集団化を改めて家族農に戻したうえ、各農家が政府から生産を請け負い、その生産物の一部を政府に納入した後、残余は自由に流通させることを認める制度である。
 政府への納入義務が課せられる点を除けば、市場経済的な農政の仕組みが復活したとも言えるが、これにより人民公社時代の生産性の低さが解消され、農民の生産意欲を動因として農業生産力が回復・増強されていったことはたしかである
 しかし、これで問題が解決したわけではなく、小規模農家の貧困は解消されなかった。かれらの生活改善の打開策は、都市への出稼ぎであった。いわゆる「農民工」であるが、これは社会主義を標榜する体制下における資本主義的な潜在的過剰人口の事例の発現と言える。まさに、社会主義と市場経済を掛け合わせた「社会主義市場経済」の特殊産物である。
 しかし、農民は都市に定住しても、人民公社時代の都市/農村分断政策の名残として、農民には都市戸籍が与えられなかったため、都市ではある種の不法滞在者として、社会保障等のサービスを受給する資格がないまま放置されてきた。これに対し、政府は農民工の都市戸籍切り替え策でしのいでいるが、都市に合法的に定住する農民工の増加は離農による農業生産力の低下という資本主義諸国同様の構造問題をいずれ生じさせるだろう。
 これに対し、本家本元ソ連では、その晩期になっても農業集団化政策は固守されていたが、1991年のソ連解体は集団化の一挙解体の契機となった。集団化の中核マシンだったコルホーズは伝統的な家族農への回帰と株式会社形態を含む農業法人制、さらには協働型の農民農場制に置き換えられていった。
 1990年代から2000年代にかけて、こうした脱集団化政策がロシアを含む独立した旧ソ連構成諸国全域で推進されていった。その進度や結果は各国によって異なるが、全体として市場経済を前提とする資本主義的な農政への移行が進展していった。これも農業資本主義の時代の趨勢と言えよう。

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農民の世界歴史(連載第48回)

2017-06-19 | 〆農民の世界歴史

第11章 農民の政治的組織化

(3)日本の農協政治

 総体としては資本主義体制を維持しながら、小土地農民を協同組合に組織化して、農業市場を政府が管理する体制で現在完了的に長期的な成功を収めたのが、戦後日本である。それは農協政治とも呼ぶべき独特の体制であった。
 日本の農協の沿革は戦時中に戦争目的で組織された生産統制組織に由来するが、占領軍は農地改革後の農政の中心組織として、取り急ぎこの旧制を衣替えした新たな農協組織を創設することとした。そのため、日本の戦後農協制度は家族農を中心としながら、中央統制的かつ行政直結型の独異な組織として発達した。
 それは、農地の売買・賃貸を厳しく制約して大土地所有の出現を阻止する農地法と、米麦を中心とした主食農産品の流通を政府が管理し、農家の所得を確保する食糧管理制度とリンクしつつ、混合経済的な管理農政の中核組織として機能したのである。
 同時に、中央指導部(中央会)を中心に全国にくまなく組織された農協が農政を政治的に指導する保守政党の集票マシンとなって、戦後のほとんどを占める保守優位体制の下支えともなったのである。その点、戦前の小作人を中心とする貧農らが社会主義的政党を組織し、農村にも共産主義思想が浸透していた流れを断ち切り、農村部を保守の牙城、まさしく「票田」とするうえで、農協制度は極めて重要な役割を果たしてきた。
 また農協は系列金融機関や病院組織すら傘下に持つ農村の総合サービス組織でもあり、中国の旧人民公社のレベルまではいかないが、農村生活の制度的基盤でもあった点で、おそらく他のいかなる類似組合組織よりも、高い団結力を保持してきた。
 しかし、1990年代以降、新自由主義・自由貿易主義の潮流が日本にも及んでくると、農協の状況も変貌する。すでに、60年代末から自主流通米制度が存在したが、1995年の食糧管理制度の実質的廃止により、農産物を農家が自由に流通させることができるようになったのは大きな転換点であった。
 さらに、09年の農地法大改正による農地の賃貸自由化は資本主義的な借地農業に道を開き、農協のライバルとなり得る株式会社を含む商業性の強い農業生産法人の増加を促進した。2016年には農協法の大改正により、聖域とも言える中央会の監査・指導権が削除され(将来的に廃止)、農協の分権化が図られた。
 内部的にも、離農・後継者断絶による組合員減少により、票田機能も期待できなくなり、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に代表される自由貿易主義の波に政治的に抵抗することも困難になる中、日本の農協政治は重要な岐路に立たされているところである。

