ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第476回)

2022-08-16 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(2)クルド人勢力の糾合と決起
 「国を持たない民」であるクルド人は、トルコやイラクのほか、シリアでも少数民族として北東部のロジャヴァ地方に集住してきた。とはいえ、アラブ系主体のシリアではクルド人は異分子であり、歴史的に迫害・差別を免れなかった。
 特に深刻なのは、シリア国籍が与えられず、無国籍状態に置かれているクルド人が多かったことである。無国籍では外国人と同様の扱いであり、社会サービスの多くも受けられず、無権利状態で放置されるからである。
 このような法的・社会的な被差別状況は、クルド人をしてそもそもシリア国民という意識を希薄にし、シリア革命の早い段階から、クルド人勢力に独自行動の道を歩ませるという作用をもたらした。
 シリアのクルド人勢力としては、「アラブの春」に先立つ2003年に発足したクルド民主統一党(PYD)が既存していた。この党はトルコ国内で長年武装闘争を続けてきたクルディスタン労働者党のシリア分派として結党されたもので、当然ながらトルコ側政党の影響下にあった。
 PYDは2004年にロジャヴァ地方の中心都市カーミシュリーで発生した民族衝突事件を機に固有の自警団的民兵組織としてクルド人民防衛隊(YPG)を創設していたが、本格的な武装蜂起はシリア革命開始後のことである。
 一方、PYDとは別に、クルド民族主義者により、シリア革命渦中の2011年10年にクルド民族評議会(KNC‎‎)が結成された。この党は多数の政党の寄り合い組織であったうえに、トルコ政府寄りと見られており、PYD支持者からは多くの批判を受けた。
 KNCはシリア国民評議会にも参加していたが、クルド人自治をめぐり国民評議会主流派のアラブ人勢力との間に溝があった一方、PYDとの対立も激化したため、イラクのクルド自治区の指導者マスード・バルザニの仲介を得て、2011年6月、同自治区の首府アルビールにて、PYDとKNC‎‎の糾合とクルド最高委員会の創設が合意された。
 このアルビール合意は、一つの転換点となった。ロジャヴァ地方でも2011年3月以降、民衆の抗議行動は始まっていたが、小規模なものにとどまっていたところ、同年7月、如上最高委員会の指揮下に編入されたYPGが決起し、まずトルコ国境の町コバニを占領したのに続き、主要都市を点状に制圧・占領していった。
 こうして充分な兵力を擁しないYPGの軍事行動が円滑に進んだのは、自由シリア軍と対峙するシリア政府軍がロジャヴァ地方から戦略的に撤退していったためであり、言わば不戦勝であったが、結果として、武装組織によりつつ、ほぼ無血の革命が達成されることになった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