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近代革命の社会力学(連載第149回)

2020-09-28 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(3)ナショナリズムの再興まで
 「ウラービ運動」がイギリスの軍事介入によって挫折すると、イギリスのエジプト支配がかえって強まり、エジプトはムハンマド・アリー朝を傀儡化した実質上の植民地と化す。この間、イギリスから派遣されてきたイブリン・ベアリング総領事が、1907年まで事実上のエジプト統治者として支配した。
 結果として、エジプトにおけるナショナリズムの動きは、閉塞を余儀なくされた。一方、当時、エジプト支配下に置かれ、財政難に対処するべく、重税による収奪が強化されていたスーダンでは、逆の動きが見られた。
 ここでは、1881年以降、船大工の家に生まれたヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドが、イスラーム神秘思想に基づき、「マフディ(救世主)」を称し、エジプトからの武装解放運動に乗り出していた。
 マフディ軍団はゲリラ戦に長けており、イギリスの支援を受けたエジプト軍を破ったばかりか、1885年に中国の太平天国の乱の鎮圧で活躍したゴードン将軍に率いられたイギリス軍をも撃破し、スーダンに独自のイスラーム国家を樹立することに成功した。
 このスーダンにおけるマフディ国家樹立も、ある種の独立革命とみなすことができるものではあるが、その基本は厳格なコーラン解釈とジハード(聖戦)思想に基づくイスラーム原理主義体制であり、近代革命の系譜からは外れる反動的な性格が強いものではあったが、遠く20世紀後半のイラン革命の先駆けとも言える側面はあった。
 ムハンマド・アフマドは体制樹立後間もなく病死し、跡目は彼の有力な腹心の一人で、アラブ系遊牧民バッガーラ人のアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドが継ぐ。そのため、これ以降のマフディ国家は、アラブ系主導の体制となる。
 アブダッラーヒ治下でさらに13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で、実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 ともあれ、10年以上にわたり事実上の独立を維持したマフディ国家は、エジプト側には直接の影響を及ぼさなかった。これは、同じイスラーム系とはいえ、ムハンマド・アリ―朝下で西洋近代化が進展していたエジプトでは、イスラーム原理主義的な思想が支配的となる素地がなかったためである。
 対照的に、エジプトでは、フランスで教育を受けた近代法律家ムスタファ・カミルが1895年以降、穏健な近代的民族運動を立ち上げた。この運動は都市ブルジョワ階級や時のエジプト君主アッバース・ヒルミー2世からも支持された。
 そうした中、1906年、鳩猟をめぐる英軍兵士と地元村民の間に起きた流血事件で英軍兵士を殺害した地元村民が死刑を含む厳罰に処せられたデンシャワイ事件は、英当局の苛烈さを印象付け、反英感情を高めた。結果として、翌年、イブリング総領事が本国帰還し、四半世紀近くに及んだイブリング支配を終わらせる契機ともなった。
 この事件はカミルの民族運動をより政治的なものに変え、1907年には正式にワタニ党(民族党)として旗揚げした。この党はエジプトにおける最初の近代政党であると同時に、第一次世界大戦前のエジプト民族運動のセンターとして象徴的な役割を果たすことになる。


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