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不具者の世界歴史(連載第26回)

2017-06-14 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

障碍者スターダム
 ノーマライゼーションの思潮が生じた頃と機を同じくして、障碍者五輪=パラリンピックが誕生している。1960年、第一回大会とみなされるローマ・パラリンピックが開催されたのである。ただし、当初はパラリンピックと呼ばれず、障碍者競技会の先駆者であった英国のストーク・マンデビル病院の名にちなみ、国際ストーク・マンデビル競技大会と銘打たれていた。
 パラリンピックの名称で定着するのは、1988年ソウル大会以降のことであり、一般のオリンピックと同年・同一都市での連続開催方式も定着した。以来、パラリンピックは回を追うごとに盛況となり、商業的な面でも最も成功した障碍者競技大会となっていることは、周知のとおりである。
 こうしてパラリンピックの定着に至る過程では、リハビリテーション医学の発達に伴い、20世紀初頭頃より、リハビリ目的での障碍者競技が出現してきたことがあった。とりわけ大量の傷痍軍人を輩出した第一次世界大戦は、リハビリを兼ねた障碍者競技が発展する契機となった。これを土台として、傷痍軍人に限らず、障碍者全般を対象とする各種競技が発達していくことになる。
 それに加え、20世紀後半期以降、現在まで続く技術革新は、従来であれば想定できなかったスポーツへの身体障碍者のアクセシビリティーを高め、障碍者のスポーツ参加を飛躍的に促進した。これもまた、「参加」の時代を象徴する現象と言えるであろう。
 今や、有力なパラリンピック選手はスター的存在として、メディア上でも頻繁に取材・紹介され、一般にも知られるようになっている。障碍者スターダムの誕生である。もっとも、歴史を振り返れば、前近代から近世にかけても、障碍者芸人のようなある種のスターは存在してきたが、好奇心の対象としてのフリーク・ショウのスターではなく、社会の真っ当な関心を引く障碍者スターダムの出現は、パラリンピックの隆盛によるところが大きい。
 とはいえ、現行パラリンピックと一般オリンピックとは主催団体が異なり、あくまでも一般五輪の日程終了後に追加的な形で連続開催するという方式にとどまっており、両大会の間にはなお明確な一線が引かれている。
 このような分離開催方式は、ノーマライゼーションという観点からは、なお不充分さが残り、両大会の完全な統合化、さらに種目の性質によっては障碍者・非障碍者混合競技の創設なども将来的な課題として数えられるであろう。
 一方で、パラリンピック選手のように持てる身体能力を伸ばして社会的に活躍できるスター的障碍者とそれがかなわない重度障碍者の社会的格差という新たな問題も生じており、このような障碍者間格差は、後に言及する現代的な形態で再現前しつつある優生思想に何らかの刺激を与える可能性もある。
 障碍者スターダムという点では、芸術・芸能分野も活躍舞台となり得るが、現状、この分野での障碍者スターの姿はあまり見られない。ここには、かつての見世物的な障碍者芸能への否定的な意識が働いているかもしれない。
 しかし、絵画などアートの世界では障碍者アートが注目を集めたり、1987年創設の中国障碍者芸術団のように国際的に高い評価を受ける障碍者主体の総合芸術集団の活動など、旧式の見世物とは異なる障碍者固有の芸術活動も見られるようになっている。

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不具者の世界歴史(連載第25回)

