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近代革命の社会力学(連載第454回)

2022-07-07 | 〆近代革命の社会力学

六十五 キルギス民主化革命

(3)革命政権の樹立と展開
 2010年の革命は、2005年の革命と同様に、暴動を伴うものとなり、その過程で深刻な地域間/民族衝突を内包しながら、前回と比べても、野党勢力は結束し、迅速に行動したと言える。
 事実上の革命政権となる暫定政府はバキエフ大統領が正式に辞職を表明する前の2010年4月7日に設立され、この種の革命政権の指導者としては稀有な女性指導者ローザ・オトゥンバエワが政府首班に就いた。
 オトゥンバエワは外交官出身の社会民主党員で、90年代の独立直後にも短期間外相を務めたが、05年革命にも参加し、バキエフ新政権の誕生にも関わりながら、政権の独裁化を批判して短期で離反していた人物である。
 そうした首班の経歴からしても、この暫定政府はまず外交的な面で成果を上げた。ロシアの支持を取り付けたことがその最初の成果である。ロシアの革命関与は公式には否定されているが、当初は支持していたバキエフ政権をロシアが見限ったことは確かであり、これも政権崩壊を早める要因となった。
 ロシアがバキエフ支持を取り下げたのは、政権の中国への傾斜に加え、アカエフ前政権時代からアフガニスタン戦争対応のためにキルギスに置かれてきた米軍出撃基地の撤去をロシア及び野党勢力が求めていたことに対し、バキエフ政権が消極的であったことも関わっていると見られる。
 当初、バキエフは支持基盤の南部に逃走し、辞職を拒否して反攻の機を窺っていたが、ロシアやベラルーシの仲介を得て辞職に同意し、最終的には家族らとともにベラルーシに亡命した。
 一方、暫定政府は憲法改正国民投票の6月実施を発表し、オトゥンバエワは5月、暫定大統領に就任したが、バキエフ支持基盤の南部では、バキエフの辞職後も、5月以降、支持勢力による反革命騒乱が発生、6月にはキルギス人とウズベク人の民族衝突も発生するなど、南北間内戦の危機も懸念される状況となる。
 しかし、そうした不穏な情勢下、6月の国民投票で憲法改正が90パーセント超の支持を受けて可決されたことで、革命は新たな局面を迎える。
 新憲法は大統領をほぼ象徴的存在に限局し、議院内閣制を基調としたうえ、議会では一政党が120議席中65以上の議席を獲得することを禁ずることで独裁につながる巨大与党の形成を阻止するユニークな条項も置かれた。―ただし、連立による巨大与党連合の存在は阻止できず、後の憲法改正で議員定数が90議席に削減されたことで、この制限条項の意義は薄れた。
 この後、2010年7月には、従前の暫定政府から、10月予定の総選挙及び翌年に延期された大統領選挙までのプロセスを監督する実務的な過渡期政府に移行し、改めてオトゥンバエワが大統領に就任した。


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