2017-06-13 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

「保護」から「参加」へ
 障碍者を「保護」するため、施設で隔離・管理するという施策は今日でも大なり小なり継続されているが、そうした中で、別の視座が開かれてきた。それは、障碍者を一般社会に受け入れようという潮流である。その端緒は1960年代以降に現れたノーマライゼーションの思潮と実践である。
 この思潮の発祥地は北欧、特にデンマークであった。これは、障碍者を社会から隔離するのではなく、かれらが一般社会で健常者とも対等に暮らしていけるよう社会の側を改良する必要があるという社会改良主義的な発想に基づいており、北欧で有力な社会民主主義とも合致する考え方であった。
 この思潮は欧米諸国を中心に拡散され、その最初の国際的集約として、1975年、国際連合(国連)における「障碍者の権利宣言」に結実した。これは従来、先行する国際人権条約上明確でなかった障碍者の基本的人権を改めて確認する意義を持つ国際宣言であった。
 十三項目の宣言文の中でも、「障碍者は、その家族または里親とともに生活し、すべての社会的・創造的活動またはレクリエーション活動に参加する権利を有する。障害者の居所に関しては、障碍者の状態によって必要とされ、または、かれらがその状態に由来する改善のため必要とされる場合以外、差別的な扱いを受けない。もし、障碍者が施設に入所する絶対の必要性がある場合でも、そこにおける環境や生活状態は、同年齢の人の普通の生活に可能限り似通ったものであるべきである。」とする第九宣言には、ノーマライゼーションの思想が盛り込まれていると言える。
 同時に、この宣言文においては、「障碍者がすべての社会的・創造的活動またはレクリエーション活動に参加する権利」として、「参加」に言及されていることが注目される。これは、障碍者が「保護」されるばかりでなく、より積極的に社会に「参加」できることの保障を求めるものである。
 この「宣言」を起点として、1981年は「国際障碍者年」に指定され、83年‐92年期を「国連・障害者の十年」と位置づけ、初めて障碍者の権利向上が国際的な共通課題として明示された。
 ところで、「参加」の権利を明言した「宣言」には、ノーマライゼーション=対等化からさらに進んで、障碍者を積極的に社会に迎え入れるインクルージョン=包摂化の思想が現れていた。しかし、インクルージョンを空理念に終わらせないためには、社会の側でも様々な障壁を除去していく必要がある。
 その最初の一歩は段差解消に代表されるようなバリアフリー化であるが、それにとどまらず、様々な道具・設備の規格を障碍の有無を問わず広く普遍的に使い勝手のよいものにしていくユニバーサル・デザインの理念と実践も現れた。これには、20世紀末から21世紀にかけて進展した情報技術革新が反映されている。
 そうした新展開を踏まえつ、2006年には国連障害者権利条約が採択された。これは障碍者の基本的権利を網羅的に保障するとともに、いまだ「宣言」にとどまっていたものを法的効力を持つ条約に高めた意義を持つ。
 そこでは、物理的なバリアフリーを越えて、障碍者が様々なサービスを享受するうえでの可能性・容易性を広げるアクセシビリティーの権利が明示されていることも大きな前進点である。21世紀前半期は、この条約を踏まえた障碍者の社会参加の時代に入ったと言えるであろう。

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不具者の世界歴史(連載第24回)

2017-06-12 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

社会主義体制と障碍者
 優生政策が、ナチスのみならず、「先進」資本主義諸国にも広がった背景には、健常な労働力確保という共通目的が存在した。では、労働者階級の国を公称した社会主義国家ソ連では、さぞ優生政策が実行されたかと思いきや、事情は異なっていた。
 その背景には、ソ連特有の教条的な生物学説の影響があった。その主唱者トロフィム・ルイセンコの名を取りルイセンコ学説と呼ばれるその説は、メンデル以来の遺伝学や自然選択理論を真っ向から否定し、環境因子による形質変化とその遺伝を主張するものであった。
 ルイセンコ学説は弁証法的唯物論を標榜してはいたが、実質的に見て、後天的に獲得された形質が遺伝するとしたラマルク学説の焼き直しに近いものであった。それでも、遺伝より環境に優位性を置くルイセンコ学説はスターリン治下で正統学説とみなされ、これに反対する科学者は弾圧された。
 このルイセンコ学説は謬論ではあったが、優生学が依拠したメンデル遺伝学や進化論に対立したがゆえに、優生思想がソ連で流布されることを防ぐ役割は果たしたようである。そのため、ナチスのそれとしばしば対比されるスターリン時代の大虐殺は優生学的な観点からのものではなく、あくまでも政治的な粛清の性格の強いものであった。
 こうしてソ連社会主義体制下で優生政策が展開されなかったことは、ソ連時代の障碍者政策が充実していたことを意味していない。実際、ソ連の障碍者政策は全然進歩的ではなかった。それを象徴するのが1980年モスクワ五輪当時のパラリンピック開催拒否宣言である。
 その際、ソ連当局が放った言葉「ソ連に不具者は存在しない」は、滑稽な弁明であると同時に、ソ連における障碍者の地位を物語っていた。実際のところ、国を挙げてエリート五輪選手の養成に注力していたソ連では、対照的にパラリンピック選手の養成は手付かずだったのだった。
 ソ連時代の障碍者政策の詳細については未解明の点も残されているが、労働能力に欠ける障碍者は二級市民扱いであり、放置または隔離されていたとされる。ただし、視覚障碍者に関しては、都市ごとにコロニーが提供され、優遇されていたというが、障碍者を集住させるコロニーという発想も隔離保護政策の一種である。
 かくして、優生政策を追求することのなかった社会主義体制も、「保護」の名による障碍者統制という点では、特に進歩的と言えるところは何もなかったのである。ソ連より発展度の低い社会主義諸国では、なおさらのことであったろう。

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農民の世界歴史(連載第47回)

2017-06-06 | 〆農民の世界歴史

第11章 農民の政治的組織化

(2)北欧の農民政党

 農民の政治的組織化という点で早くから成功を収めてきたのは、北欧諸国である。北欧諸国は封建的な農奴制が弱く、農民層の自立が早くから進んだことにより、自作農民の近代政治的覚醒も早くから進み、農民の政治的組織化が都市労働者のそれと同時並行的に進展した。
 これらの農民政党は古典的な重農主義的自由主義を理念とする政党として出発しているが、中でも最も歴史が古いのは、デンマークの左翼‐デンマーク自由党である。当初は連合左翼の名で1870年に結党された同党は、貴族層に基盤を置く保守政党に対抗して地方農民層を代表する政党として誕生したことから、「左翼」の名となった。
 しかし、20世紀に入って都市労働者に基盤を置く社会主義的な社会民主党が台頭すると、対抗上中道主義を鮮明にしたため、党名にもかかわらず、社会主義的政党ではない。以来、今日まで社民党と二大政党政を構築し、交互に政権を取り合う存在となっている。
 類例は、スウェーデンの中央党である。1913年に農民同盟として結党され、57年に改称した同党も農民を最大支持基盤とする農民政党であるが、デンマークほどに主要政党とはならず、社会民主党と対立する保守系政党と連立を組むことが慣例として定着した。
 ノルウェーにも、1920年に農民党として結党された中央党がある。同党もスウェーデンのそれと似て、保守系政党との連立を基本としてきたが、2005年に初めて左派の労働党に連立を組み替え、左派側ににじり寄った。
 アイスランドでは、進歩党が農民政党として勢力を持つ。ただし、漁業が主産業である同国では、漁民の利益代表としての性格が強いことが特色である。デンマーク領時代の1916年に結党された同党は、1945年の独立後、右派の独立党と二大政党政を形成し、しばしば政権党にもなってきた。
 他方、歴史的に特殊な役割を果たしたのはフィンランド中央党である。同党は、フィンランドがまだロシア領に属した1906年、農業同盟の名称で結党された。その名のとおり、農民の利益を代表する政党であり、地方農村を支持基盤とし、中央集権的なロシア支配への対抗から誕生した政党であった。
 農業同盟はロシア革命後のフィンランド独立、さらにフィンランド内戦を生き延び、労働者に基盤を置く社会民主党よりも先に最大政党として台頭していった。
 第二次大戦後はしばしば首相を輩出し、連立政権を主導する存在となるが、中でも1956年から82年まで連続して大統領を務めたウルホ・ケッコネンは、冷戦時代真っ只中にあって、資本主義陣営に属しつつ、隣接するソ連と実質的な同盟関係を結び、フィンランドの安全保障の担保とする微妙政策で成功を収めたのである。
 当時のフィンランド大統領は内閣と協働して権力を行使する存在であり、25年以上も続いたケッコネン体制にはいささか権威主義的な側面も見られたが、基本的には多党制に基づく議会制が保持されていた。その間、農民同盟は1965年以降、中央党に改称し、中道主義を標榜するリベラル政党としての性格を明確化にして、しばしば社会民主党とも連立してきた。
 20世紀以降の北欧諸国はいずれも資本主義体制を維持しつつ、それを社会民主主義的な政策により大きく修正する福祉国家体制を程度の差はあれ敷いてきたが、その中にあって中道主義を標榜する農民政党は、まさに左右の中間に位置して、バランサーとしての役割を果たしてきた。
 自作農民は「持てる者」として、政治的に保守化しやすい共通傾向を持つが、北欧農民はある種の進歩的保守主義の傾向が強いことが、こうした独特の中道リベラル政党への組織化を現象させてきたと言えるであろう。

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農民の世界歴史(連載第46回)

2017-06-05 | 〆農民の世界歴史

第四部 農業資本主義へ

第11章 農民の政治的組織化

(1)英米農民の状況

 『資本論』のマルクスは、資本主義の発達につれて農業がどのように変化するかについて、次のように予測していた。

資本主義的生産様式の大きな成果の一つは、この生産様式が一方では農業を社会の最も未発展な部分のただ経験的な機械的に伝承されるやり方から農学の意識的科学的な応用に、およそ私的所有とともに与えられている諸関係のなかで可能なかぎりで転化させるということであり、この生産様式が土地所有を一方では支配・隷属関係から完全に解放し、他方では労働条件としての土地を土地所有からも土地所有者からもまったく分離して、土地所有者にとって土地が表わしているものは、彼が彼の独占によって産業資本家すなわち借地農業者から徴収する一定の貨幣租税以外のなにものでもなくなるということであ(る)。

 この言説の前半部分、すなわち農業の科学化はそのとおりになったが、後半の借地農業形態はまだ全世界で普及しているとは言えず、発達した資本主義国を含め、土地を所有する農民による自作農が広く行なわれている。
 しかし、そうした自作農らも、押し寄せる資本主義の波の中で変化を強いられていく。その点、資本主義祖国の英国では、産業革命後、独立自営農民ヨーマンが解体され、おおむね賃金労働者に転化されていったことは以前に見た。
 農業にとどまったヨーマンは土地を集約し、大規模農業を営んだり、地主階級のジェントリーから借地して農業経営に当たるなどし、新たな資本主義的農民階級が形成された。ただ、その数は少なく、英国では農民独自の利害を代表する政治政党が結成されることはなかった。
 それに対し、自由な開拓農民によって築かれたとも言ってよい米国では事情が異なった。南北戦争後、急速な資本主義的発達の中、南部の困窮した綿花農民や中西部の小麦農民らが北部主導的な民主/共和の二大政党政のエリート政治への反発から、1891年、農民団体を基盤に人民党を立ち上げたのである。
 人民党は資本主義批判と農本主義を基本理念とし、累進課税導入、当時は間接選挙制だった上院議員選挙の直接選挙改革、基幹産業への政府規制など、当時としては急進民主主義的なマニフェストを掲げた。人民党は二大政党政の狭間で、民主・共和両党と部分協力する作戦で支持拡大を図った。
 その結果、1892年大統領選挙では、落選したものの初めて独自の候補者の擁立に成功し、19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの州知事や上院議員を輩出する勢いを見せた。
 これに対し、南部に浸透していた民主党は人民党の政策の多くを自らに取り込む懐柔作戦で応じ、人民党が独自候補の擁立を検討していた1896年大統領選挙では人民党との協力関係を構築し、自党のブライアン候補支持を取り付けることに成功したが、同候補は落選した。
 この選挙協力が人民党にとってはあだとなり、選挙後、人民党はすみやかに衰退に向かうことになる。最終的に1908年に解党された人民党は20年にも満たない命脈であったが、硬直した二大政党政を揺さぶる第三極として、米国政治の中にポピュリズムの潮流を起こす契機となったことはたしかである。とはいえ、米国における農民の政治的組織化は歴史的な失敗に終わったのである。

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